< 仏教と国体の本義 >



 仏教は印度に発し、支那・朝鮮を経て我が国に入ったものであるが、それは信仰であると共に道徳であり、又学問である。而して我が国に入っては国民精神に醇化せられて、国民的な在り方を以って発展した。古くは推古天皇二年春二月に、天皇は皇太子及び大臣に三宝興隆の詔を下し給ひ、その詔によって君恩と親恩とに報ずるために寺塔が建立せられた。君親の恩を報ずるために寺を建てるといふ仏教伝来初期のこの精神は、やがて南都仏教に於いて鎮護国家の精神として現れ、天台宗・真言宗に至ってはこの標識を掲げ、その後臨済宗の興禅護国論の如き、又日蓮宗の立正安国論の如き主張となり、その他、新仏教の祖師達も齊しく王法を重んじた。而してこれと共に、その教理的発達にも大いに見るべきものがあった。真言宗が森羅万象を大日如来の顕現とし、即身成仏を説き、天台宗が草木国土も悉皆仏性をもち、凡夫も悟れば仏であるといひ、解脱を衆生に及ぼすことを説くところに、天照大神を中心とする神祇崇敬及び帰一没我の精神、一視同仁、衆と共に和する心に相応ずるもののあるのを観る。南部仏教の或るものに於いては、解脱に差別を説いているのに、平安仏教以後、特に無我に基づく差別即平等、平等即差別の仏教本来の趣意を明らかにして、一切平等を説くに至ったのは、やはり差別即平等の心を有つ我が国の氏族的・家族的な精神、没我的全体的精神によって攝取醇化せられたものであって、例えば親鸞が御同朋御同行と呼びかけているが如きこれである。浄土宗・真宗は聖道門に対する易業道の浄土門をとり、還相回向を説き、時宗は利他教化の遊行をなして、仏教をして国民大衆の仏教とした。親鸞が阿弥陀仏の絶対他力の攝取救済を詮き、自然法爾を求めたところには、没我帰一の精神が最もよく活かされていると共に、法然が時所所縁を嫌はず念仏して、ありのままの姿に於いて往生の業を成ずることを説いたところには、日本人の動的な実際的な人生観が現われている。又道元が、自己を空しうした自己の所行が道に外ならぬとし、治生産業皆これ報恩の行となす没我的精神、実際的な立場をとる点に於いて同様のものをもっている。この精神は、次第に神儒仏三教一致等の説ともなって現れるに至った。天台宗以下、釈尊よりの歴史的相伝師承を拠り所とし、聖徳太子に復らうとする運動を生じたところには、歴史・伝統を尊重する精神が見られる。かようにして我が国は大乗相応の地とせられて、仏教を今日にあらしめたのであり、国民的な在り方、性格が自ら顕現している。かくの如く同化せられた仏教が、我が文化を豊富にし、ものの見方に深さを与え、思索を訓練し、よく国民生活に浸透し、又国民精神を鼓舞しているのであって、彼岸会・盂蘭盆会の如き崇祖に関係する行事をも生ずるに至った。




 印度に於ける仏教は、行的・直観的な方面もあるが、観想的・非現実的な民族から創造せられたものであって、瞑想的・非歴史的・超国家的なものである。然るに我が国に摂取せられるに及んでは、国民精神に醇化せられ、現実的・具体的な性格を得て、国本培養に貢献するところが多かったのである。




 我が国の学問には、自ら肇国以来一貫せる精神が流れている。聖徳太子は、皇道の羽翼として儒・仏・老の教を摂取せられて、憲法十七条を肇作し、又三経(法華経・維摩経・勝鬘経)の義疏を著し給ふた。理(ことはり)即ち道理といふことを説かれるにしても、それは決して抽象的・普遍的な理法といふが如きものとしてではなく、具体的に一貫せる伝統精神の上に踏み行ふべき道として示し給ふている。而してこの道によって、当時の多岐多方面に亙る学問・文化は総合統一せられ、爾来常に復古と創造、伝統と発展とが相即不離に展開し、進歩を遂げて来た。




 我が国の道は、古来の諸芸にも顕著に現れている。詩歌・管弦・書畫・聞香・茶の湯・生華・建築・彫刻・工藝・演劇等、皆その究極に於いては道に入り、又道より出でている。道の現れは、一面に於いて伝統尊重の精神となり、他面に於いて創造発展の行となる。従って中世以来我が国の芸道は、先ず伝統に生き型に従うことによって、自ら道を得、而して後これを個性に従って実現すべきことを教えたものである。これが我が国芸道修行の特色である。




 没我帰一の精神は、国語にもよく現れている。国語は主語が屡々表面に現われず、敬語がよく発達しているといふ特色をもっている。これはものを対立的に見ずして、没我的・全体的に思考するがためである。而して外国に於いては、支那・西洋を問わず、敬語の見るべきものは少ないが、我が国に於いては、敬語は特に古くより組織的に発達して、よく恭敬の精神を表わしているのであって、敬語の発達につれて、主語を表わさないことも多くなって来た。この恭敬の精神は、固より皇室を中心とし、至尊に対し奉って己を空しうする心である。おほやけに対するにわたくしぼ語を以て自称とし、古くから用いられる「たまふ」、或は「はべる」「さぶらふ」等の動詞を崇敬・警護の助動詞に転じて用いる如きがこれである。而してこの「さぶらふ」「さむらふ」という文字から武士の意味の「侍」の語が出たのであり、書簡文に於ける候文の発達となった。今日用いられている「御座います」の如きも、同様に高貴なる座としての「御座ある」と、「いらっしゃる」「御出でになる」という意味の「います」から来た「ます」とからなっているのである。

 次に風俗・習慣に於いても、我が国民性の特色たる敬神・尊皇・没我・和等の精神を見ることが出来る。平素の食事も御飯を戴くといひ、初穂を神に捧げ、先ず祖先の霊善に供えた後、一家の者がこれを祝うのは、食物は神より賜ったものであり、それを戴くという心持ちを示している。新年の行事に於いて、門松を立て、若水を使い、雑煮を祝うところにも、遠い祖先からの伝統生活がある。賀詞を述べて齢を祝うのは、古に於いては、氏上が聖寿を祝い奉る寿詞(よごと)の精神につながるものであり、万歳の称呼の如きも亦同じ意味の祝言である。

 鎮守はもとより、氏神様といふのは、大体に於いて産土(うぶすな)の神と考えてよいが、地方的な団体生活の中心をなして今日に及んでいる。今日の彼岸会(ひがんえ)や盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事は、仏教のそれと民族信仰と合したものと思われ、鎮守の社や寺の境内で行なわれる盆踊りについて見ても、農村娯楽の間にこの両系統の信仰の融合統一が見られる。農事に関しては、豊作を祝う心、和合共栄の精神、祖先崇拝の現れ等をうかがうことが出来、同時に我が舞踊に多い輪をどりの形式にも、中心に向かって統一せられる没我的な特色が出ていて、西洋の民族舞踊に多い男女対偶の形式に相対している。子供が生まれた時、お宮参りをさせる風習が広く行なわれているが、これは氏神に対する古からの心持が現われている。

 年中行事には節供の如きものがあり、自然との関係、外来文化の融合調和等が見られるが、更に有職故実等に及んでは、その形の奥に汲み出される伝統精神を見逃すことは出来ない。年中行事には、既に挙げたように氏族生活の俤を留めるものもあれば、宮廷生活の間から生まれたものもあり、又武家時代に儀式として定められたものもある。いづれもその底には我が伝統の精神が輝いている。雛祭の如きは、最初は祓の行事を主体とし、平安時代の貴族の生活に入って、ひいなの遊びとなり、娯しみと躾とを併せた儀式的な行事となった。更にそれが江戸時代になっては、内裏雛を飾り、皇室崇敬の心を託することになった。



(昭和十二年三月三十日 文部省 思想局)





<自然法爾>


 「自然法爾というは、『自』はおのづからといふ、行者のはからい(自力による思慮分別)にあらず、『然』といふは、しからしむといふことばなり。行者のはからいからず、如来のちかひにてあるがゆえに法爾といふ。『法爾』といふは、この如来の御誓いなるゆえに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御誓いなりけるゆえに、およそ行者のはからいのなきをもって、この法の徳ゆえにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめて(あらためて)はからざるなり。このゆえに、義なきを義としるべしとなり」


 「『自然』といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御誓いの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 誓いのようは、無上仏(この上なくすぐれた仏)にならしめんと誓いたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆえに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。

弥陀仏は自然のようをしらせん料(ため)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし」


(親鸞)




<自己を習う>


 「仏道を習うということは、自己を習うことである。自己を習うということは、自己を忘れることである。自己を忘れるということは、環境世界に実証されることである。環境世界に実証されるということは、自己の身心も他己の身心も、脱落し果てることである。そこには悟りの痕迹もとどめない。しかも、痕迹もない悟りが、そこからも限りなく抜け出ていくのである。

 人がはじめて法を求めるとき、実はかえって法のありかを離れている。法が自分に正しく伝わったとき、たちまち本来の人となる」


(道元)