<仏教と女人>
○ 女 人
「心がよく安定し、智慧が現に生じているとき、正しく真理を観察する者にとって、女人であることが、どうして妨げとなろうか。
快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、無明の闇黒の塊りは、破り砕かれた。悪魔よ。このように知れ、
『そなたは打ち敗かされたのだ。滅ぼす者よ』」
○ 意地悪な夫
「三つの曲がったもの、臼と杵と、意地悪な夫とから脱れたことによって、わたしは巧に脱れました。みごとに脱れました。わたしは生と死とから脱れています。迷いの生存に導くものは、根こそぎにされました」
○ 遊 女
「遊女としてのわたしの収入は、カーシー国全体の収入ほどもありました。町の人々は、それをわたしの値段と定めて、値段に関しては、わたしを、値のつけられぬ高価なものであると定めました。
そこで、わたしはわたしの容色に嫌悪を感じました。そうして嫌悪を感じたものですから、容色について欲を離れてしまいました。もはや、生死の輪廻の道を繰り返し走ることがありませんように!三種の明知を現にさとりました。ブッダの教えの実行を、なしとげました」
「わが身の容色とすがたと幸運と名声に酔いしれ、わたしは、他の女人たちを見下していました。愚かな男たちの言い寄るこの身体を、いとも美しく飾って、網をひろげた猟師のように、わたしは娼家の門に立っていました。秘密に、あるいは露わに、多くの飾りを見せながら、多くの人々を嘲笑いながら、妖しげな種々の術を行いました。
そのわたしが、いまや、頭髪を剃り、大衣をまとって、托鉢に出かけて、樹の根もとで、思考せざる境地を体得して、坐しているのです。天界と人間界の軛(束縛)は、すべて断たれました。すべての汚れを捨てて、わたしは清涼となり、安らぎに帰しています」
○ 信 仰
「信仰によって出家し、家を出て家の無い状態に入っても、わたしは、利益と尊敬を得ようと熱望し、あちらこちらをさまよいました。わたしは、最高の目的を逸して、低い目的になずみました。もろもろの煩悩に支配されて、修行者たる境地という目的にめざめていませんでした。
そのわたしが、小さな庵室の中に坐っていたときに、心におののきが生じました。
『わたしは邪まな道に踏み入っている。わたしは妄執に支配されて来たのだ!』と。
わたしのいのちは短い。老いと病がいのちを害なって行く。この身体が破れる以前に、わたしには、怠る時間はないのだ。個体を構成している五つの構成要素の生じまた滅び行くさまを、あるがままに観察して、わたしは、心が解脱して、立ち上りました。ブッダの教えの実行は、なしとげられました」
○ ジャイナ教
「わたしは、以前に、髪を切り、泥にまみれ、唯だ一つの衣をまとうて、放浪し、罪過のないものを罪過があると考え、また罪過のあるものを罪過が無いと見なしていました。
鷲の峰なる山において、わたしが日中の休息から立ち上ったとき、汚れなきブッダが修行僧の群れにつき従われているのを見ました。わたしは、跪いて、敬礼し、ブッダの面前で合掌しました。ブッダは『来たれ。バッダーよ』と言われました。それがわたしの受戒でありました。アンガ国とマガダ国とヴァッジ国とカーシー国とコーサラ国とをわたしは遍歴しました。五十年のあいだ、わたしは、負債もなく、国人の施食を食べていました」
○ 乞 食
「わたしは、以前には、困窮していました。夫を亡い、子なく、明友も親もなく、衣食も得られませんでした。鉢と杖を取って、わたしは、家から家へと食物を乞いながら、寒暑に悩まされつつ七ヶ年の間、遍歴しました。ときに、或る尼僧が飲食物を受けているのを見て、わたしは、近づいて言いました。
『わたしは、家をすてて出家し遍歴しているのです』と。
かのパターチャーラ尼は、哀れんで、わたしをブッダの教団において出家させてくださいました。それから、わたしを教えさとして、最高の目的の獲得に向って励ましてくださいました。彼女のそのことばを聞いて、わたしは、その教えを実行しました。きよき尼さまの教えは、空しくはなかったのです。わたしは、煩悩のけがれなく、三種の明知を得ました」
○ 娘の死
「ああ、あなたは、わが胸にささっている見難い矢を抜いてくださいました。あなたは、悲しみに打ちひしがれているわたしのために、娘の死の悲しみを除いてくださいました。いまや、そのわたしは、矢を抜き取られて、飢え(妄執)の無い者となり、円かな安らぎを得ました。わたしは、聖者ブッダと、真理の教えと、修行者の集いに帰依します」
○ 悪 魔
(悪魔)「あなたは、若く、美しく、わたしもまた若く、青春に富む。さあ、ケーマーよ。われらは、五種の楽器で楽しみましょう」
(ケーマーは答えた)「病にかかり、破壊され易い、腐臭を放つこの身体に、わたしは悩まされ、恥じています。愛欲の妄執は根だやしにされました。もろもろの欲望は、刀と串とに譬えられる。それらは、個人存在の五つの構成要素の集まりの断頭台である。そなたが欲楽と呼んでいるものは、いまや、わたしにとっては楽しませないものである。快楽の喜びは、いたるところで壊滅され、無明の塊りは、破り砕かれた。悪魔よ。このように知れ。
『そなたは打ち敗かされたのだ。滅ぼす者よ』
愚者どもよ。そなたらは星宿を崇拝し、森の中で火神に仕え、如実にありのままに知ることなく、それを『清浄だ』と思っていた。しかるに、わたしは、正しく覚った人・最上の人に敬礼しつつ、師の教えを実行して、あらゆる苦しみから脱れました」
○ 裕 福
「わたくしは、貴くて富も多く財宝夥しい家に生まれ、マッジャの生みの娘であり、容貌もうるわしくありました。王子たちに求められ、富商の子らに欲しがられました。かれらはわたくしの父に使いを送っていいました、『わたくしにアノーパマーをください。あなたのこの娘アノーパマーの重さの八倍も黄金と財宝とをあげましょう』と。
わたくしは、世間における最上にして無上なる正しく覚った人を見て、そのみ足に敬礼し、片隅に坐しました。かのブッダは、慈しみをたれて、わたくしに真理の教えを説き示されました。わたくしは、その座に坐っていたままで、第三の位に達しました。それから、髪を切って、わたしは家から出て、家の無い生活に入りました。わたしは、妄執を涸らしつくしてから、今日まで、第七夜です」
○ 貧 苦
「貧苦なる女にとっては二人の子どもは死に、夫もまた路上に死に、母も父も兄弟も同じ火葬の薪で焼かれました。一族が滅びた憐れな女よ。そなたは限りない苦しみを受けた。さらに、幾千の苦しみの生涯にわたって、そなたは涙を流した。さらにまた、わたしは、それを墓場のなかで見ました。・・・子どもの肉が食われているのを。わたしは、一族が滅び、夫が死んで、世のあらゆる人々には嘲笑されながら、不死の道を体得しました。わたしは、八つの実践法よりなる尊い道、不死に至る道を実修しました。わたしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました。すでに、わたしは、煩悩の矢を折り、重い荷を下ろし、なすべきことをなしおえました」
○ 老 婆
「昔はわたしの毛髪は、漆黒で、蜜蜂の色に似ていて、毛の尖端は縮れていました。しかし、いまは老いのために、毛髪は麻の表皮のようになりました。
かつてわたしの頭は、芳香ある篋(こばこ)のように香りがしみこみ、花で覆い飾られていました。しかし、いまは老いのために、それは兎の毛のような臭いがします。
よく植えつけられてよく茂った林のように、わたしの頭は櫛やピンで髪を調え美しく飾られていました。いまでは、老いのために、そのあちこちが薄くなって禿げています。
黄金に飾られ、芳香あり柔らかな黒髪は、見事に束ねられて美しかったのですが、いまでは老いのために、その黒髪は脱け落ちました。
かつて、わたしの眉毛は、画家が描いたすばらしい画のように美しかったのですが、いまでは老いのために、皺がより、たれさがってしまいました。
わたしの眼は、宝石のように光り輝き、黒い紺色で、細く長かったのですが、いまでは老いのために害われて、美しくありません。
若き青春の頃には、わたしの鼻は、柔軟な峰のように、美しかったのですが、いまでは老いのために、干からびたようになっています。
わたしの耳朶は、以前には、よく作られ仕上られた腕輪のように、美しかったのですが、いまでは老いのために皺がより、たれさがっています。
わたしの歯は、あたかも、芭蕉の新芽の色のように、以前は美しかったのですが、いまでは老いのために、それらは砕けて、あるいは麦のように黄ばんでいます。
森のなかの茂みを飛び廻るコーキラ鳥のように、わたしは甘美な声を出していましたが、いまでは老いのために、それは、あちこちで途切れます。
わたしの頸は、昔は、よく磨かれて滑らかな法螺貝のように、美しかったのですが、いまは老いのために、折れてくずれてしまいました。
わたしの両腕は、昔は、円い閂(かんぬき)にも似て立派でありましたが、いまでは老いのために、バータリー樹のように弱くなってしまいました。
わたしの手は、昔は、滑らかで柔らかく、黄金で飾られていましたが、いまでは老いのために、それは樹や根や球根のようになってしまいました。
わたしの両方の乳房は、昔は、豊かにふくらんで円く、均整がとれて、上に向いていましたが、いまやそれらは、水の入っていない皮袋のように垂れ下がってしまいました。
わたしの身体は、よく磨いた黄金の板のように、昔は美しかったのですが、いまでは、細かい皺で覆われています。
わたしの両腿は、昔は、象の鼻にも似て立派でありましたが、いまでは老いのために、竹の幹のようにやせました。
わたしの両脛は、滑らかな足環をはめ、黄金で飾られ、美しかったのですが、いまでは老いのために、それらは胡麻幹のようになってしまいました。
わたしの両足は、昔は、綿をつめた履(くつ)にも似て立派でありましたが、いまでは老いのために、それらはあかぎれを生じ、皺はよっています。
このように、より集まって出来ているこの身は、老いさらばえて、多くの苦しみのむらがるところです。それは、塗料の剥げ落ちたあばら家です。真理を語るかたのことばに、誤りはありません」
○ 道の人
(父は言う)「そなたは”道の人”たちに、食物や飲物をゆたかに施す。ローヒニーよ。いま、そなたに尋ねるが、なぜ、そなたは”道に人”たちが好きなのか?かれらは、働くことを欲せず、怠け者で、他人から施されたもので生活し、しかも物を欲しがり、美味しいものを望んでいる。それなのに、なぜ、そなたには”道の人”たちが好きなのか?」
(ローヒニー曰く)「おとうさん。実に永いあいだ、あなたは”道の人”たちのことを、わたしに尋ねてくださいました。わたしはあなたに、かれらの智慧と戒行と努力とをほめたたえましょう。
かれらは、働くことを欲し、怠けず、すぐれた活動をなし、貪りと怒りとを捨てています。
かれらは、清らかな行いをなし、三種の悪の根本を除き、あらゆる悪を捨てています。
かれらの身体による行為は清く、またことばによる行為もそのように立派であり、かれらの心による行為も清らかです。
かれらは汚れを離れており、真珠母のように内も外も清浄で、純白の徳性に満ちています。
かれらは、学識ある人、真理の教えをたもつ者、尊い人、真理にしたがって生きる人たちであって、目的と真理を説き示します。
かれらは、心を統一して瞑想する人、気を落ち着けている人たちであります。
かれらは、遠くに行く人、よく気を落ち着けている人、思慮して語る人、そわそわしない人たちであって、苦しみの終滅を知っています。
かれらは、托鉢を終えて村から出て行くとき、なにものをも捕えようと探すことをしません。実に、望むことなしに、去って行きます。
かれらは、倉庫にも、瓶にも、籠にも、自分たちの物を貯蔵しません。貯えてはならぬという戒律規定に違反しない完全に調理されたものを求めます。
かれらは、貨幣を手にすることなく、また金や銀をも手にすることがありません。現にあらわれた施されたものによって生活します。
かれら、出家した人々は、種々なる家から来て、また種々の国々から来ていますが、相互に親しんでいます。
それ故に、わたしは”道の人”たちが好きなのです」
(父は言う)「貴き娘よ。ああ、そなたは、われらのために、この家に生まれたのだ。そなたは、ブッダと真理の教えとに対して信仰あり、修行者の集いに対して熱烈な尊敬心をもっている。実に、これは無上の福田功徳を生ずる田である、と、そなたは理解している。これらの”道の人”たちは、またわれらの布施物を受ける者であり、かれらに対して、われらの多大な布施物がととのえられるであろう」
(ローヒニー曰く)「もしあなたが苦しみを恐れるならば、またもしも、あなたが苦しみを厭うならば、ブッダと真理の教えと、そのような立派な修行者の集いに帰依なさい。戒行をたもちなさい。そうすれば、あなたのためになるでしょう」
(父は言う)「わたしは、そのようにみごとなブッダと、真理の教えと、修行者の集いとに帰依します。もろもろの戒しめをたもちます。そうすれば、わたしのためになるでしょう。以前には、わたしは梵天の親族生まれながらのバラモンであったが、いまでは、わたしは真のバラモンである。わたしは三つの明知をそなえ、真の沐浴者であり、学識ゆたかな真のヴェーダ学者である」
○ 無一物
「よく説かれた正しい教えに信仰心を起して、わたしは出家しましたが、金銀を捨てたのに、再びそれがやって来るようにと願うならば、わたしにはふさわしくないことでありましょう。・・・わたしは無一物の境地を追求しているのです。
銀あるいは金は、さとりに導かないし、静寂にも導かない。これは”道の人”にとってふさわしいものではない。これは聖者たちの宝ではない。これは、人をして貪らしめるもの、酔わせるもの、迷わせるもの、塵を増大させるものであり、疑惑をともない、多くの苦労を生ずるものである。そこには、堅固さも安定性も存在しない。多くの人々は、これを楽しみ、恣(ほしいまま)になって、心が汚れて、互いに反抗し合い、争論する。殺害、捕縛、苦難、損失、悲しみと歎き・・・、もろもろの欲望に耽った人々には、多大の禍が起ることが見られる」
○ 誘惑する男
(スバー曰く)「あなたは、わたしの行く手をさえぎって立っていますが、わたしはあなたに何か過ったことをしたのでしょうか?友よ。男子が尼僧に触れることは、宜しくありません。わたしの師の厳重な教えのうちには、幸せな人ブッダが説き示された学ぶべきことがらがあります。全く清らかな境地にあり、汚点のないわたしを、あなたは、なぜさえぎってたっているのですか?」
(誘惑する男)「あなたは、若くて、美しい。出家したとて、なんになるのですか?さあ、黄衣を投げ捨てなさい。花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。高くそびえる木々は、花粉をまき散らして、四方に甘い香りを放っています。初春は、楽しい季節です。さあ、花咲く林のなかで、一緒に遊びましょう。また木々は頂に花を咲かせ、そして、風にゆられて音を立て、叫んでいるかのごとくです。もしも、あなたが一人で林のなかに入って行ったならば、あなたに、なんの楽しみがあるでしょう。猛獣の群れが出没し、牡象に刺戟されて恋に狂う牝象が騒がしく音を立てる、人気が無くて淋しい大きな林のなかに、あなたは、伴の人もなく、ひとりで入ろうと望むのですか?あなたは、ピカピカ光る黄金でつくられた人形のように、またチッタラタ園の天女のように、歩きまわっておられる。たぐいなき美女よ。カーシー産の優雅・美麗な衣服を着たならば、あなたは美しく映えて見えます。もしも、あなたが叢林のなかに住もうとなさるならば、わたしはあなたの御意のままになりましょう。柔和な眼をした女(ひと)よ!妖精キンナリーよ!あなたよりも愛しい人は、わたしにはいないからです。もしも、あなたがわたしのことばのとおりなさるならば、あなたは幸せとなって、・・・さあ、在家の生活を営んでください。風の吹き込まぬ静かな宮殿に住んで、あなたは、侍女たちにかしずかれよ。カーシー産の優美な衣服を着て下さい。花飾りや香料・塗油を身につけてください。黄金・宝石・真珠といった多くのさまざまな装飾品を、あなたのためにつくりましょう。よくよごれを洗い去った覆いがあり、毛布を敷いた、栴檀の香木で作られ、その木の髄の香がいおう、美しく新しく、高価な臥床に、のぼって寝てください。水の上にのびて出て来る青蓮華が人に非ざるものども水の精たちにまつわられているように、それと同様に・・・行ないの清らかな女人よ!
・・・あなたは、肢体が自分のものであるうちに男に触れられないうちに、老いてしまうでしょう」
(スバー曰く)「死骸に充ち、死骸の棄て場所を増大させるものであり、壊滅する性質のものであるこの身体のうちで、なにをあなたは本質と認めるのですか?・・・その本質を見て、あなたは呆然自失してわたしを見つめておられるが・・・」
(誘惑する男)「あなたの眼は、山の中の牝鹿や、妖精キンナリーの眼のようです。あなたの眼を見たので、わたしの愛欲を楽しみたい気持ちは、ますますつのりました。蓮の花の蕾に似た顔、黄金に似た汚れ無き顔のうちにあるあなたの眼を見てから、わたしの愛欲の深層はいよいよつのりました。たとい、あなたが遠くへ去っても、わたしはあなたを憶っているでしょう。長い睫毛の女よ!眼の清く澄んだ女よ!わたしには、あなたの眼よりも愛しい眼はないからです。柔和な眼をした女よ!妖精キンナリーよ!」
(スバー曰く)「あなたは、邪道を行こうと望んでいます。あなたは、月を玩具にしようと求めています。あなたはメール山を一またぎにしようと望んでいます。
・・・ブッダの子(仏弟子)を獲得しようと企むあなたは!けだし、神々と人間の世の中において、いまや、わたしが貪りを起す対象は、どこにもありません。また、わたしは貪りがいかなるものであるかも知りません。それは。聖者の道によって根絶されているのです。それは、灼熱している炭の坑から出て来た火花のように撒き散らされています。それは、毒を盛った器のように、値をつけられました。また、わたしは貪りがいかなるものであるかも知りません。それは聖者の道のよって根絶されているのです。世にはまだ真理を洞察せず、あるいは、師に仕えたことのない女がいますが、あなたは、そのような女を誘惑なさい。あなたは、すでに識見を得たこの女を誘惑しようとするならば、悩むことになるでしょう。罵られても、敬礼されても、苦しいときにも、楽しいときにも、わたしの慎んだ気づかいは確立しています。形成された事物は不浄であると知って、わたしの心は、いかなるものにも汚されません。だから、わたしは、幸せな人ブッダの尼弟子であり、正しい道の八つの実践法より成る乗物に乗って行く者です。わたしは、煩悩の矢を抜き去って汚れ無く、人のいない家に入って行って、ひとりで楽しみます」
○ 王 女
「(スメーダーは父と母とに近づいて言った)「お二人とも、お聞きください。わたしは、安らぎの境地を楽しみます。生存のうちにあるものは、たとい天界のものであっても神の身でさえも、常住ではありません。まして空虚で、味わい少なく、悩みの多いもろもろの欲望は、なおさらのことです。愚者どもが迷うもろもろの欲望は、苦くて、蛇の毒にも譬えられます。かれらは、地獄に落ちるように定まっていて、長いあいだ、苦しみ、害なわれます。愚者どもは、つねに身体とことばと心を慎まず、悪い心構えで、悪いことをして、悪しき境界に落ちて、悲しみます。それらの愚者どもは、悪い智慧あり、思慮なく、苦しみの生起によって妨げられ、知ること無く、だれかが説き示してくれても、四つの尊い真理をさとりません。
お母さん!多くの人々は、尊きみ仏の説きたもうた真理を知らないで、迷いの生存を喜び、神々の間に生まれることを願っています。しかし、たとい神々の間に生れても、やはり無常なる生存のうちに属し、常住ではありえない。しかるに愚人らは繰り返し生れねばならぬことを恐れません。地獄・餓鬼・畜生・修羅の四つの落ちゆくところと、人間界と天界との二つの境界は、なんとかして得ることができる。しかし、それらの落ち行くところに生れた者たちが、もろもろの地獄において、出家することはできません。わたしが、十の力あるブッダの教えにおいて出家することを、お二人とも、お許し下さい。わたしは、ねがい求めること少なく、生死・輪廻を断するために、努めましょう。迷いの生存、堅固でない身体をもつ宿命を、どうして喜びましょうか。生存に対する愛執を滅ぼすために、わたしは出家しましょう。ブッダたち仏たちは出現されました。不運な機会は避けられました。いまや、幸せな機会が得られました。もろもろの戒行と清らかな行ないを、生きている限り、わたしは汚しますまい。
母と父よ。わたしが在家者である限り、食物を摂らずに、ただ死の支配に身を任せましょう」
母は悲しみ、泣きました。父も彼女からすっかり衝撃を生けました。二人は、ともに、宮殿の床に倒れた彼女をなだめようと努めました。
「わが子よ。起きなさい。悲しんで、どうなるのです?そなたは婚約しているのです。ヴァーラヴァティーという都のアニカラッタ王は、容姿端麗です。そなたは、その方に嫁ぐことになっているのです。そなたは、アニカラッタ王の妻、第一王妃となるでしょう。もろもろの戒行の規定、清らかな行いの生活、出家、は実行し難いことです。わが子よ。王権のうちには、命令権、財宝、権勢楽しい快楽があります。そなたはまだ若い。愛欲の快楽を享受しなさい。そなたは結婚しなさい。わが子よ」
(スメーダーは、語った)「そのようなことは起りませんように!生存ははかないものです。出家するか、死ぬか、・・・わたしにはそのどちらかです。結婚は致しません。不浄で、尿の臭いを放ち、恐ろしい、腐敗して行く身体、つねに滲み出て、不浄にみちている屍体の革袋にどうして執着する要がありましょうか。わたしは、身体をどのようなものだと知っているでしょうか?身体は、肉と血で塗られ、虫どもの棲処であり、鳥どもの餌食であり、厭なものです。何故その身体が、われわれに与えられるのですか?この身体は、やがて意識を失い、死骸の棄て場所に運ばれる。親族に嫌悪されて、木片のように棄てられてしまう。屍体を葬の場に棄てて、他の生物の餌食とし、忌み嫌う人々は、沐浴をします。生みの父母でさえも、そうします。まして一般の人々は、なおさらのことです。身体は、はかないものであり、骨と筋肉との集合で、唾液や涙や大小便に満ち、腐敗してゆくのに、人々はそれに執着しています。もしも人がその屍体を解剖して内部のものを外に取り出して見せるならば、その臭気に堪えないで、死者の生みの母でもそれを嫌悪するでしょう。個人存在の五つの構成要素・十二の領域・十八の要素は、形成されたものであり、生をその根本としていて、苦しみである、と、理にかなって正しく考察反省するならば、わたしはどうして結婚を望みましょうか。
新しく磨いた槍三百本で、毎日、身体を刺しつづけよ。たとい刺しつづけることが百年つづこうとも、それによって、苦しみの消滅が起るのであるならば、そのほうがすぐれている。『繰り返し悩まされているそなたたちにとって、迷いの存在(輪廻)は長い』という、このような師ブッダのことばを知っている者は、繰り返し刺されることに身をゆだねるべきであります。天界・人間界・畜生たち、阿修羅の群れ、餓鬼たち、諸地獄においては、苦痛の衝撃が限りなく見られます。
地獄のうちにあって、悪しきところに落ちて苦しみ悩んでいる者にとっては、多くの苦悩の衝撃があります。天界においてさえ、救いはありません。安らぎの境地にまさるものは、ありません。十力ある人ブッダのことばに専心し、願い求めること少なく、生死を断ずるためにつとめはげむ人々は、安らぎに達しました。
父上よ。今日こそ、わたしは世を捨てて出家者となりましょう。はかない享楽に何の用がありましょうか。わたしは、もろもろの欲望を厭い離れました。ちょうどターラ樹の頂きが伐られたようになっています」
彼女は父にこのように言った。他方、彼女と婚約していたアニカラッタ王は、定められた日に、若い人々に囲まれて、結婚式にやって来た。そのとき、スメーダーは、黒くふさふさとした柔らかい髪を剃刀で切って、宮殿の戸を閉じて、第一段階の瞑想に入った。彼女がそこで瞑想に入ったときに、アニカラッタ王も都に到着した。彼女はまさにその宮殿において、無常の想いを修した。
ちょうど彼女が思いを凝らしていたときに、アニカラッタ王は、急いで宮殿に上って来た。彼は、宝石と黄金で身を飾っていたが、掌を合わせて、スメーダーに懇願した。
「王位には、権勢・財宝・主権・楽しい快楽があります。あなたは若い。もろもろの欲楽を享受なさい。欲望の快楽は、世にも極めて得難いものです。わたしは国王をあなたに託しました。栄華を享受なさい。人々に施しをなさい。憂いに沈んでいてはいけません。あなたの両親は、苦しんでおります」
そのとき、もろもろの欲望を求めず、迷妄を離れたスメーダーは、かれに向って、こう言った。
「もろもろの欲楽を喜んではいけません。もろもろの欲楽にはわざわいのあることを見なさい。
四州(全大陸)の王マンダータルは、欲望に耽溺することを極めた人でしたが、ついに満足することなく死にました。かれの欲求はかなえられませんでした。たとい雨を降らす神が、七つの宝をあまねく十方に降らそうとも、もろもろの欲望は満足されることがありません。人々は、満足することなしに、死にます。
もろもろの欲望は、剣や槍に譬えられます。もろもろの欲望は、蛇の頭に譬えられます。それは、炬火(たいまつ)のように焼きつくします。それは骸骨に似たもので、無残に打ち砕かれます。
もろもろの欲望は無常にして、はかなく、苦しみ多く、毒も大きいのです。灼熱した鉄丸のようなものです。罪の根本であり、報いとして苦悩します。
もろもろの欲楽は、樹の果実のごとく、肉塊のごとく、苦しみをもたらすものです。
もろもろの欲楽は、夢のごとくに人を欺くものであり、借り物のようなものです。
もろもろの欲楽は、刀や槍のごとく、疾病であり、腫瘍であり、罪深き破滅者であります。炭火をおさめる穴のように、邪悪の根本であり、殺害であります。
このように、もろもろの欲楽は、多くの苦しみをもたらし、障害をなすものだと、説かれました。立ち去ってください。わたし自身は、この生存に対してなんの信頼もしていないのです。自分自身の頭が焼かれているときに、他人はわたしのために、何をしてくれるでしょうか?老いや死が追いかけているときに、それを滅ぼすために、励まねばなりません」
戸を開けて、母と父とアニカラッタ王とが、地上に坐って泣き叫んでいるのを見て、彼女はつぎのように言った。
「始めも終りもない輪廻の世界において、父の死や兄弟の殺害や自分自身の殺害の起ったときに、繰り返し泣き叫ぶ愚者どもにとって、迷いの生存(輪廻)は長いのです。涙と、乳と、血と、始めも終りも無い輪廻を想い浮かべて下さい。一人の人の一劫のあいだの骨を集めると、ヴィプラ山にも等しい大いさとなることを思い浮かべてください。輪廻する者にとって、ジャンブー川なる大地は、始めも終りも無い輪廻の世界に譬えられます。その大地を細分して微小なものとして棗(なつめ)の核ほどの丸さにしても、母の、そのまた母の数には追い付きません。父祖の数を草や木片や枝や葉の数と比べると、始めも無く終りも無いものであると思い浮かべて下さい。それらを分壊して四指の長さほどの丸い球にしても、父の、そのまた父の数には追い付けません。
東の海に浮かぶ盲亀が西から流れて来る軛の穴に、その頭を突き込むという喩えを思い浮かべて下さい。それは人身は得難いということを示す譬喩なのです。泡沫の塊りに譬えられる、はかない身体の宿命を思い浮かべて下さい。身を構成する五つの要素の集まりは無常である、と見なされよ。多くの苦痛を与える地獄のことを思い浮かべて下さい。あれこれの生存においてわれわれが繰り返し、墓場をみたして行ったことを思い起こして下さい。鰐の恐怖を思い浮かべて下さい。そうして四つの真理をじっと思いつづけなさい。甘露(不死の飲料)が存在するのに、なぜ、あなたは、五種の辛いものを必要とするのですか?けだし、あらゆる欲望の快楽は、五種の辛いものよりも、さらに辛いです。甘露が存在するのに、なぜ、あなたは、熱で焼き焦がすもろもろの欲望を求める要があるのでしょうか?けだし、あらゆる欲望の快楽は、燃え上がり、煮えたぎり、むらむらと怒り立ち、焼き焦がしているからです。
どこにも敵がいないのに、なぜ、あなたは、多くの敵のあるもろもろの欲望を求める要がありましょうか。もろもろの欲楽は、国王・火災・盗賊・水害・害心ある人に似ていますから、多くの敵をつくります。
解脱が存在するのに、なぜ、あなたは、殺害や束縛があるもろもろの欲望を求める要がありましょうか?人々は思いがけなく、殺害されたり捕縛されたりする苦しみを受けます。火をつけられた草の炬火は、それを持っている人を焼くが、それを放した人を焼きません。けだし、もろもろの欲望は炬火に譬えられます。もろもろの欲楽は、それを放さない人々を焼くのです。わずかな欲楽のために、大いなる安楽を捨てなさいますな。多髭魚が鉤を飲んで、あとで苦しむようなことをなさいますな。まず、どうか、もろもろの欲望を制御なさい。あなたは鎖につながれた犬のようなものです。実に、もろもろの欲望は、あなたを食いつくすでしょう。・・・飢えたチャンダラーどもが犬を食べるように。
もろもろの欲望に耽っているあなたは、限りない苦しみと、多くの心の煩悶とを受けるでしょう。はかない欲楽を捨てなさい。
不老(解脱)が存在するのに、なぜ、あなたは、老いるはずのもろもろの欲望を求める要がありましょうか。すべての生れは、どこでも死と病に捕えられています。これは不老である。これは不死である。これは老い死ぬことのない境地である。憂い無きものである。敵なく、圧迫なく、過ちなく、恐怖なく、悩みがない。この不死の境地は、多くの人々がさとったものである。そうして、今日でも、正しく専念する者は、これを得ることができます。しかしながら、努力しない人は、これを得ることができません」
もろもろのつくり出されたもののうちに楽しみが得られないので、スメーダーは、このように語った。アニカラッタ王をさとして、スメーダーは、自分の髪を地上に投げた。
アニカラッタ王は立ち上って、合掌して、彼女の父に懇願した。
「スメーダーをゆるして、出家させて下さい。彼女は解脱の真実を見る人となるでしょう」
彼女は母と父との許しを得て、出家した。
もろもろの欲望のもたらす憂いと恐れにおののいて、そうして最高の結果としての境地を学ぶうちに、彼女は六種の神通を現にさとった。
すばらしい!驚異である!
・・・王女の得たその安らぎは。彼女は、幾多の前世のうち最終時の前世における行ないを、つぎのように説き明かした。
「尊き師仏が世に出られ、僧院において新しい住居におられたとき、わたしたち三人の女友達は、精舎の献納を行ないました。その報いとして、わたしたちは、十たび、百たび、一千たび、一万たびも、神々のあいだに生れました。いわんや、人間のうちに生れたことは、なおさらです。神々のあいだにおいて、わたしたちは、大神通を具えていました。いわんや人間のうちに生れたときには、なおさらでした。わたしは、七つの宝をもつ転輪聖王の正妃であって、この王の宝としての女人でありました」
それが原因である。それが根源である。それが根本である。それが教えを静かに受けて知ることである。それが最初の帰趨である。それが真理を楽しむ者の安らぎである。
無上の智慧あるブッダのことばを信ずる人々は、このように語る。かれらは、迷いの生存を厭う。それを厭うて、汚れを離れる。
尼僧も、かつて世俗の生活のうちにあった時には、唯の女人であった。彼女らは濁悪の世に生き、この世に生きる苦しみ、つらさをつぶさに体験していた。夫に死なれ、子を亡い、人々にさげすまされ、生きて行くのがやっとのことであったという人々もいた。男運が悪くて、何度結婚しても破局を迎えるという、気の毒な、不運な女性もいた。身分が低いというだけで、虐げられて酷使されていた傭い女もいた。道徳的に堕落した生活をしていた女たちのすがたも描かれている。あまりのつらさに自らの死を決意した人々もいた。
たとい身分が高くて、富裕で、美貌で、才たけて、幸運に恵まれている女性でも、いつかは出会わなければならぬ悩みがあった。それは、いかなる美女も、年をとれば容色の衰えをいかんともすることができぬ、ということであった。
いかんともすることのできないこの悩みを救ってくれたのは、仏の慈悲であった。彼女たちの前に、釈尊や仏弟子たちが現われたのである。彼女たちは、仏の慈悲にすがって出家した。
こういう生活の悩み、信仰に入った喜びが、この『尼僧の告白』という詩にうちにありありと表現されているのである。
尼僧の教団の出現ということは、世界の思想史においても驚くべき事実である。当時のヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、東アジアを通じて、<尼僧の教団>なるものは存在しなかった。仏教が初めてつくったのである。
仏教が出現してから百年あまり(一説によると二百年ほど)経ってから、シリア王の大使でギリシャ人であるメガステネースがインドの大王のもとに来て、その見聞記をギリシャ語で残しているが、その中で言う、
『インドには驚くべきことがある。そこには女性の哲学者たちがいて、男性の哲学者たちに伍して、難解なことを堂々と論議している!』と。
そこの原文を直訳すると、
『かれら乞食して廻るものども、哲人たちの中で、優雅にして上品な人々は、敬虔と神聖性とのために必要であると考える冥府についての世俗的見解をはなれていない。婦人たちが彼ら哲人たちのうちのあるものどもと共に哲学するが、彼女らは神に属することどもから離れている』
当時いろいろ婦人の修行者がいたが、これは、主として仏教の尼僧に言及しているのではないかと考えられる。
こういう事情であるから、この『尼僧の告白』は、ひろく人類史的意義をもっているとともに、また個々の尼僧の心境告白は、いまでも、われわれの胸に強く迫るものがある。
( 中村元「尼僧の告白」より )
ほの暗き森の小みちを
わが行けばふいに開ける
朝の光よ
かろうじてからだ支える
わが下肢(あし)よ朝来るごとに
あらたな思い
ありがとうけさなおわれを
支えゆきて野鳥の森を
歩かせし下肢よ
すいれんの花すでに枯れし
沼のほとり
再び会えん蓮の台(うてな)に
今日退院。昨夜ほとんど一睡もできず。(・・・・・)
12時〜4時ひとり眠ってようやくふつうになった。8時にNobからTelが来てありがたかった。入退院14回くりかえしてきた私の存在が自他ともに不幸であると考えるのも私の小さな脳の”こだわり”かもしれない。しかし、こういう体で生きて行くのは正直なところ、たいへんむつかしい。私が「キリスト者」になれない理由は、イエスが30才の若さで自ら死におもむいたためだ。30才といえば心身共に絶頂の時。その時思う理想と、65才にして経験する病と老いに何年もくらすことは、何というちがいがあることだろう!!私はまだしもBuddhaのほうに、人生の栄華もその空しさも経験し老境にまで至って考えたことのほうに惹かれる。
人を愛するのは美しい。しかし愛することさえできなくなった痴呆の意識とからだはどうなのだ?だから愛せる者よりも価値が低いと言えるか。くるしみに耐えること、ことに他人に与えるくるしみに。(1979年1月19日)
( 神谷美恵子「日記抄」より )