< 仏教の特色 >


〜 宇井伯寿 〜





 仏教は前来論述した如く全く人間道を説くものに外ならぬから、格別その特色というべきものの存すべき所以はないといえよう。若し強いて特色をいうとすれば、それは動物に対してでもいうことになるであろうが、これは余り詳しく考える要もないことである。蓋し、人間と動物との根本差異は、要するに、道徳の有無ということに凡て理に順じて居るのであって、一も理を外れて居る所はない。否、人間の生存、動植物の生生たるのが即ち理たる所以であるのである。動植物は理を逸することはないともいえるが、人間には理に違した悪に奔ることが多いから、これではならぬという道徳的意識が起こり、よって理に順ずる善に還らんとする道徳的努力が起こって、道徳が行われるのである。意識努力のある所に道徳があるのであって、意識、努力のない所には道徳は存しない。道徳のない所は無道徳と超道徳との二種となるが、前者は動植物、後者は後得智の場合である。後得智は自然無功用で、而もそのまま理に順じて居るから、我々の眼で見れば道徳に順じて居るといえるが、然し、実は超道徳たるのである。そこが即ち宗教の世界であるというべきで、宗教は道徳を含みつつも道徳を超越しても居るのである。そして、同時に、ここが仏教たるのである。


 仏教は、既にいうた如く、理の活動の現れたもので、その点からいえば特別の宗教などというべきものではないが、然し理の活動が理智不二の法身、智を本質とする報身、利物を本質とする応身、化身によって我々に知らされるに至ると、その説法の組織、理論実践の体系が即ち仏教であり、ここに現代の制度上の一宗教ともせられる点が存するのである。理の活動の現われの方面のみならば必ずしも仏教と呼ぶを要しないのであるが、説法教化の組織体系の方を仏教と呼ぶから、同じく仏教と呼ぶことになるのである。理の活動の方でいえば、我々人間の生存して居ることが即ち仏教を体し仏教に順じて居るに外ならないから、我々人間は凡て仏教者である道理であって、人が仏教を信ずるとか、信じないとかは問題でなく、悉く仏教に従うて居る仏教徒であるといわねばならぬ。同時に仏教は言語や文字や、その他の形式に現わされることはないから、渓声広長舌山色清浄身などといわれ、山のたたずまいが法身の清浄な姿であり、渓水のささやきがそのまま報身の説法であり、柳は染む観音微妙の相、松は吹く説法度生の声で、柳暗花明は観音の応現の相で、松声風響が説法教化の声に外ならぬといえるのであり、仏などの名称もなくもがなであるから、仏とは何を岩間の苔衣である。然し、これを説法教化の組織体系としての仏教の方面でいう時には、種々なる術語でいわれることになるのであって、例えば大乗でいえば、凡ての人間は菩薩と称せられる如きである。小乗では菩薩と呼ぶことは出来ないが、或点では、僧と呼ぶことは可能である。蓋し、釈尊時代の根本仏教は凡て外形よりも精神の方面を主とし、釈尊の偉大な人格によってすべてが統一せられて居たのであるから、僧という如きも、最初は特殊の入団儀式があったのではなくして釈尊に対する信頼帰順が主であったのであり、多少の儀式規則が設けられたにしても形式的に奔るのではなかったから、僧は釈尊の許でその法を実践する団体を指し、凡ての人間もかくなるべきを理想となして居たから、正しい生活をなす人間ならば悉く僧と称せらるべきであった。釈尊の入滅後は自然に形式が重んぜられ、儀式規則が重大となり、それ等が固定化せられ、元来一切の人々に推及ぼして一切の人類を包括すべきであった僧が、遂に世俗の人々と区別せられて、特殊の社会をなすに至ったが、大乗は凡て仏になるを目的として、形式的よりも精神的を取り、一切の人々を菩薩僧となすに至ったのである。故に、人間を凡て菩薩と見れば、これ即ち僧は特殊の、而も小乗の如き世外的な、社会を指すのでなくして、一般の社会を指すのであり、一般の社会は凡て仏教が行われ、仏教によって正しい社会となって居るのを意味するのである。理の支配を考えて見れば、この如くに見做すのが当然であることが判るであろう。仏教は如何なる方面に於いても、その趣意上、決して世外的であるのではなく、また特殊の社会に限るが如きものではないのであるが、今いう如く、一度小乗仏教に於いて、その純粋性を保たんが為に却って世外的の如くになったから、それが伝統的に受け継がれて、後世大乗となっても、尚且つ抹殺払拭せられずに、惰性を保存して居るのである。


 以上の如く、理の活動が仏教であり、また理の活動の我々に知られた説法教化の組織体系、即ち最清浄法界流の教として仏教は理に順じて居るから、理は決して我々の理とか他人の理とかいう如き我他の限定制限を有するものでない点でいえば、そこには、我の容る余地は存しない為に、必然的に無我がいわれて来ねばならない関係にあることが判る。無我は、既にいうた如く、根本仏教の如き古い仏教では、何れかといえば経験的に建てられた所のある説であるが、広く仏教一般として見れば、理に我のない所に根拠を有すると見るべき説であるといえる。無我説は実に印度と雖、また現代何れの宗教に於いても、全く主張せられないというを得るものである。無我は自己を空しうすることであるが、而も全く自己を失うというのではなく、却って大なる自己を得る所以であるから、小なる己我の固執に比すべきものでない。無我の考は全く釈尊の成道、即ち仏教の成立、以来仏教を一貫するものであって、仏教の伝播の歴史に於いて未だかつて他宗教を迫害した史実の殆ど皆無であることに於いても、よく表われて居る所である。他の宗教に於いては、それが一度ある国に伝播浸潤すると、従来そこに行われて居た原始的の固有の信仰、従ってその信仰の現われとしての種々なる遺跡などは、殆ど全く地を掃うて居るのを見るに、それが支那、殊に我国に於いては、長く仏教が行われ、国民生活の各方面に甚大なる影響を与え、而も仏教化し、また新たな文化を創造発達せしめた程であるにも拘らず、旧来の信仰も遺物も依然として存し、却って助長発展せしめられて居るが如き、これ明らかに仏教の無迫害性の為であり、無迫害性は全く無我の根拠に立つものに外ならないのである。


 無我によって、根本無分別智の證得に至るのであるから、無我は真の智に発展して来るが、根本無分別智はまた必ず後得智となって働くから、ここに慈悲の活動となるのである。私心があり、自我の固執があっては真の慈悲とはなるを得ない。この点に於いて仏教の特色は智と慈悲とにあるといえる。根本無分別智は或いは無我に因らずとも体得せられるかの如く考えられるかも知れぬが、自我の固執と境識空無とは到底両立するものでなく、両立するが如く考えるのは、それは根本無分別智を客観的にみる態度を捨脱して居らぬ為であって、客観的に見た根本無分別智は仏教の根本無分別智ではない。仏教に於いてこれを体證したのは釈尊が菩提樹下に於ける成道の時に於いてであったと見るべきで、成道は即ち根本無分別智の体證に外ならなかったのである。それが直ちに後得智となって転法輪が起こったのであり、爾来四十五年間の強化はその働きに外ならないのであるが、転法輪は即ち慈悲の発現である。故に、弟子信者から見ても、釈尊は仏、即ち覚者、智を有するもの、であって慈悲の塊りと見られたのであり、その二つはまたこれを利他行の一に含ましめて纏め得るであろう。これを遡らしめて、釈尊の成道以前から幾代でもの前世にまで及ぼして、釈尊が菩薩としての因位の行が凡て利他行であり、智の完成の為の慈悲の発揚であったとなすから、釈尊は因位から果位に至るまで、これによって一貫せられて居るのである。然らば、その釈尊の説く仏教がまたこれによって統貫せられて居るのは当然であり、それの根本が無我にあるのであるから、無我は仏教の特色であること疑いない。慈は楽を与える方で、父の愛に当たり、悲は苦を抜く方で、母の愛に当たる。仏については特に大悲と呼ぶ。従って仏の本願誓願は悲願である。


 智と慈悲とが仏教に於ける現われ方、または、それを受ける側での発展を見ると、殆ど後世発達の凡てを纏めて大体を系統づけることも可能であろうと思われる。智は自力教を発達せしめ、慈悲は他力教を発達せしめることになろう。智は、前にいうた如く、心の本性であり、智と心とは、その点に於いては、同義語であるから、智を磨くのは智の本質を明浄ならしめるのであり、心の本性を全露せしめんとすることに帰する。一般に、智に有漏智と無漏智との二を分つが、然し、智としての真の性質上より見れば、決して二種たるものでなく、また、本質的に価値の差があるものではない。恰も、有漏智と無漏智とが本来二種でなく、善は唯一種のみで、成仏の正因たるものであるのと、また、宗教的の信心も世間一般の信用も、心理状態としては決して異性質のものでないのと、同一であるというべきである。智は煩悩を断ずる主なるものであるから、何としても自ら努力し、自ら専心してのみ磨くを得るもの、この実践が大乗でいう観心または観法で、観心、観法には教理、教義が相即的に研究せられて居るし、教理、教義の研究組織も智に関すること以外ではない。かかる方面の学修は全く自力に俟つから、智の系統に於いて自力教の発達が行われたのである。即ち智によって、一切諸法を明らかにし、心の本性の明らめられたのが環境世界の一切を究め、所謂宇宙の真相の徹見となるとせられるのである。人生はこの意味の宇宙に外ならないから、宇宙の真相の徹見は即ち人生の徹悟である。これを自力教の代表ともせられる禅系統の本證妙修について見れば、この点はよく理解せられ得る。更に、慈悲は摂取包容であり摂取包容されることである。摂取包容する仏には智の輝きがあることはいうまでもないとしても、摂取包容されるものには智慧の差別もなく、他の何等の制限もなく、その慈悲が等樹普潤するのである。仏の慈悲には制限のあろう道理はないから、全く普遍的であり、無限無量であって、これを逃れるものすらあるを得ない。従って、宇宙は凡て慈悲そのものの現われであり、慈悲そのものである。この慈悲を示す為に、教理、教義も組織せられるが、それは凡て他力に信頼することを勧めることに帰着する。他力はこれを他に勧めるよりも、むしろ自らそれに縋らんとするもので、自ら縋って摂取包容せられた悦びを他に伝えずには居られないというものである。これを我国の浄土系統の弥陀専念について見れば、それがよく現れて居ることが判る。自力教と他力教とは、一見、如何にも両極端であるかの如く感ぜられるが、実は決してそうではない。自力の自も、他力の他も、相対差別的の自と他とではあるを得ないから、自は相対の自他を含めて、自と言詮わしたもの、他も相対の自他を含めて他と言詮わしたものと見なければならぬ。相対差別的の自と他との意味ならば、共に我々には有害無益で、徒らな相尅摩擦を生じて、無我の大道に乖反する。丁度、菩薩の利他行を、修行として見れば自利行と呼ぶも、その内容を見れば全く利他行である場合の自利利他の自他に比して解すべきで、仏教本来の意味での自他がここに現われて居ると見なければならぬものである。我々の生活は全く縁起であるから、固定的の範囲を持つ自も他もあるべき道理なく、自他は時に従って全く無窮である。故に、和光同塵となり応現応同があるのである。自己の生活の全部が他のものに拠り、自己の力などはこれに比すれば九牛の一毛も蒼海の一粟も譬えとするに足らない程に、殆ど無に同じいことに目覚めて、必然的に他の力を人格的に見、これを仏となして、これに帰命すれば他力に縋ることであり、また、自己の力で、それとは逆に、他の一切を生活せして各々その所を得しめることを意識すれば自己の力を除いては一切は無ともなるから、凡てを自力の中に包含して無限の精進をなすことになるのである。何れも局限対立の自己を抛って日常生活そのものの中に融け込むのである。即ち真に無我となるのである。蓋し客観的の人生生活なるものはあり得ないものであって、何れの人も自ら生活しつつ人生をなして居るのであるから、客観的に人生生活を眺めるのは抽象化の弊でありそこには活きた生活は存しない。生活に自ら融け込むことによって、真の生活となるのであるから、無我となることが、それへの真の道であるというべきで、自力も他力もすべて無我により、従って、智も慈悲も無我によることは明らかなことである。


 無我は即ち利他行で、我々の実生活の基調をなすものでなければならないのである。然るに、かかる無我若しくは利他行は、現代的にいえば、一見極めて迂遠なことであろう。従って、これを特色となす仏教が現代に於いては実際迂遠なものとせられるのである。然し、社会的生活を営む外ない我々は、現代に於いてでも、事実上、ある程度の無我、即ち少なくとも自我の抑制、または利他行、即ち奉仕行為をなしつつあるではないか。また、ある程度、これを実行せねば、自己の生活すら出来ないではないか。現代では、権利の主張が先ず最初に来て、義務の履行は次に置かれ、而も屡々疎かにせられることも少なくない。而もそれが利巧な生活法とせられて居ることも見受けられるのである。権利の主張も正しいことであって、決して排すべきことではないに相違ないが、権利は必ず義務を伴わねばならぬし、義務と不可分離であって初めて権利である。義務がむしろ先であって権利は後であるべきで、働く所に生活があるのであり、生活が確立せられて初めて働き得るというものではあるまい。その義務を怠る権利は徒らな自我主張であるから、隣人、同胞各自が徒な権利の主張のみに終始したならば、相互に安全な生活の出来ないことはいうまでもあるまい。凡ては皆報いを招くもので、現に報いを現して居る。従って、そこに利他行としての奉仕行為がなければならぬ。あるのが社会生活たる所以である。然らば、徒らな権利の主張は社会生活の破壊であり、所謂破和合僧で、五逆罪の一である。五逆罪は、前説の如くで、その中の殺阿羅漢、出仏身血は我々としては事実犯すことがないと見てもよいから、然らば、殺母、殺父、破和合僧の三逆罪となる点でいえば、破和合僧は逆罪の三分の一に当たり、而も我々には殺母、殺父は到底考えられないし、また到底犯されることはないから、従って、逆罪は唯破和合僧の一種のみが陥り易いものたるのである。この一種すらが慎めないとせば、それは果たして何であろうか。徒らな自我の固執主張は真に逆罪であるという結論になる。かかることを中心として教を説き、また隣人同胞と共にこれを実行せんとする仏教に果たして如何なる迂遠性が認められるのか。迂遠といえば、迂遠なのが人生であり社会生活である。人生も社会生活も、直截直往のものではない。蓋し、我国の現代に於いて、仏教を迂遠視する人々の層には最も宗教的信仰、宗教的情操、宗教的雰囲気が欠如して居るのが事実であって、ある場合には、殆どその欠如がそれ等の間に於いて自覚せられてすら居らぬことも珍しくない。人はいう、これ我国に於ける宗教教育の殆ど皆無であることに原因すると。実際そうであろう。然し、なお根本的に重要なことは各人の家庭教育である。家庭に於ける幼児少年を通じての宗教教育、たとい教育とまで行かなくとも慣習ですら、青年期には自然薄らぐことは人としての心理発達上殆ど必然的なるかの如く見えることは止むを得ないとしても、成人中年となると、必ず蘇生して来るものである。もし、幼童少年の間にかかることが無くば、後になって蘇生するものがない。蘇生するもののない人々が家庭に於いて子女を教育するとしたならばどうか。永久にその蘇生するものは得られることがない。現代は既にこの得られることが無い所まで到著して居るのではないか。それが即ち仏教を以て迂遠視する最大原因の一である。勿論、仏教者の側に欠点遺憾なことの多いのも言を俟たぬ。徳川時代の惰眠が今猶覚めず、進んで宗教教育を施すことを敢えてし得ない点も、仏教が現代に於いて迂遠視せられる最大原因の一であると見ねばならぬ。然し、両方から互いに攻め合っても、ただそれのみでは殆ど何等の効果もないから、互いによい方に進むことに努むべきであろうし、仏教は決して所謂の仏教者などに任して置くべきものでなく、一般人の方に取るべきものである。


 我々は自己の素質能力を顧みる時、仏教の説く所を完全に実践に現わすことは殆ど出来ないと自覚せられる。仏教者は従来、自らかくありながらも、仏教のいう所に従って、とかく凡て教える態度に出で、常に導かんとする傾向にあるが、これは現代の仏教者の戒心すべきことで、むしろ同行者として、共に進まんとする態度に改めるべきである。現代の人々の進歩は仏教者のそれよりも優って居るから、この点は大に注意せねばならぬ。この態度を改めなければ、従来の如くに、仏教者独りその堕落が攻められるのである。また共に進まんとする何れも、たとえ完全な実践にならなくとも、真似事でもなさざるには優るものである。善事の真似事は直ちにこれ善事である。悪事を真似すれば、それは即ち悪事であって、単に、真似事としてなしたに過ぎぬというたにしても、到底弁解となるものでなく、法律的には或いは許されることもあり得ようが、道徳的には全く許されないことである。我々はせいぜい真似事しかできないであろうが、その真似事に勤しみたいと念願し行うべきである。






 現今仏教者偸安に耽り姑息な生活に甘んじて居て、一般人から軽蔑を受けて居る。この一般人が僧迦並びに比丘を軽蔑視することも我国にのみ見らることで、他国には殆ど例がない。仏教者側の怠慢欠点に由来するか、一般人側の宗教心の稀薄に原因するか、何れであるにしても、決して相互の幸福な所以ではない。仏教者はこれを却って良き縁として奮発努力して以て仏教を一べ発展せしめ、我国文化の各方面に新生命を吹き込むことにし、而も仏教維新を現出せしめて、新たな仏教を展開せしむ層きである発展の最高点に達したというのは、決してもはや発展を止めたというのではないから、却って、新たな発展の出発点となるという意味に解して、今後の新局面に処する決心を要するというのである。





〜 「仏教哲学の根本問題(昭和二十二年十二月)」より 〜