< ”一刹那”とさとり >
〜 マイスター・エックハルト 〜
魂と神との結びつきは、魂と身体とのそれよりは、はるかに内面的なものである・・・。では訊くが、神の中に埋没してしまった魂はどんな有りさまであるのか?魂は自分を見つけることができるのか、あるいはできないのか?この問いに対しては、私の心に映ずるまま、次のように答えよう。魂が自らを見出すのは、およそ理性を備えた人間誰もが、自らに関する自己理解をもつ時点においてである、と。魂は神の本質という永遠性の中に沈潜するのだが、その根柢にまでは決して到達できぬ。それがため、神は、魂が転じて我に還り、自己を見出し、しかも自らを被造物であると自覚する。「一刹那」(微かな一転)を残しておかれたのである。
だから私は貴い人とは、神と共にあり、神の中に在って自己の存在、自己の生活、自己の幸せを、神からのみ汲んでいる人であって、決して神に関する知識、完全性、神に懐く愛の深さなどといったものに依らぬ人であると言うのである。だからして、われらが主は、いみじくも次のように言(のたま)うのである。永遠の生命とは神を唯一の真の神として知ることであって、神を知ることができるであろうというような知識の問題などではないのだ、と。
およそ差別あるところ、一(いつ)なるものも、存在も、神も、それ以外のものも、幸いも、満足も見出されぬ。それ故、神を見出すにはかの一(いつ)なるものに成れ。そして勿論、君が全くかの一(いつ)なるものでありさえすれば、差別というものがあるところでも、君はそのままで留まることだろう。異なったものは皆、君にとってかの一(いつ)なるものの一部であり、もはや君の邪魔となることはないであろう。
人が神を見る時、彼はそのことを知っており、自分がその認識の持ち主であることを知っている。すなわち、彼は今自分の見ているのは神であり、自分が神を認識していることを知っている。ところが、一部の人びとは、わが身に感ずる幸せの核心は何かと言えば、正に神を知っているという霊性的自覚のことだというように思っている。つまり、もし私がこういう悦びを現に感じていながらその大元に気がつかぬままでいるならば、それが一体何の役に立ち、どんな意義をもっているのか、というふうに。私はこういう立場には同調することはできぬ。
というのは、魂にそれ(つまり、自らもつ認識の一部始終の自覚)なしには幸せを感ずることはありえないとしても、その幸福感はそのことに帰着するのではないからだ。何故かと言えば、浄福の基盤は、魂が中間に何の介在もなしに神を見ることであるからだ。この時、魂は神の本体(根柢)からその存在と声明を受けとり、その本質を汲みとるからだ。神の根柢は、認識を懐く過程や何か他のものに対する愛を意識しないのである。その時、魂は本性の内で至極寂然としており、自己の在りかも知らず、神以外の何ものも認識することがないのだ。
魂が、自分が神を見たり、心を通わせたり、知ったりしていることを意識している時は、すでにそんこと自体が退歩であり、物事の自然の秩序の上層へと急遽退転してしまったことを意味しているのだ。
なぜかと言えば、人は自らと一なるものとの双方の内に一致点を求めつつ、自ら一なるものと成っていなければならぬからである。これは何を意味するかと言えば、人は神を見るとき、神だけを見なければならぬ、ということだ。それから更に、彼は”帰って来”なければならぬ。このことは言い換えれば、人は神の認識をもつと同時に、自分の認識の自覚をもっていなければならぬ、ということなのだ。
どんな些(ささ)やかな被造物であれ、被造物のほんの端くれであっても、君の注意を惹く限り、君はおよそ神を全く見ることはないだろう。だから、「愛の書」において魂は次のように言う。「私はわが魂の愛する人を探し巡ったけれども、見つけることができなかった」と。魂は天使達やその他多くのものを見かけたけれども、その魂の愛する人は見つからなかった。しかし、魂は続けて言う。「その後、少し先へ行ったら、私の魂の愛する人をとうとう見つけた」と。それは恰も魂が次のように言ったかのごとくである。「私が魂の愛する人を見つけたのは私が被造物たることを超え出た時であった」と。魂が、もし神を知りたいと思うなら被造物を乗り越え、あるいは、飛び超えねばならぬのである。
もし外側を覆っているすべての殻が魂から取り除かれ、またすべての神を覆う殻もはぎとることができるなら、神は魂に自らを直接、絶対無条件に与えたもうであろう。しかしながら、魂のまとっている外殻が手つかずのままであるかぎり・・・それらがどんな軽微なものであっても・・・魂は神を見ることはできぬ。たとい身体と魂の間に、それが一筋の毛幅程度でも何かが介在するならば、魂と神との真の合一はあり得ないであろう。もし形あるものに関してそうであるならば、霊性的なものごとについてはどれほど真実であることか!だからして、ボエティウスは次のように言う。「もし君がそのものズバリの真理を知りたいと思うなら、喜び・懼れ・自信・希望・そして失望などを退けよ」。喜び・懼れ・希望・そして失望・・・これらは皆神と魂との間に介在するものであり、すべてこれ周りを覆う殻なのだ。君がそれらにこだわり、また、それらが君に付着している限り、君は神を見ることはないだろう。
人の最後の、そして最高の別離は彼が神のために、神と別れを告げる時である。聖パウロも神のため神と別れを告げて、神より受けとることができたかも知れぬすべてのものと彼が差し出し得るすべてのものを、神について懐く個々の観念もろとも放棄したのである。それらのものと決別するにあたって、彼は、神のために神と別れたとはいうものの、そういう彼に対して、神は自性の内なる神として尚留まっていたのである。その神のあり方は、神はこういうお方だと誰にも想像される神としてではなく、またいずれこうなるべき筈だと思われている姿でもなく、むしろ、神の真にあるがままの自然のあり方の神だったのである。すると彼は神に何かを差し出したのでもなく、また、神から何かを受けたのでもないのだ。というのは、彼と神とは一単位で、つまり、純粋の一如であったからだ。
神が万物に与えたもうものは皆似通っている。また万物は神から出てきたものなので似ているのである。・・・一匹の蚤でも神の内に存する限り、自己生得の権利として、最高の天使よりも上の地位にいるのだ。かくして、神の内においては万物は平等であり、神自身であると言ってよい。・・・この似ており、同一であることを神はあまりにも喜びたもう余り、その中に自らの徳性とものがらすべてを注ぎ込まれるのだ。喩えて言えば、神のこの喜びは、土地が平らで滑らかな緑のヒースの上を思う存分走れ、と解き放たれ、芝生の上を全速力で疾走する一匹の馬の喜びと同じ位大きいのである。・・・というのは、これが馬の喜びであり本性を顕すものだからである。それは神にとっても同様なのだ。同一性を発見することは神の喜びであり、狂喜でもあるのだから。なぜかと言えば、神はいつでもその本性の全体をその中に籠めることができるからだ。・・・そもそも神は、一体性そのものなのである。
そこから私がやってきたところの母胎に戻ってみると、神などはなく、私は単なる私であった。私は何も望みも欲しもしなかったのだ。というのは、私は純粋な存在で、神の真実によって自己を知っているものであったからだ。その私が私を欲しただけで、他の何ものをも欲しなかったのだ。それに、私は私の欲したものであったし、私はかつての私を欲したことになる。だからして、私は神とかその他のいかなるものにも拘束されずに存在していたのだ。けれども、私が自分の自由意志から離れて、被造物としての存在を受けとった時、その時、私は神を持ったことになる。何故かと言えば、被造物が存在する前は、神は神ではなくして、むしろ神の前身であったからである。ひとたび被造物が存在するにいたり、被造物性を身につけるにいたるや、神はもはや本来のあり方のうちにある神ではなく、被造物と共存する神となったのである。
神性は、自ら被造物に縁を結ばんがためには神と成らねばならぬ。世界の創造主としての聖書の神は、もはやかつての神ではない。彼は世界を創造することによって、今の自己自身を創造したのである。しかし、この神すら、時の次元において考えられてはならぬ。時間の上に神は相対的な心の創り出したもので、その限り、彼は神性から遠くへ距たっているということができる。彼はわれわれと同様、被造物の一員にすぎぬ。エックハルトは言う。「もし一匹の蚤が、自分がそこからやってきた神的存在の永遠の深淵を探し出す知恵をもつことができたならば、神は神として存在する一切のものをもってしても、その蚤に充実と満足を与えることができないであろうと言ってもよかろう」。時の中に置かれた神は、もし蚤のまさしき本性の中に分け入ろうとするならば、蚤の知恵を有っていなければならぬ。魂の中でこの知恵が生起することを示さんがために、エックハルトの言葉を用いるならば、この”一刹那”という表現が仮定されたのである。
by鈴木大拙