< 神の観念と仏教の思想 >
〜 トルストイの神の観念 〜
我らは前述の如く、その神学的考察と仏教の世界観の下に於いてキリスト教の神の観念について考察を与えた。そして、この仏教の世界観は我らに対して、キリスト教に言う如き人格的な神と言うものは本当に、つまらない、そして我らの合理的生活にとって役に立たないところのものに過ぎないとの感情をひき起こしたのである。特に、その神の観念が通常しばしば用いられている所のもの、即ち、神と言うものは一人の本当に現に人間のように行為しつつあるところの個人性、人格性をもっている存在であると見る場合には、我らはこの考え方に対して完全に「馬鹿らしさ」を感ずるのである。神が我らを創造し、つねに我らの運命を支配して、利己的なる哀願をさえも充足していると考えることは、我らにとって余りに不合理に思われるのである。
然し、神と言う観念に対してこれとは余程違った考え方で、即ち、むしろ仏教の世界観の中で既に取り扱い、保存せられているごとき考え方の神であるならば、我らは前のような感情を起すことが出来ないのみならず、それは反って不合理なことである。即ち、神と言うのは我ら人類と別段違ったものではなく、やはり我らと同じく運命に支配されているものであり、ただ、我らよりその精神力が若干優秀であり、従ってその生活状態が我らのそれよりは稍高等なものであると言うに過ぎない。神も我らと同じく最高なる解脱に向って活動し、努力しつつある所の一個の存在に過ぎない。こうした仏教的の神の観念であるならば、我らは認容することが出来る。然しこれとは反対に、即ちかの仏教的の神とは違って、キリスト教的な一個の全く具体なる神、人間的、個性的な神が存在するという考え方は、自明的に不合理な、つまらぬことである。神は仏教的に考えらるる通り、一つの精神的な、一つの概念的な存在であるべきなのである。「神」と言う存在相がどこかにあると言うのではなくて、我らの精神的能力の発展するところ、またその可能性のある以上、かならず我らよりすぐれたる、超感覚的な、一つの精神的状態の存在することを推定するのは不合理ではないのである。こうした神の観念の中に於いてのみ我らの理性は調和せられるのである。
自分はトルストイの思想の中に、こうした神に対する最高なる代表的意見の一つを発見せねばならぬと信ずる。それゆえに我らは先ず彼の言うことを聞こう。トルストイは彼の日記の一説につぎのように言っている。
「自分にとっては、神と言うものは、私の努力するところの目標である。そしてその神と言うものに対して、努力しつつある私の生活が依存しているがゆえに、神はまた自分にとって努力の目標でありうるのである。然し、神と言うものは、我らが感覚的に理解することも、ある一つの名称をこれに与えることも出来ないような具合に、全く我らの近づき難きものである。それでいて、しかも同時に我らは神を知る。・・・即ち、神に至らんとする自分の方向を私は知るのである。まことに、こうした神こそが、私の叡智の上に於いて信じうる唯一の価値あるものである」
「神はこの世界人類の創造者であるとか、神は”おめぐみ”の深い方であるとか、更にかくかくの功徳があるとか言うような、こんな神に関した一つの概念を私の叡智の上に作らせようとするすべての誘惑は、決して私にとって神の観念を構成するものではなくして、むしろ私をしてかの神から遠ざからしめ、または神に近づかんとする私の心を妨げるのである」
これらのトルストイの言葉が、いかに大なる真理を語っているものであるかは、この論文の初めの部分に於いて我らは既に論じたことである。こんな神の存在を我らは無理に我らの概念の中に押し込むことは出来ない。そしてまた、人間的な特性から推論して行くところの属性を神にも付加して、かくして神を我らの人間的な関係や状態で比較することは、到底我ら理性あるものに不可能なことである。然し、我らはかかる人間的な神の観念の中にいつも矛盾に遭遇するのであって、かかる観念は神を説明してくれる代りに、むしろ我らをして神について惑乱せしめるのである。なぜならば、人間的な、人格的な性質を神の上に加えると言うようなことはたしかに一つの不合理である。その理由は、こうした神の観念は人間的であり、人間の型をもって神を考えたものである。かくの如き人間化を神の上に行なうものであるから、かくして自然にまた、「創造神」の観念、即ち、世界及び人類のすべては神の創造するところであるとの考えが生じてくるのである。
「創造神としての一つの神は存在するものではない。存在するものは、ただ一つの「自我」だけである。この「自我」は、彼に与えられたところの感覚機関を手段として、世界を認識するものであり、そして彼の”内的なる”神父を、その特性ではなく、ただ単に、「存在其自身」を認識するのである。神と言うものは私の精神的自我の根源である。外的な世界はただ然し、私の限界を示すに過ぎない」。この「精神的自我」と言うのが、神父の一部である。我らの誰人の中にも、神らしき精神、即ち神性の一部がある。神はすなわち我らの内に存在するものである。なぜならば神と言うものは創造者ではないのである。即ち自分自身で種々なものを創造したり、何か新しいものを産み出すところの者ではない。神はむしろそれの原因、根源力である。我らの存在の基礎に神性は存在する。だから、「真の存在」に合致している所の「精神的自我」は、感覚的機関をもって、自分自身の中に神性を再び認識するのである。即ち、トルストイの最初の方の文章から出て来るように、感覚的な捕捉によって神を見出すのではなくて、むしろただ、仏教徒が幻影的な対象に支配せられずして、その真の存在の確実性を獲得するようなやり方に於いて、神を認識するべきである。以上の如き神であるがゆえに、キリストの如き誰人でも、自分の存在の根源たる一つの神父について語りうるのであり、もしくは、自分自身を「神の子」として呼びうるのである。即ち、キリストが神性を自己に見出し、自己を神子と呼びえたのは、この仏教的な神観、即ち我らの現象的存在を越えたる所に見出さるる真の存在の上に於いてのみ、神性は発見せらるるがためである。
「神と言うものは、自分自身で認識せられうるように、我らを創造する。だから、神の存在すると言うことは、神を認識することである。従って、神が我らを認識せられるように創造すると言うことは、取りも直さず、我らが神を認識すると言うことと全く同義である。
ちょうど、教師の中に彼が弟子に教えたところのものが入って居り、弟子の中に彼が教師から学習したところのものが存在するように、神を認識することは我らのものである。もしも、かくの如く神を認識することが我らのものであり、神の本体的存在が彼の認識であり、従ってまた、神の性質、神の存在が彼の認識それ自らであるときに於いては、我らは次の如きことを言いうるであろう。即ち、神の存在、神の性質、神の本体的存在は取りも直さず我らのものであると言いうるであろう。
もし、以上の如く、神の存在、神の性質、神の本体的存在と言うものが、我らのものであると言えるならば、その時は我らは神の子である。兄弟よ、我らが神の子と呼ばれ、神の子であると言う幸福、かかる幸福を神が我らにめぐんだことを思え」(エツクハルト)
このエツクハルトの言葉は、従来のキリスト教の神に観念を合理的にするために、認識の形式を用いたものである。神は決して我ら以外に超絶的に存在するものでも、我らを木偶的に製造せるものでもなく、もし、「神性」と言うものを認めるならば、それはどうしても我らの正しい認識の上に経験され、見出さるるものでなくてはならない。しかも、通常の欲望に支配され、束縛せられた認識の上にではなくして、むしろ、自由解脱の合理認識の上に見出さるる所の、真の存在をさすのである。神性と言えば神性であり、涅槃の語をこれにあてれば同時にまた涅槃である。それ故に、神性であり、自由解脱であり、涅槃であり、”さとり”である。神はこの外には何処にも存在しない。神は我らが高き精神的能力に達する時、初めて体験するところである。それは内に体験するものであって、決して天の彼方に見出すものではない。神は前節にも言えるごとく、要するに一つの精神的段階に過ぎないのである。トルストイは更に次の如く言っている。
「官能的、利己的ではないところの愛、純粋なる自己を離れたる愛、これらの真の愛は神的である。何となれば、神は愛である。もし、また愛するならば、その時は、我らは神を通して生活し、神によって生活する」
「神と言うものは限定することの出来ぬものであるが、ただ我らに於いて、我らは神を限定して認識するのである。我らは限定せられたる肉体を、神は限定せられざる肉体をあらわしている。・・・我らはただ部分であるに反して、神は実に全部である。我らは神の一部分、(もし、我らの真の存在が神と同一の意義であるとするならば)としての外、決して自分を認識することは出来ない」
これらの引文によって、次のことが誰人にも明瞭になったことであろう。即ち、神教ではどこに神の観念をもとめているのか、または、仏教における神の観念とトルストイの思想とが、いかに触れ合ったかが了解せられたことであろう。その両者の考察の類似していることは、誰人でもトルストイの思想を一見した時その類似に気付くであろう。だから、我らがトルストイの思想について更に多く考え、また益々彼の思想の各々を比較すればするほど、それだけ多く、この両者が類似していると言う感情がいかに正しいかを見るであろう。
トルストイが、神に名を似て呼ぶところのものは、あたかも仏陀が涅槃と言われたところのものと同じである。我らが利己的、偏頗的、不合理的な認識することを止めるなら、そのとき我らには本当に言い知れぬ幸福な状態が生じて来る。この状態はたしかに、神的なものとも言うべきである。我らの日常の生活とは確かに違った、常識では限定し、推測することの出来ぬものである。この状態は確かに仏教の最高理想たる涅槃であり、自由幸福なる精神的状態であり、言い難き、測り難き完全なる境涯であると共に、トルストイの所謂、神性の状態である。それゆえに、トルストイの神の観念は、自己から離れたるところに超絶する存在者ではなくして、自己の心性をいよいよ深く掘り、各自の霊性をいやが上にも修練せるところに体験するところの内的の神である。有形的、孤立的、人格的の神ではなくして、むしろ我らの内的、精神的の苦練の上に表象さるる所の尊き概念である。即ち自己の心奥に深く目覚めるところの一つの実在的概念に外ならぬ。突発的に、天の一隅から生じたところの神ではなくして、深く深く心宮の正しき体験に、自然に、内的に生じたものである。
トルストイが、「神は我らの努力の目標であり、神に対して、この努力をなしつつある私の生活は存在する」と言うときに、我らは次の如き質問を提起する必要を感ずるのである。即ち、仏教の努力の目的は何であるか、我らの努力しつつあるところの生活の目標は何であるか、トルストイが神の中に見出したその目標は仏教に於いては何に当たるのであろうか。その答えは極めて容易である。それはただ涅槃である。我らの目的は、努力生活の唯一の目標はただこの涅槃である。沙門果経にはこの心を次の如く説明している。
「涅槃は、精神的努力のこの上もなき到達目的である。この涅槃を越えては、更に高き、崇高なものは断じて生じて来ない」
(エルンスト)