< 戦争と小学児童 >



 おそろしいことである。全国各地の小学校もまた、少年・少女の知識・道徳の練磨や、性格・感情の陶冶の場でなくなって、まるで一種の狂熱・煽動の道具になろうとしている。

 見よ。いまや小学校の児童が、朝夕口にするところは、征露の軍歌である。見るところは、陸海軍の絵画である。おこなうところは、戦争ごっこである。そして、ひたすら戦争を謳歌し、戦争を尊重し、戦争をよろこんで、くるいまわっているようである。極端なものは、すなわち、遊戯において戦争の真似ごとをするばかりでなく、また実際に金銭を政府に献納して、それでもって、報国の志をあらわす、という者が、つぎつぎに出てくるようになった。教師は、これをほめ、父兄はこれをよろこび、社会と『社会の木鐸』である新聞紙は、口々にこれをほめそやして、いわゆる『挙国一致』の例証にしているもののようである。ああ、これは、ほんとうにほめなければならない、よろこばなければならない、賛美しなければならないことなのであるか。

 思うに、彼ら幼稚な少年・少女に、国家・政府の何ものであるかが、わかっているのであろうか。国際外交がなにものであるかが、わかっているのであろうか。戦争がなにものであり、その原因・影響・結果のなにものであるかが、わかっているのであろうか。わかることができるだろうか。はじめから、そのなにものであるかが、わかっていないのだから、どうしてまた、その謳歌し、随喜し、尊重しなければならない根本の理由を理解することができようか。はじめから、そうである根本の理由がわからないで、そして、これがために熱狂している。これは、彼らがふだん、鶏をたたかわせ、犬を追いかけ、魚を苦しめ、虫を殺して、それでもって、愉快としている性情と、どこにちがっている点があろうか。さよう、これはそのまま、彼らの野生のあらわれである。殺伐の心である。競争の念である。虚栄の情である。もし人がいて、その児童が、鳥獣・虫魚をいじめ殺して、その野生・殺伐・競争・虚栄の情念を満足させようとするのを見ていれば、彼は、かならず走りよって、これをやめさせるであろう。にもかかわらず、その目的物が、鳥獣・虫魚でなくて、いったん、ロシアという文字がつく場合は、これを称賛し、これをほめちぎり、これを奨励・煽動してやめないのは、奇怪千万といわなければならない。そして、今日の教師・父兄、および社会は、毎日、この奇怪千万な行為をくりかえし、得意になって、いわく、小学の児童もまた、十分に国家を愛することを知っている、と。

 このようにして、現在、全国の少年・少女は、忠信・孝悌をならわないで、争闘・殺伐の野生をのばそうとしているのである。教室で学課の勉強をしないで、鉄道に兵士を見送ることに熱心なのである。財富をどうしてつくらねばならないかを知らないで、金銭献納の虚栄をほころうとしているのである。平和が尊ばねばならないことが教えられないで、戦争を喜ばねばならないことが教えられているのである。鋤・鍬をとる労働の大切なことがわからないで、銃剣をかつぐ愉快にふけろうとしているのである。人を救い人を活かす人道の高いことに気がつかないで、人を苦しめ人を殺す戦争の勇壮を信じようとしているのである。そして、できあがってくる将来の国民は、はたして、どんな国民になっているだろうか。文明の国民か。正義の国民か。道徳の国民か。あの連中のいわゆる大国民か。いや、ただ戦争のやじ馬にすぎない。さよう、やじ馬にすぎない。昔、スパルタ人が児童を教育するのは、もっぱら戦闘に習熟するのをもって目的とした。自分で掠奪、あるいは、こっそりぬすんでくるのでなければ、その食物をさえ与えなかった。いくらか成長して、戦場にのぞむ場合には、母親がいましめて、負傷して楯を杖のかわりにして歩いて帰れ。でなければ、楯に乗せられて帰れ、と言った。そして、彼らは、ギリシャ諸邦のうちで、もっとも武勇・智謀のすぐれた民族になることができた。それでも、その結果が、どうなったか。あの、自由を尊び、平和を重んじ、人類の長い歴史の流れにおいて、その文明の光が世界を照らしたアテネ人に比べて、高下、優劣は、天地のひらき以上のちがいがあるではないか。

 われわれは、わが国の小学校の現状を見て、その教育が、間違いなくスパルタ人に輪をかけたものがあることを憂慮している。まったく迷惑なことである。戦争に酔っぱらっている社会に生まれた少年・少女よ。孔子曰く、『かの人の子をそこなう』と。ああ、人の子の本性が、ほんとうに目の前で破壊されているのである。(明治37年3月20日)





< 戦争と道徳 >


 戦争は、罪悪である。これは、たれもが否定することのできないところだ。それなのに、彼らは、どうして戦争に賛成し、これを煽動しようとするのか。

 彼らいわく、戦争禁絶の理想はよろしい。だが、現時における国際の道徳がまだこれを実行する段階に達していないのは、どうするつもりか、と。さよう、国際的道徳の水準は、まだたいへんひくい。戦争がおこるのは、ときにもののいきおいとして、やむを得ないことがある。けれども、これは、ただやむを得ない、というだけの話である。やむを得ないのと、戦争を讃美し、煽動するのとでは、その意味が、ぜんぜんちがってこなければならないのである。

 思うに、戦争がおこるのは、たとえ、やむを得ないとしても、すでにその罪悪であることがわかった以上は、われわれは、どこまでも戦争に反対し、戦争の防止に努力すべきではないか。考えてみるがよい。国債の道徳がひくいのと、同じような理屈である。ここに、個人があって、いうには、私は聖人・君子ではない。いますぐ聖人・君子のりっぱな行為をすることができない、と。これは、まことにやむを得ないことであろう。けれども、彼は、いますぐ聖人・君子になることはできなくても、それでも、みずから努力して、悪をさけて善にうつり、ほんのすこしでも、聖人・君子の領域に近づくのは、よりよき人生のための責務ではないか。それにまた、私はいますぐ聖人・君子になれないから、罪悪をおこなってもよろしい、というならば、これは、自爆自棄なもので、断じてこれをゆるすことができない。そして、あの、国際道徳の水準のひくいのを口実にして、戦争の罪悪であることを知りながら、なお戦争に賛成し、これを煽動する者は、まちがいなく、さきのおかしな個人と同類ではないか。


 彼らは、またいわく、戦争は、ワシントンがやり、クロムウェルがやり、リンカーンがやり、湯武がやった行為である。それでもまだ、罪悪なのか。たとえ罪悪であるとしても、彼らの戦争行為を見ていると、まことにやむを得ない勢いではないか、と。

 さよう、彼らは、戦争をやった。けれども、戦争は罪悪である。だれが戦争をやっても、罪悪である。われわれは、つねに彼らを尊敬している。けれども、彼らが尊敬にあたいする根本の理由は、彼らが戦争をやったという行為にあるのではなくて、ほんとうは、彼らが人民の権利と自由と利益と幸福とをもって、みずからの生命としていたがためにすぎない。

 もし、当時、道徳の水準がひくいから、やむを得ないとして、かりにソクラテスをその獄中から脱走させたり、キリストをローマの官吏に抗議させたり、伯夷が武王の軍を助けて周の粟を食べたりするような、すべて反対の行動をとらせたとするならば、今日の戦争論者は、テーブルをたたいて大よろこびをするであろう。だが、そのソクラテスであり、キリストであり、伯夷である根本の理由は、どこにあるのか。よく考えてみると、彼らの人格が、クロムウェル、ワシントン、リンカーン、湯武にくらべて、一段高い根本の理由は、ほかでもない、その一身をもって、生きた道徳そのものに純化して、思いのこすところなく、おちつきはらって、真理にささげたがためではないか。われわれが、人生における永遠の道徳の理想として、あおぎみる者は、両者のうちのどちらであろうか。

 個人がいますぐ聖人・君子になることができなくても、われわれは、どこまでも、これをすすめて、努力していかなければならない。ひとり国家だけが、自爆し、自棄してよろしい、という道理があろうか。劉備が、悪はどんな小さなことでもしてはいけない。善はどんな小さなことでもしなくてはいけない、といったことがある。ましてや、その規模の大きな国家の場合は、いっそう自戒しなければならない。


 戦争は、ほんとうにさけることができないのか。

 日本の天皇は、平和を愛している。ロシアの皇帝も、平和を願っている。両国の行使は、互いに平和を望んでいる。英・米・独・仏の政府もまた、平和を求めている。世界各国の平和労働者は、みな戦争から生じる被害に戦慄して、いっせいに平和を思わないものはない。それでも、戦争はさけられない、という。奇妙である。不思議である。

 ロシアが満州から撤兵しないがため、というのか。満州の問題は、日露交渉の主題になっていない、というではないか。満州の解放のため、というのか。満州の解放は、アメリカと中国の条約が、これを公認して、ロシアもまた、これに賛成しているではないか。それでも、戦争はさけられない、という。なにゆえにさけられないのか。奇妙である。不思議である。

 ロシアが朝鮮をとる、というのか。とられる側の朝鮮は、平然として知らん顔をしている。ひとり日本だけが、大騒ぎをしなければならないのか。ロシアが日本をとる、というのか。天皇の勅語は、列国の親睦がますますかたまってきた、とのべているではないか。これでも、戦争はさけられない、という。奇妙である。不思議である。

 ロシアが憎い、というのか。相手が憎いために戦争はさけられないのか。奇妙である。不思議である。

 奇妙な今日の戦争論者の頭脳は、われわれ平民の常識において、とても不可解である。(明治37年1月17日)





< 兵士のまちがった思想 >


 現時の兵士とその父兄のあいだに、おそろしく、またうけ入れてはならない、まちがった思想にとらわれている者が、たいへん多い。なんであるか。従軍の指名にもれるのを、非常な恥辱、あるいは、非常な不利益と考えることが、これである。われわれは、いろいろな話を耳にしている。毎日、兵営において健康診断をうけている予備・後備の兵士は、みな、ことさらに勇みかえって元気を装い、お国の役に立つことを態度にしめさない者がない。

 ある一人は、たいへん悪性の持病で、もし汽車・汽船の旅を重ねれば、途中で倒れるのがハッキリしていたので、これを除外したのに、彼は、ガンとして応じないで、足を踏みならして自分の勇気を見せていたのであった。

 またある一人は、病み上がりと思しく、本人の骨格が見ておられないほど貧弱だったので、むろん、ダメだと診断を後回しにされたのに、いつの間にか姿が消えうせた。方々探しまわった結果、彼は、その不合格を察して、診断を受ける人々との間に紛れ込んでいたので、引っぱり出して、不合格を言い渡した。ところが、彼は、涙を流して従軍を願い出て後へ引かないため、それぞれの方面に照会のうえ、輪卒に採用した。

 ああ、この病人は、従軍の途中、病気で死ねば、いったいどんな名誉があるのか。国家は、なんの利益するところがあるのか。それでも、やはり、かわいそうだと思わずにはいられない。彼らは、従軍にもれるということを、非常な恥辱、と迷信しているからである。またさきごろ、衛生隊でやといあげていた三人の兵士を解任したところが、彼らは、帰郷することを承知しない。国もとの父兄の手紙を差し出して動かないので、手にとって見ると、その文意は、平時におめしあげになっていた者が、戦時に解任されるのは、なにか不都合があったためであろう。不都合がないとすれば、無理にでも従軍を願わねばならない。そうでなければ、帰郷しても家に寄せつけることはできない。村の衆に対して、あわせる顔がない、云々。

 彼ら父兄もまた、従軍にもれる、ということを非常な恥辱、と迷信しているのである。このような事例は、いちいち数え切れないほど、沢山ある。

 国家の目的をもって、戦争にあり、と信じ、国家のために尽くす、ということは、そのまま、従軍を意味する、と思い込み、軍人になることをもって、人類以上の階級に上ったかのように考えるのは、現時の兵士とその父兄の間における間違った思想であって、そして、その弊害が酷く、受け入れることのできない、極度に警戒しなければならないものになってきている。なぜならば、一国の国民をあげて、戦争をこのみ、戦争に狂奔させる最大の主因は、疑いもなく、この間違った思想に基づいているからである。そして、歴史的に見ても、武断政治・軍隊政治の惨禍は、間違いなく、このようにして助長されているからである。

 従軍にもれるのを恥辱とするのは、まだ大目に見てよい。彼ら多くの兵士のなかで、その仕事を投げ出し、その妻子とわかれることも気にとめず、無理やりに従軍を願う者、たいへんさもしい虚栄の心や、利益の打算に駆り立てられている者が、少なくない。彼らは、凱旋の日、軍帽が頭上にあり、勲章が胸に光り、サーベルの音を鳴らし、巻き煙草の煙をふかせば、村中の老若男女が、その前に平伏する光景を想像して、口には出さないが、心中に愉快でたまらない衝動がある。これは、君たちが生涯の堕落に向って、その第一歩を踏み出したものであることに、誰も気がついていない。

 知るがよい。兵士よ。その父兄よ。国家は、戦争をもってその目的をするものではない。衣服がなければならない。食糧がなければならない。道徳がなければならない。いや、すでに衣服があり、食糧があり、道徳があれば、戦争がなくてもよろしい。軍人がなくてもよろしい。個人が国家に尽くす根本の道は、忠実に自分の職分をつくせば、これだけでよいのである。思うに、ただ自分の職分に忠実に生きる者は、たとえ一粒の米をつくり、一片の金を掘るにすぎなくても、その人が、そのまま天下第一品の人格であって、国家第一の忠臣であろう。あの、生きるか死ぬかわからない戦場で、金鵄勲章をかけるようなのは、賭博をこのんだ袁彦道の亜流にすぎない。なんの名誉と光栄があろうか。兵士よ。その父兄よ。一日も早くその間違った思想を取り去って、くだらん連中の煽動に乗せられてはいけない。(明治37年2月21日)





< われわれは絶対に戦争を否認する >


 『すべての時と所におけるすべての罪悪を全部あつめてみても、一つの野戦によって生じる害悪をこえることはない』(ボルテール)


 『戦争は、人間の財産と身体に関してよりも、人間の道徳に関して、もっと大きな罪悪をおかす』(エラスムス)


 『大砲と火器は、残忍で嫌悪したくなる機械である。これは、悪魔の直接の勧奨によってうまれたものである、と私は信じている』(ルター)


 時がきた。真理のために、正義のために、社会・万民の利益と幸福とのために、戦争防止を絶叫しなければならない重大な時がきた。

 思うに、人類のエネルギーをみちびいて、もっぱら博愛の道をつくさせるがために、人種の区別、政体の異同を問わず、世界をあげて軍備を撤去し、戦争を禁絶するのが緊急・重要であることは、『平民新聞』創刊の日に、われわれは、すでに宣言した。その後の紙上で、とくにこの問題に向かって全力を傾注する機会をまだもてなかったが、それでも、各欄・各項で、事に接し物にふれて、つねにこの主旨を説明・評論・報道につとめてきたことは、具眼の読者が諒解せられるところであろう、と信じている。

 そして、いまや日露両国の関係は、ずるい男が、紛争をこのんで、しきりに人心を扇動し、短慮な人間が計略をあやまって、ふかく危地におちいり、反発・離反・衝突をくりかえして、日一日と、ひどい状態になっている。中国の故事にいうとおりで、おそろしい虎が、みたびも盛り場にあらわれてくると、正気の人間までが、気ちがいのあとを追うて、逃げ惑わずにはいられない。勢いのおもむくところ、もののハズミで、横死・流血の戦争の突発もまた、予測できないような切迫した状態になっている。高い嶮しい山から、転落するような危険が感じられている。そればかりではない。わが同胞中、ある者は、戦勝の虚栄を夢想するがために、ある者は、時流にのってボロもうけを稼ぐがために、ある者は、好戦の野心を満足させるがために、焦燥し、熱狂し、出兵をとなえ、開戦を叫び、まるで気味の悪い悪魔の咆哮のようである。この重大な危機において、われわれは、われわれ同志の責任が深くなってきたことを痛感している。さよう、われわれが、大いに戦争防止を絶叫しなければならない時がきたのである。

 われわれは、絶対に戦争を否認する。これを道徳の立場から見れば、おそろしい罪悪である。これを政治の立場から見れば、おそろしい害毒である。これを経済の立場から見れば、おそろしい損失である。社会の正義は、これがために破壊され、万民の利益と幸福とは、これがためにふみにじられる。われわれは、絶対に戦争を否認し、戦争の防止を絶叫しなければならない。

 ああ、政府も民間も、戦争のために、熱狂しない者はなく、多数国民の眼が、これがためにくらみ、多数国民の耳が、これがためにツンボになっているとき、ひとり戦争防止を絶叫するのは、片手で大河の流れを食い止めるよりも難しいことを、われわれは十分に知っている。それでも、われわれは、真理・正義の命じるところにしたがって、信じるところをいわなければならない。絶叫しなければならない。すなわち、今月今日の『平民新聞』第十号をもって、全紙面をあげて、これにあてたのである。

 ああ、わが愛する同胞よ。今からでもおそくないから、その人間の本性に立ちかえれ。その熱狂からさめよ。そして、君が、刻一刻・歩一歩、おちいろうとしている罪悪・害毒・損失からまぬがれよ。大自然のもたらす災害は、まださけることができない。が、人間のつくりだす戦争は、さけることができる。戦争がいったん爆発すると、その結果の勝と敗にかかわらず、つぎにやってくるものは、かならず無限の苦痛と悔恨であろう。真理のために、正義のために、社会・万民の利益と幸福のために、半夜、君の良心に問いたまえ。(明治37年1月17日)




(幸徳秋水)