仏教から出た日常語
愛染(あいぜん)
本来には、貪愛して染著する情をいう。現在には、すべて愛著ふかきにこの語を用い、すべて「愛染かつら」などと小説の題名にも用いられている。
行脚(あんぎゃ)
現在には、徒歩にて諸国を遊歴すること。本来には、僧が仏道修行のために、師友をもとめて諸国を遊行することをいう。
安心(あんしん)
現在には、心落ちつきて、心配なきことをいう。本来には、「あんじん」と読み、仏法によりて心の平和を得て、また動ずることなきをいう。
安楽(あんらく)
日常語としては、心安らかに、苦労なきことをいう。本来には、西方極楽の別名にして、諸々の苦脳なく、安穏快楽なるをいえるものである。
威儀(いぎ)
もと仏教にて、戒律のことをいい、また戒律にかなえる立ち居振る舞いをいったが、現今世間では、いかめしい立ち居振る舞いを言い、また作法にかなった振舞いを言う。
意識(いしき)
仏教では、六識または八識の一であって、意根を所依とし、法境を所縁として起り、外境の総ての相を認知する識作用のことであるが、現今では、知、情、意一切の覚めて活動しているときの精神作用を言う。
以心伝心(いしんでんしん)
本来には、禅宗の語にて、文字経文によらずして、直接師資相面して、心より心へと、仏法の真理を授受すること。現在には、もっと軽い意味に於いて、言語文字に現わさず、心より心へと、思うところを伝える。
一向(いっこう)
現在では、まるで、すこしもなどの意に用いられるが、本来には、信仰的に他の念を交えることなく、専一に精進することを言う。
一心不乱(いっしんふらん)
もと阿弥陀経等にある語にて、心を一にして散乱せざることを言う。世間の語法としては、一事に心をそそいで他を顧みざる事を言う。
一大事(いちだいじ)
現在には、大変の事、大切な事柄を言う。本来には、人生の究竟の目的を言う言葉である。
一味(いちみ)
本来には、事理の平等なることを、海水のすべて同じく塩味なるに喩えたる言葉。現在では、心を同じうして味方する人々を言う。
一蓮托生(いちれんたくしょう)
本来には、極楽浄土に往生して、おなじ蓮台に生れること。転じて、現在では、運命をともにすることを言う。
因縁(いんえん)
現在には、由来、来歴、ゆかりの意にて広く用いられているこの言葉は、本来、仏教の根本原理の一を表したもので、因とは結果を招くべき直接の原因、縁とは因をたすけて結果を生ぜしめる助縁。この因と縁とによって一切の生滅をとくのが仏教の立場である。
因果(いんぐわ)
現在では、普通に原因と結果とを言い、また俗に、不幸、不運、悪事の報いを言う。本来、仏教では、一切の諸法はみな因縁と結果の法則によって生滅変化するものであると説く。
因業(いんごう)
普通には、頑固にして無情なることを言う。本来には、単に業と言うに同じであって、業は果報の因となるが故に因業と言うのである。
有為転変(ういてんぺん)
さだめなき世の中を形容して言う言葉。仏教術語としての本来の意味は、因縁によって生滅変化する無常の現象を言ったものである。
浮世(うきよ)
また憂世とも書く。定めなきうき苦の世の中と言う意。仏教にても、一般にても、同様に用いられている。
有象無象(うぞうむぞう)
普通には一向に役に立たない沢山の人々の意であるが、本来には仏教にて、有形無形の一切万物を言う。
有頂天(うちょうてん)
本来には、色界の第四天にして、色究竟天とも言い、形ある世界の最高所にある天界のことであるが、俗に、「有頂天になる」とは、得意の絶頂にて夢中となり、この最高の天に昇ったような気持ちになることを言う。
有無(うむ)
仏教では、有無の二見とて、有の見解も、無の見解も、いづれも中道を得ずして、かたよれる見解であるとする。これを世俗の用語として、有とも無とも言わせず、右とも左とも言わせぬことを、有無を言わせずと言うのである。
会釈(えしゃく)
本来には、全く相反すると思われる説をも、よく照合して、融会通釈するの義であるが、転じて、俗には、人に挨拶すること、愛嬌の良いことなどを言うこととなった。人情を融会する義から来たのである。
縁起(えんぎ)
現在では、吉凶の前兆、きざしを言う言葉であるが、本来には、因縁生起の意にして、事物はすべて因縁によって起るとなす仏教の原理を説く言葉である。
厭世(えんせ)
本来仏教では、この世の中を厭うて、出離解脱を求めることを言う語であるが、現在では、単に世の中を厭うの意に用いることが多い。
閻魔(えんま)
閻魔王の略。地獄の主にして、衆生の罪業を監視し、その応報を明らかにすると言う。現在では、怖い顔をした人、惨たらしい心を持った人をも言うことがある。
講師(こうし)
もと仏教では、法華会、最勝会などにて、経の義を講ずる役にある僧を言ったが、現今では、講演会や学校にて講義する者を言う。
講堂(こうどう)
仏教では、法を説き経を講ずる堂舎のことにて、七堂に一に数えられていた。今日では、学校その他に於いて、訓話または儀式を行う室を言う。
餓鬼(がき)
本来には、餓鬼道に落ちたる亡者のことで、常に飢渇の苦しみを受け、たまたま食を見てこれを喰わんとすれば、忽ち火焔を発して喰うこと能わずと言う。現今では、食欲その他の欲望のしきりなる者を賤称し、更に転じて、子供のことを言うこともある。
覚悟(かくご)
本来は、迷いの夢覚めて、正法を悟り得る事を言うのであるが、転じて、ひろく、物事の道理を悟る事を言い、または普通には、予期或は決心を現わす言葉として用いられる。
呵責(かしゃく)
激しく責め苛む事を言う。本来は、僧団における所罰法の一であって、僧衆の面前で所罰を宣告し、三十五事の権利を奪うのであった。
喝(かつ)
本来は、禅宗の僧が、参禅の人を導くために用いる叱声であるが、普通には一般に、怒鳴りつけること、叱りつけることを言うことが多い。
葛藤(かっとう)
仏教では、葛や藤が錯綜するがごとく、文字言語の煩わしきを言う言葉で、禅宗にて古則公案をさして言うことが多く、現在では一般に、解き難き争いの事を言う。
堪忍(かんにん)
一般には、耐え忍ぶこと、或は怒を忍んで許す事を言うが、本来は、娑婆世界の訳語たる堪忍世界の略にて、この世界の衆生は忍んで悪を為し、これが教化のため、諸菩薩は耐え忍んで苦労を積むと言う。
紙衣(かみこ)
紙子とも書く。紙にて作りたる衣にして、仏者のよく用いしものであるが、また一般にも用いられた。
帰依(きえ)
信仰して一途に依りたのむことで、本来仏教の語であるが、現在では、そのまま一般にも用いられる。
機嫌(きげん)
現在では、一般に、こころもち、気持ちの意より、安否、起居をたずねる場合に用いる語であるが、本来仏教にては、人の忌み嫌うことを伺い知ることを言う言葉であった。
寄付(きふ)
寺社等に金銭物品を義損すること。本来は仏教の語であるが、現在では、一般の語として用いられる。
金言(きんげん)
本来は、仏の口(金口)より出でたる法語の意であるが、現在では、尊重すべき語、格言の意に用いられる。
境界(きょうがい)
普通には、境遇、分限の意に用いるが、本来には仏教にて、因果の理によって各自のうける境遇または地位のことである。
行儀(ぎょうぎ)
今では、行住坐臥進退の作法、立ち居振る舞いの意にて、一般の言葉であるが、本来は仏教の語で、道俗すべての遵守すべき行事の儀式を言った。
行水(ぎょうずい)
今日では、湯を盥に盛って、身体の汗などを流し去ることを言うが、本来は、清めのために清水にて身体を洗い清めることである。
苦界(くがい)
現在では、遊女の境界をいう語であるが、本来には、六道生死の苦しみの絶えぬこの世界のことを言う仏教術語である。
苦言(くげん)
聞くに好ましからぬが、身のためになる忠言の意である。もと仏教より出でたる語である。
具足(ぐそく)
仏教では、充全に具して足らざることなきを具足すると言う。転じて、道具、調度を言い、更に転じて甲冑一揃いを言うことともなった。
愚痴(ぐち)
普通には、理非のわからぬ愚か言、言って甲斐なきことを言い嘆くことを言うが、本来は、無期の意にして、心性愚昧にして、事に迷い、理を瓣へざることを言う。三毒の一である。
功徳(くどく)
本来は、善行の徳として報い来れる福利の功能の意であり、現在にもまた、一般によき報いをまねくべき所業を言うに用いる。
光明(こうみょう)
世間では、単に明るい光の意に用いているが、本来は、仏、菩薩の心身に具する光であって、智慧の相であると言う。これに闇を破る力と法を現す力とがあると言う。
過去(かこ)
本来は、三世の一にて、有為の諸法がその作用を終りたる位を言うのであるが、今はただ、過ぎ去りたる時を言うに用いられる。
火災(かさい)
普通には、すべて火事の事を言うが、もと仏教では、これを三大災の一として、一劫のつくる時、人みな悪業をなし、為に天雨を降らさず、諸河ことごとく渇き、大地より火おこり、一切を焼き尽くして、悪道ことごとく滅すると説いている。
観察(かんさつ)
今日では、よく注意して見ること、或は、自然の状態をよく注意して調べることを言う。本来、仏教では、『かんざつ』と濁って読み、物事を心に思い浮かべて、細かに、明かに分別することを言う。
勧進(かんじん)
勧化というと同じ。本来には、人をすすめて仏道に入らしめることであるが、のちには、寺院にて、金品の寄付を募ることを言うようになった。
勧進帳(かんじんちょう)
勧進の趣旨をしるして、寄付を集めるに用いる帳簿を言うのであって、歌舞伎の『勧進帳』も、またこれである。
元祖(がんそ)
仏教では、一宗を創めた祖師の意であるが、専ら法然のことを言う習わしである。故に、『大師は弘法に、元祖は法然にしめらる』という言葉がある。なお俗には、すべて物事を始めた人をいう。
観念(かんねん)
俗には、あきらめ、かくごの意に用いる。本来には、事理を心に思い浮かべて、細かく明らかに分別することである。なお、哲学および心理学の用語としてもこの言葉を用いる。
敬虔(けいけん)
今日では、ひろく敬いつつしむ態度を言う。本来は、神仏を敬い尊ぶことを言う。
教授(きょうじゅ)
本来は、仏教僧侶の役の名であって、伝法灌頂に際して、受法者に作法を教える役をなす僧を言ったものであるが、今日では、一般に高等教育の学校における教師を言うことが多い。
外道(げどう)
本来は、仏教以外の宗教および哲学をすべて外道と言ったが、後には、少しく転じて、異端邪説およびそれを信ずるものを言うこととなり、更に転じて、邪悪なるものに対する、憤懣をふくんだ呼び方として用いられることとなった。『この外道』などと言うが如し。
決定(けってい)
心のむかうところを定めること。きめること。この語はもと、仏教術語の『けつぢやう』より出たものであって、本来は、仏法を信ずる心の、堅固に定まって、動ずることなきを言う。
懸念(けねん)
一般には、気がかりの意。本来仏教では、心を一処にかけて、他のことを思わざることを言う。
玄関(げんかん)
本来は、玄妙なる道に入を関門の意。転じて、禅寺にて、客殿に入る門をいうこととなり、更に転じて、すべて人家の正面にあたる入口を言うこととなった。
堅固(けんご)
一般にはすべて、物のかたきこと、破れがたきことを言う。本来には、心念の不動不変なること、大いなる樹の根株の抜くこと能はざるがごときを言う仏語である。
下掾iげろう)
一般には、下郎とも書き、身分ひくき者を言う言葉である。本来は、仏教にて、上揩ノ対する語にて、僧侶の修行の功をつむこと未だ浅き者を言う。
降伏(こうふく)
一般には、降参するの意。仏教では、『ごうぶく』と読み、神仏の功力によって、悪道、外道、怨敵等を抑え鎮めることを言う。
居士(こじ)
一般には、学徳があって仕官せぬ人のこと。『きよし』とも読む。仏教では、今は多く、男士の法名の下につける語として用いられるが、元来は、俗人にして仏門に帰依したる男子の称である。
乞食(こじき)
今日では、おこも、食物を人に乞うて生活する者のことであるが、元来は、『こつじき』と読んで、仏教比丘の生活を言ったものである。
後生(ごしょう)
仏教にて、来世、未来のことを言う語。転じて、来世の安楽、極楽への往生を意味することとなり、更に転じて、他に哀願する時に用いる言葉となった。
業(ごう)
元来は、仏教にて、身口意のすべてに於ける行為を言うのであるが、後には特に、悪行のみを指して言う場合が多く、また、いまいましいこと、残念なこと、怒りに堪えぬことを、業または業腹と言うこともある。
根(こん)
仏教にて、能生、増上の意にて、草木が根を有して能く幹枝を生ずるがごとき力を言う。転じて、一般には、物事に堪え得る気力を言う。
根気(こんき)
もと仏教にて、人の性質、種類を言う語であるが、転じて、一般には、物事に耐える精力を言う。
権化(ごんげ)
今日一般には、ある特性を最も著しく発揮したものをその権化というのであるが、本来は、仏・菩薩が衆生を救わんが為に、仮に姿を転じて、この世に現われることを言う。
根性(こんじょう)
普通に、心だての意。仏教では、人間の気力の基を根と言い、善悪の習慣を性というのである。
金輪際(こんりんざい)
普通には、断じて、どこまでもの意に用いる。本来は、仏教宇宙観の言葉にて、須弥世界説によると、水中ふかき処に金輪があり、その上に九山九海があると説き、その金輪のある処を金輪際と言うのである。
在家(ざいけ)
一般には、在郷の家、田舎家を言うが、本来は、仏語にて、出家に対する語であって、家にありて妻子父母を有するものをいう。
最後(さいご)
普通には、最も後であること、最終の意であるが、仏教では本来、人生の終り、即ち命終の時を言うのである。
沙汰(さた)
本来は、沙石より金を汰り分けることにて、仏教では善悪を分類するを言う。転じて、一般では、さばき、処置の意に用い、また、報知、音信、うわさの意に用いる。
生飯(さば)
一般では、数を誤魔化して利益を不当に得ることを言う。これは、仏教にて、供膳の飯の一部をとりわけて、幽界の衆生に供養することを、『さんぱん』(生飯)または『さば』と称するより転じた言葉である。
相続(そうぞく)
本来は、因果次第して断絶することなき意。普通には、受け継ぐこと、特に跡目を継ぐ事を言う。
相対(そうたい)
相待とも書く。本来仏教では、『そうだい』と読み、自他の相まちて存立するを言う。普通には、相互いに関係して、その関係をはなれては考え得ざる事を言う。
相応(そうおう)
本来には、契合の義、相かなうの意なり。普通には、つりあうこと、ふさわしいことを言う。
三界(さんがい)
一般には、全世界の意にて、女について、『三界に家なし』の諺もある。本来は、一切衆生の転生する三つの世界、即ち欲界、色界、無色界の意。
慙愧(ざんき)
慙は自ら内心に罪を恥じること。愧は人の前に自己の罪を告白して恥じるのこと。一般に罪を恥じることを言う。
三国(さんごく)
三つの国、特に日本、支那、印度の意。もと仏典の語。
三千世界(さんぜんせかい)
一般に、あらゆる世界の意に用いる。仏語としては、三千大世界の略にて、須弥世界説におけるすべての世界を合せ言えるものである。
時機(じき)
普通には、適当な機会の意。本来は、時期と根機とのこと。機とは、物のはたらき、人の動きを意味する。
四苦八苦(しくはっく)
一般には、非常な苦しみを重ねることを言う。本来には、四苦とは生・老・病・死、八苦とは、それに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦の四を加えたるもの。人生の主なる苦悩をつくしたのである。
自業自得(じごうじとく)
本来は、自ら作った善悪の業因によって、自ら苦楽の報果を受けること。一般には、主として、悪行に対する悪果を受けることを言う。
自在(じざい)
本来には、心が煩悩の縛りをはなれて無礙なること。一般には、思いのままなることをいう。
獅子吼(ししく)
一般には、大いに呼号し、演説をすることを言う。本来には、仏の説法を獅子の音声に例えた語である。
自縄自縛(じじょうじばく)
自分の縄で自分を縛ること。転じて、自己の心掛けや行為の為に自分が苦しむことを言う。
自然(しぜん)
一般には、天然のままにて、人為の加わらないこと。もと仏語にては、『じねん』と読み、人為の造作をうけることなくして、自らにして然かあることを言う。自然法爾とも、法自然とも言う。
支度(したく)
一般には、準備、用意の意。本来には、修法に際して供養物等の支具を度り調べることである。
示談(じだん)
真宗にて、僧侶が門徒の信仰上の質問に答える一種の信仰座談会を御示談という。転じて、双方の話し合いで訴訟、争事などを解決することを言う。
実際(じっさい)
真如法性のこと。これは諸法の際極であるからである。転じて、一般には、まことの状態、或はまことの現場を言う。
執事(しつじ)
本来は、禅林にて、その知事をまた執事と言う。寺内の事務一般を掌る役僧である。一般には、貴人の左右に侍して事務を執行するものをいう。
慈悲(じひ)
仏教では、衆生の苦しみを除いて楽しみを与えること。一般には、単に憐れみ、情けの意。
執心(しゅうしん)
仏教では、事物にふかく固執して離れざる心を言う。一般には、深く思い込むこと、深く心にかけることなどをいう。
心機(しんき)
一般には、心の動き、心の働きの意にて、心機一転などと熟して用いられることが多い。仏教では、心の発動を言う。
深甚(しんじん)
一般には、甚だ深いことを言い、深甚なる考慮などと言う。仏教では、もと深甚と書き、『じんじん』と読み、仏法の玄妙なることをいう語にて、法の幽妙なるを深といい、深の極を甚という。
神妙(しんみょう)
仏教にて、測るべからざるを神となし、思議すべからざるを妙となす。転じて、一般には、奇殊なること、殊勝なることをいい、更に転じて、すなおなること、やさしいことを言う。
精進(しょうじん)
本来は、精神をこめて、悪行をおさえ、善行を修すること。また勤ともいう。現在では単に、肉食せず、菜食することをいうことが多い。
成就(じょうじゅ)
仏教では、唯識の二十四不相応行法の一であって、得終りて、もはや失することなきをいう。転じて、一般では、すべて物のできあがりたることをいう。
上乗(じょうじょう)
仏教では、教法の最も勝れたるものをいい、俗語としては、すこぶる上等なることをいう。
上手(じょうず)
一般には、すべて物事の巧みなこと、又はその人を言う。本来は仏教にて、『じょうしゅ』と読み、上方、上座の意である。
情欲(じょうよく)
仏教では、四欲の一にて、情愛の欲を言う。一般では、性欲、色欲の動きを言う。
邪見(じゃけん)
仏教では、五見、十悪の一にて、因果の理を無視したる妄見をいう。一般には、すべてよこしまな見解を言う。
娑婆(しゃば)
仏教では、俗世界、人間世界をいう。俗には、この世の中の意にて、また獄内にある者が、獄外の自由な世界を言うに用いる。
邪魔(じゃま)
一般には、さまたげ、さわり、故障の意に用い、仏教では、妄見を説いて、菩提をさまたげるものをいう。
宿業(しゅくごう)
一般に、過去のむくいをいう。仏教では、前世の造った善悪の業をいう。
出世(しゅっせ)
仏教にては、如来のこの世に出現することを言う。一般には、立身すること、この世に現われることをいう。
修羅道(しゅらどう)
一般には、戦乱闘争の場所を言う。本来は、仏教にて、阿修羅即ち悪鬼のいる場所を言う。
冗談(じょうだん)
一般に、むだぐち、むだばなし。もと仏教修行に関係なき無用の談を言う。
諸行無常(しょぎょうむじょう)
仏教では、万物はつねに流転して暫くも常住することなきを言う。一般には、主としてその憐れなる方面を強調して言う。
所詮(しょせん)
一般には、つまるところ、結局の意。仏教にては、経文等によって顕わされる意味を言う。
随意(ずいい)
一般には、心のまま、心まかせの意。仏教では、もと、安居の最終日に行う作法のことであった。
随一(ずいいち)
一般には、第一等、第一番の意。もと仏教では、二個または三個以上の中の一という意であった。第一等の意ではなかった。
随分(ずいぶん)
もと仏教では、力量の分限に従うことをいう。いま一般には、すこぶる、はなはだの意に用いる。
世界(せかい)
仏教では、有情の衆生の住居たる山川国土のこと。一般には、この地球及び地球上の人類を言う。
世間(せけん)
仏教では、出世間の対、有情の衆生の相依りて生活する境界の意。一般には、世の中の意。或は自分以外の世の中の人々の意に用いる。
殺生(せっしょう)
一般に、いきものを殺すこと、むごいことをすることをいう。仏教では、五戒の一にて、人や生物を殺害することをいう。
摂取(せっしゅ)
仏教では、仏が慈悲の手に衆生を救いとること。一般には、おさめとるの意。或は栄養物を体内に取り入れることをいう。
絶対(ぜったい)
一般には、何ものにも制約せられず、何等の条件をも付随せざることをいう。本来仏教の語で、『絶待』とも書き、独一の法にして他に対比すべきものなきをいう。相対の対。
善根(ぜんこん)
仏教にては『ぜんごん』と読み、身口意三業の善かたくして、抜くべからざるが故に善根と言う。一般には、すべて慈善の行為を言う。
選択(せんたく)
すべて悪をすて善をえらびとること。仏教では、『せんぢゃく』と読む。
増長(ぞうちょう)
普通には、次第に甚だしくなるの意にて、主として、おごりたかぶることをいう。本来は、四天王の一たる増長天の名に由来するもののごとし。この天は、南方守護の善神にて、忿怒の相をなし、左手は腰部にあて、右手には利剣をとり、自他の威徳、善根を増し長ぜしめるという。
大意(たいい)
仏教では、大意とは始終を嚢括し、初後を冠載する義であると説く。全体の意味をひっくくりたるものをいう。世俗で用いる意も大体同じである。
対機説法(たいきせっぽう)
世俗では、相手の人柄、知識の程度に応じて物をいうことをいう。仏教では、相手の機に相応するように法を説くことをいう。
退屈(たいくつ)
本来の意味は、難きを見てしりごみをすることにて、仏教では、菩薩行中に生ずる三退屈を説いている。現今世俗に用いられる意味は、やや転じて、いやになることを意味し、更に転じて、ひまで苦しむことをいう。
大衆(だいしゅ)
仏教では、多くの僧のことをいう。現今世俗では、一般民衆をさしていい、読み方も変化して、『たいしゅう』といっている。
題目(だいもく)
仏教では、経典の首題を題目といい、現今世俗では、ひろく典籍、論文、創作の首題をかくいう。
道具(どうぐ)
もと、修行をたすけ、仏道を進むるに役立つ物具のことであり、やや転じて、僧家に蓄ふる器物の総称となったが、更に転じて、現今では専ら、世間一般の用具器具をいうこととなった。
到頭(とうとう)
現今では、世間の俗語として、とどのつまり、結局、ついにの意に用いるが、もと仏教としては、畢竟ということである。
道場(どうじょう)
仏教ではもと、諸仏の金剛座に坐して正覚を成ずる処をいい、また広く、仏道を修する場所をいうが、世間では、これを転用して、武術その他の修行場を道場と言うことが多い。
到底(とうてい)
世間の俗語としては、つまるところ、どうしてもの意であるが、もと仏教では畢竟という意味であった。
当分(とうぶん)
当相自分の義にて、しばらく自己の教法の立場に止まって、その教旨を見ることをいう。転じて世俗では、しばらくの間、当座のところの意に用いる。
沢庵(たくあん)
徳川時代の名僧宗彰(沢庵禅師)のことであるが、現今では、乾大根を食塩と糖とで漬けた漬物の名となった。
談義(だんぎ)
もと説法のことであって、物の道理を説ききかせることの義であるが、現今世俗では、物の道理や意義を説くことを意味しながらも、長談義と称してやや軽蔑の意をさしはさみ、お談義をくうと称して、意見されることを厄介視したりなどするに用いる。
断食(だんじき)
一定の日数をさだめて、食事を断つことを意味するのであるが、本来仏教では、修行や祈祷の時にのみ断食を行じたものである。
端的(たんてき)
仏教ではもと、正確分明の意に用いた。現今では、明白に、てっとりばやくの意に用いられている。
檀那(だんな)
梵語ダーナの音訳であって、意訳すれば布施である。現今世俗では、使用人に対して主人、眼下のものよりする眼上のもの、商人が男に客に対する場合などに用いる。すべて財物を与える人であるからである。
他力(たりき)
自力に対し、主として、衆生救済の誓願をたてし如来の願力に依ることをいう。世俗では、更にひろく、すべて他の力に依ることを意味する。
智慧(ちえ)
もと梵語般若の訳であって、六波羅密の一。事理を照見し邪正を分別する心作用をいうのであるが、現今世俗では、やや広義に、物事を思慮し、計画し、処理する頭脳の働き一般をいう。
畜生(ちくしょう)
現今世俗では、獣類一般をさし、時に、義理人情をわきまえぬ人間を蔑称するに用いるが、本来は仏教にて、性質暗愚にして自立せず、他のために畜養せらるる生類をいい、悪行多く、愚痴多き衆生は、死して畜生に生れると説く。
知識(ちしき)
仏教では、また善知識ともいい、事理を弁えて善く人を導く者のことにて、学者、名僧をかく呼んだが、現今一般では、学解の内容一般をいうならわしである。
馳走(ちそう)
世俗では、ふるまい、饗応の意。もと仏教にて、走り回って、他のために奔走するの意である。
丈夫(じょうぶ)
仏教では、正道を勇進して退くことなき修行者をいう。世俗では、ますらを、男子の美称として用いる。
長物(ぢょうもつ)
世間では、無用の長物とて、ありて用なきもの、邪魔になるものの意に用いるが、これはもと、仏教にて下根の比丘が、金、銀、米、薬など余分の所有物を必要とせしことを言える言葉であった。
通力(つうりき)
仏教では、すべてのことに通達して、自由自在なる力を通力、または神通力といい、現今世俗でも、大体おなじ意味で用いられている。
頭巾(ずきん)
布帛でつくり、防寒等のために頭にかぶるものであるが、これはもと仏僧、特に禅宗の風俗であって、現在の禅宗に於いては、臨済宗にては六角形のもの、曹洞宗にては俗にいう大黒頭巾の形のものを用いている。
提唱(ていしょう)
仏教では、また提要、提網ともいい、宗師が宗旨の要文をあげて、意義をときあかすことであり、またやや転じて、禅宗にて経典、語録等を講述することをいうのであるが、現今世間では、更に転じて、物事を発起し、企画を提示することをいう場合もある。
徹底(てってい)
仏教では、悟りの底に徹することをいい、大悟徹底などと熟するが、世間では、底の底までゆきとどくことをいい、或は意味の充分に理解疎通することをいう。
投機(とうき)
世間の用語としては、やまをはること、不確実な利益を目標として冒険的な商行為をすることをいうが、本来は仏語としては、大悟徹底して仏祖の心機に合するの意である。
兎角(とかく)
世間の俗語としては、ともすれば、何にせよの意に用いられているが、もとは仏語として、物の真にあり得べからざることを、兎に角のあり得ざることに例えて言う言葉である。
貪著(とんぢゃく)
仏教では、むさぼり愛して、執着することをいう。世間の俗語としては、深く心にかけることを意味し、特に物事に心を掛けぬことを、貪著ない、或は貪著せぬという。ただし、頓著と書くことが多い。
内證(ないしょう)
仏教では、もと内心のさとりの意。転じて、世間では、内密の意に用いている。
南無三(なむさん)
南無三宝の略。南無とは帰命、帰敬の意にて、仏法僧の三宝に信頼帰依するときに南無三宝と称したのであるが、世俗では、これを転じて、失敗した時に、しまったと同じ意味でいう言葉。
奈落(ならく)
梵語ナカラの音訳にて、また那落迦ともいう。地獄の意である。世間でも、それに近い意味で、どんぞこ、浮かぶ瀬のないところをいい、また劇場にて、舞台の下のことをいう。
如実(にょじつ)
仏教にて、真実の義理にかなえること、真実にして謬りなきことをいい、転じて、世間の語として、その通りに実現することをいう。
人間(にんげん)
仏教では、人界の衆生をいい、また世間と同じく、世の中のことをいうが、現今では、単数の人をいう場合もあり、また人類一般をいうこともある。
人非人(にんひにん)
梵語キンナラの訳にして、また擬人、擬神、音楽天ともいう。八部衆の一にて、人とも、神とも、畜生とも定むべからざる存在にして、よく歌舞をなす怪存在である。転じて、世間の俗語として、人でなし、人の道に外れたことをなす者をいうこととなった。
莫迦(ばか)
梵語バカの音訳。現今、世俗においていう馬鹿と同義。
幡(はた)
梵音パターカーの音訳。波多迦ともいう。旌旗の総称にて、もと仏寺の荘厳の具である。現今、世俗の用語としては、旗の字をあてる。
破門(はもん)
仏教では、末徒たる資格をうばって、宗門より排除することをいい、世門一般では、師弟の関係を断って、その門下より放逐することをいう。
法度(はっと)
もと仏教の法規のことにて、転じて禁制の意にも用いる。世間での用法もまたおなじ。
波羅夷(はらい)
俗語おはらいばこの語源である。梵語パーラーヂカーの音訳にて、無餘、断頭、不共住とも訳する。戒目の名にして、邪淫、偸盗、殺生、妄語の四罪をいう。極悪罪にして、この罪を犯せば、道を失して、僧中に共住することを得ず、永久に仏法の外に棄てられるべしと定められている。転じて、俗語として、解雇、放遂の意に用い、「おはらいばこ」などという。
方便(ほうべん)
仏が衆生を化導するためにかりの方法を設けることをいう。世俗では転じて、目的のために利用する一時の手段をいう。
彼岸(ひがん)
仏道に精進して、煩悩にみてる現世(此岸)を解脱し、涅槃の世界たる彼の岸にわたることをいう。後世、我国にては、彼岸の法要を、春分・秋分の日を中日として、前後七日に亙って修することとなり、それらを専ら彼岸(彼岸会の略)という習わしである。
非業(ひごう)
前世の業因の報いにあらずの意であり、転じて、現世の災害によって死することをいい、また普通の定命を得ずして夭死することをもいう。
畢竟(ひっきょう)
また究竟ともいい、最後の果まで究めつくすことであるが、世間では現今、つまるところの意に用いる。
皮肉(ひにく)
もと仏教にて、骨髄に対していう言葉にて、皮や肉の意、骨髄にあらざるものの意であるが、後世転じて、遠回しの意地悪い非難をいう言葉となった。
誹謗(ひぼう)
現今では、単にそしることをいうが、もと仏教に於いては、誹謗正法とて、正法をそしること、殊に大乗経典を謗じて仏説にあらずとすることを言った。
秘密(ひみつ)
仏教にては、顕露の対にて、深奥にして容易に人に示さざるをいい、また密意の義にて、仏が不可思議の意味をもって述べたまえることを言う。後世では、人にかくして示さぬこと、公開せぬことなどをいう。
平等(びょうどう)
差別に対する語にて、不同なく一様なること、一切にあまねきことをいう。世間の語法としても、大体同じ意味に用いられるが、近代思想に於いては、特に権利、分配の均一を意味することが多くなった。
不覚(ふかく)
覚の対にて、真如の実相を覚知せざる衆生の妄心をいう言葉。世間の語としては、覚悟のたしかでないこと、油断して失敗することをいう。
不思議(ふしぎ)
また不可思議とも言う。理深妙に、事希奇にして、心にて思い難く、語にて議り難きことをいう。現今では、やや転じて、単に、思いはかれぬこと、怪しいことをいう。
普請(ふしん)
仏教では、あまねくひろく世間に請うて塔堂を営繕することをいい、世俗に於いては、単に建築することをいい、或は建築そものをもいう。
不浄(ふじょう)
清浄の対にて、仏教では、汚穢、醜悪、罪過等を不浄となす。転じて、世間に於いては、汚れていること、女人の月経、また大小便および大小便所をいう言葉となった。
布施(ふせ)
世俗にては、単に僧侶への読経等の謝礼としての包金をいうが、もと仏教に於いては、すべて自己の持物を他人に分け与えることをいい、それには財物とともに知識や正法も含まれていた。
不退転(ふたいてん)
仏教にて、退転することなく精進、勤行すること、或は功徳善根が積もりて退転することなき境地をいったのであるが、のち世間では、単に屈せずしてよく力めることをいうようになった。
不断(ふだん)
仏教では、読経や祈祷等を断えず続けることをいい、不断経、不断輪などの語がある。世間では、絶間なきこと、つねづね、平生の意に用いている。
不如意(ふにょい)
如意の対にして、思いのままにならぬことをいうが、転じて、俗語としては、貧乏、生計の困難なることをいう言葉となった。
分別(ふんべつ)
また思惟、計度ともいい、心が対境を思惟し、量度することをいう言葉であるが、世間の言葉となっても、大体同じ意味にて、思慮あること、事理をわきまえることをいう。
変化(へんげ)
もと神仏がかりに人のすがたをとって現われることにて、権化というと同じであったが、後世転じて、ばけもの、妖怪のことをいうこととなった。
奉加(ほうが)
もと神仏に寄進する物品の中に財物を加え奉ることであったが、後にはすべて神仏のための財物などを集めることをいい、更に転じて、奉加帳をまわすとて、寄付一般をいうこととなった。
発願(ほつがん)
本来は、誓願を発起することであるが、後には、何事も、願い事をたて、或は企画することをいう。
発心(ほっしん)
本来は、菩提心をおこし、出家入道するの意であるが、転じて、思い立つことをいうこともある。
発起(ほっき)
本来は発心におなじく、一念発起して仏道に入る場合の用語であるが、転じて、後世では、すべて思い立って事をはじめることを発起といい、その人を発起人と称する。
没頭(ぼっとう)
没頭妄我などという。頭をつきこんで我を忘れること。世俗においても、おなじく物事に熱中することをいう。
法螺(ほら)
仏僧、修行者の用いる道具の一つであって、法会、経行等の際に吹くのであるが、俗語としては、大言するもの、虚言を吐く者を「法螺を吹く」という。
妄想(もうぞう)
五法の一にて、まことならぬ分別心、真理にそむける想念の義であるが、一般世間では、単に、みだりなる思いの意に用い、「もうそう」と読みならしている。
妄念(もうねん)
もと仏教にて、迷妄の執念の義であるが、世俗においては、よこしまなるもとめ、みだりなる考えの意に用いられている。
冥加(みょうが)
顕加の対。目に見えざる神仏の力が我等の上に加わって護りたもうことをいう。世俗の語としても、同じ意味において、冥加にあまる、冥加がつきるなどという。
冥利(みょうり)
善栄の報いとして、冥々の中に与えられる利益をいう。世俗の用法も大体同じである。
未来(みらい)
未来世の略。未だ来らざる世、即ち将来のことである。世間でも、同じ意味に用いられている。
名字(みょうじ)
本来は、仏・菩薩の名号の意であるが、今では、人の家姓をいう。
名目(めいもく)
世間では、事物の称号、名称をいうが、本来仏教では、法門の名称数目をいう言葉にて、「七十五法名目」その他の名目集もある。
無一物(むいちもつ)
慧能の有名な偈に、本来無一物の句あり、生死、迷悟、凡聖、去来の相なく、畢竟無相なることをいう。世間では、文字どおり、何一つ金一銭もたぬことをいう。これは袋中無一物である。
無我(むが)
仏教では、我の常在を否定する言葉であるが、世間では、我を忘れてすることをいい、無我夢中などという。
無垢(むく)
仏教では、清浄にして、煩悩の汚れなきことをいい、世間では、純粋にしてまじりけのないことをいい、また、ある場合には性の純潔をいうこともある。
無情(むじょう)
有情の対。木や石のごとき心なきものをいう。世間では、なさけ心のないことをいう。
無心(むしん)
仏教では、分別智慮の心のはたらかぬことをいい、世間では、何の邪念もないことをいうが、更に転じて、金銭をねだることをいう場合もある。
無尽(むじん)
つぎざることをいう。転じて、ョ母子講をいう。
無尽蔵(むじんぞう)
仏教では、徳ひろくして極まりなきを無尽とし、無尽の徳を蔵するを蔵となすが、世間では、単に、とってもとっても尽きぬことをいう。
無法(むほう)
仏教では、現在の法を有法というに対し、過去及び未来の法を無法という。現今世俗では、法になきこと、乱暴なることを無法という。
無念(むねん)
仏教では、正念をまた無念という。妄念なきが故である。俗語としては、残念、口惜しいことをもいう。
迷惑(めいわく)
仏教では、事理を謬るを迷となし、事理に明かならざるを惑という。世間では、何事かにからんでこまることをいう。
滅相(めっそう)
四相の一にて、現在の法を破壊する作用をいう。即ち、業つき命をはって、心身ともに滅し去ることをいう。俗言としては、法外な、とんでもないことの意に用いる。
勿体(もったい)
無体というにおなじであって、体がない、即ち、存在せるものの一切は、実はそのもの自身としての存在ではなく、重々の因縁によって成立している、即ち一切のものは因縁生起のものであるとの意。転じて、俗語として、かたじけない、徒りに費やすのは惜しいということを、勿体ないという。
融通(ゆうずう)
また「ゆずう」とも読む。仏教では、事理相互いに通じて、差別隔絶することなきをいう。転じて、世間では、金銭をやりくり、貸借すること、或は臨機応変に事を処分することをいう。
用心(ようじん)
世俗の用語として、注意、警戒することを、用心するというが、これはもと仏教の言葉にして、専念に心を用いることである。
来世(らいせ)
未来の世、来たるべき世の意であるが、現今世俗にていう場合は、死して後ゆきて生れるという世界を意味していることが多い。
利益(りやく)
ためになること、人に幸を与えることにて、仏教では、自らを益するを功徳となし、他人を益するを利益というとしている。現今世間では、「りえき」と読んで、自己の利得、もうけの意味に用いている。
流転(るてん)
生死流転であって、迷いの世界に生死をくりかえして、六界四生の間をながれ歩くこと。転じて、世俗では、定住するところなく、流れあるいて流転の生活をすることをいう。
霊験(れいけん)
仏・菩薩の有する不可思議なる感応をいう。やや転じて、世俗では、祈請に対して神仏の霊妙なる感応のあらわれることをいう。
往生(おうじょう)
死後、浄土や兜卒天などにおもむきて生れることをいうのであるが、ひどい目にあうこと、参ったことを、往生すると称することがある。
(増谷文雄)