< 古池や・・・ >


〜 鈴木大拙 〜






古池や 蛙とび込む 水の音



 この句は十七世紀の日本の俳句界に、芭蕉(1644〜1694)が与えた最初の革新的な警鐘であったといわれる。 彼以前の俳句はたんなる娯楽以上の深い意味のない、一種の言葉の遊びだった。 この「古池」の句によって、それに新しいスタートを与えたのが芭蕉であった。 この句を作る動機については、つぎのような話が伝えられている。


 芭蕉がまだその師仏頂和尚のもとで参禅していた頃、ある日、和尚が彼を訪ねて来て問うた。

『今日のこと作麼生』近頃どう暮らしていられるか。芭蕉答えて、

『雨過ぎて青苔湿ふ』

仏頂はさらに、

『青苔いまだ生ぜらるときの仏法いかん』

『蛙飛び込む水の音』

と芭蕉と答えた。


 仏頂が芭蕉の禅機の深さを知ろうと思って放った第二矢『青苔の生ぜざる以前の仏法はどうじゃ』という問いは、『アブラハムの生れいでぬ前より我は在るなり』(ヨハネ伝第八章五十八)というキリストの言葉に相当する。 禅匠はこの「我」の誰であるかを知ろうと欲するのである。 キリスト信者は『我は在るなり』(”Iam ”)という主張だけで十分だったろうが、禅では問を発して答ができなければならぬ。 これが禅直観の真髄であるからだ。 ゆえに仏頂は『世界が存在した以前になにが在るか。』と尋ねる。 すなわち『神の「光あれ」といった前の神はどこにいる。』 仏頂禅師はなにも雨降って青苔生ずることなどを語っているのではない。 禅師の知りたいのは万物創造以前の宇宙風景である。 時間なき時間はいつであるか。 それは空な概念にすぎぬか。 空な概念でないとすればわれわれは他の人のためになんとか述べられるに違いない。 芭蕉の答えは『蛙飛び込む 水の音』であった。


 そのとき発せられた芭蕉の答には「古池や」の初句はなく、完全な十七文字の俳句にするため後になって附加されたということだ。 この句の背景を成すものはじつに芭蕉の生そのものの性質への洞徹である。 彼はまことに創造全体の深みを見通し、そこに彼の見たものが古池の句に描かれて現われたのである。


 散文的に傾いた近代人が芭蕉を理解するように、いま少し解りやすく彼について説明しよう。 多くの人はこの古池の句を寂寥または閑寂の境地を描けるものと解しやすい。 彼らによれば、つぎのような方向へ想像を追いたがる。 古池は亭々たる樹々に囲まれた古刹の境内などによくある。 池のまわりには古びた灌木や藪が枝をのばし葉をしげらせている。 かかる環境が漣もたてぬ池の面に静寂の度を加える。 この静寂が飛びこむ蛙に妨げられるとき、妨げそのものが四辺を領する静寂をたかめる。 飛びこむ音が反響し、その反響が環境全体の静けさを意識させるのである。 しかし、この意識はその精神が真に世界精神そのものと一致している人によってのみ覚醒される。 この直観または霊感に声を与えるためには芭蕉が真に偉大な俳人たることを要した。 かようにして、禅をただ閑寂の教えと考える批評家たちは、この点からそれと俳句とを関連させて考えたがる。


 しかし、自分の考えでは、禅を寂静主義(十七世紀時代にカトリック教会内に存した神秘主義的運動)の福音と解するのはまったく要領をえていないし、また、芭蕉の俳句を閑寂の味わいと解するのも要領をえていない。 二重の誤りがここでは犯されている。 禅についてはすでに他のところで愚見を述べてきたから、ここではただ正しい芭蕉の解釈だけに止めておこう。


 俳句は元来直観を反映する表象以外に、思想の表現ということをせぬのである。 まずこういうことを知らねばならぬ。 これらの表象は詩人が頭で作り上げた修辞的表現ではなくて、直接に元の直観の方向を指すものである、否、実際は直観そのものである。直観を得れば表象は透明となり、ただちにその体験の表現として意味をもつ。 直観はあまりに内面的、個人的、直接的なのでこれを他に伝えることができぬ。 それで直観は表象を求め、これを手段として他へ伝わりうるようにする。 が、かかる体験を持たぬものには、単にその表象を通して推論的にその事実、その体験そのものに到達することは困難であり、ほとんど不可能である。 この場合、表象は観念や概念に形を変えられ、人の心は、ちょうどある評家たちが芭蕉の古池の句に下したと同様、これに知的解釈を施したがるものだからだ。 かかる考えはまったく俳句に含まれる内的の真と美を破却するであろう。


 われわれの心が意識の表面で動いているかぎりは推理から離れられぬ。 古池は孤独と閑寂を表象するものと解され、それに飛びこむ蛙とそれから起こるものは、周囲をとりまく一般的な永久性、静寂感をひきたたせ、これを増大する道具立だと考えられる。 が、それでは詩人たる芭蕉はいま自分らが生きているようにそこに生きていない。 彼は意識の外殻を通りぬけて、最深の奥処に、不可思議の領域に、科学者の考えるいわゆる無意識を超えた「無意識」のなかに入っていたのである。 芭蕉の古池は、「時間なき時間」を有する永久の彼岸によこたわっている。 それはこれ以上「古い」もののない「古さ」である。 どんな規模の意識もこれをはかることはできぬ。 それは万物の生ずるところであり、この差別世界の根元であり、しかも、それ自身にはなんら差別を示さぬものである。 「雨降って」「青苔生ずる」世界を超えるとき、われわれはそこに到るのであるが、これを知的に考えるときは、一つの観念となり、この差別の外にまた一つの存在を持つこととなり、これまた知的の対象となる。 直覚によってのみこの無意識界の無時間制は真に把握される。 空の世界がこの日常五感の世界の外にあると考えられるとき、実在の直覚的把握はありえない。 感覚的・超感覚的の二つの世界はべつべつのものではなく一つのものである。 それゆえ、詩人が彼の「無意識」を洞徹したのは、古池の静寂にはなくて、飛びこむ蛙のみだす音にあった。 これを聞く耳にあった。 この音がなければ、創作活動の源泉であり、すべての芸術家がその霊感を仰ぐところの「無意識」への洞徹が芭蕉にはありえなかった。 


 分極作用が止まる、というよりもそこから始まるところのこの意識の瞬間を述べることは難しい。 これら矛盾反対の用語をそこに適応すれば、どうしても論理的に不都合が起こるに決まっているからだ。 実際にこの種の体験を有するのは詩人か宗教的天才であって、この体験の扱いかたによって、それはある場合芭蕉の俳句となり、ある場合禅の言葉となる。


 人間の心はいわば幾層かの意識・・・二元的に構成されている意識から無意識にいたるまで・・・によって作られていると考えうる。 第一の層の人が一般に動くところ、ここではなにもかも二元的に組み立てられ、分極作用がこの層の原則になる。 その下のつぎの層は半意識面であり、ここに貯えられる事物はいつでも必要なとき意識の表面にもたらせられる。 これが記憶の層である。 第三層は普通心理学者によって定義される無意識である。 喪失した記憶はここに貯えられる。 普通にいう心の力が異常にたかまったとき、それがよみがえる、そしてそこに埋蔵されていた記憶・・・誰もその期間を知らぬ、無始劫来という、それが、絶望的なあるいは偶然的な破局の起こるとともに表面にもたらされる。 しかしこの無意識層は最後の精神層ではなくて、さらに真に深い深いところにわれわれの人格の地盤となるべつの層がある。 「集合的無意識」とも「無意識一般」とも称せらるるもの、これがやや仏教の阿頼耶識の思想すなわち「蔵識」、「無没識」にあたる。 この「蔵識」、すなわち「無意識」の存在は実験的に明示することはできぬが、それを定めおくことは意識の一般事実を説明する上に必要である。


 心理学的にいうとこの阿頼耶識すなわち「集合意識」をわれわれの心的生活の基礎と見なすことができる。 しかし、芸術的または宗教的生活の秘密を把握するために実在そのものに到達せんと思うときには、「宇宙的無意識」となすところのものを持たねばならぬ。 「宇宙的無意識」は創造性の原理、神の作業場であり、そこに宇宙の原動力が蔵せられる。 あらゆる芸術品、宗教人の生活と向上心、哲学者を動かす研究心・・・これらいっさいが、すべての創造能力を抱く「宇宙的無意識」の源泉からくるのである。


 芭蕉はこの「無意識」を直覚し、その経験が古池に飛びこむ蛙の句に表現された。 この句はたんに社会生活の騒がしい表面の下にあると、ある人が考える静寂だけを詠じているのではない。 それと同時にこの複数性の世界において遭遇するところの、そして、宇宙的無意識におよぶときにのみ価値と意味をうるところの、さらに下方に在る或ものを指しているのである。


 ゆえに日本の俳句は、長くて、手のこんだ、知的なものたることを要しないのである。事実、それは観念的な構成を避ける。観念に訴えれば、その無意識への直接指示や直覚的の把握が、狂い、損なわれ、妨げられ、永久にその新鮮味と生命力を失う。 その意図するところは他の人に元来の直覚を呼びおこすにたる最も適当な表象をもたらすにある。 俳句にかく盛られ整理される表象は、そのなかにつたえられる意味を読みうるように訓練されていない頭の人には、全然解らぬかもしれぬ。 芭蕉の句の場合でも判るように、俳句を味わうように教えられていない多くの人は、ふつう古池、飛びこむ蛙、水の音というような知り切った事象の列挙になにを見ることができようか。 なるほど、これらの事象はたんに列挙したのではなく、感嘆詞の「や」と「とびこむ」という動詞がある。 しかし、俳句は十七文字にすぎない。 しかもなんという深い直覚の真理がそこに表現されていることだろう。・・・あなどりがたい堂々たる観念の配列をもってしても適当に表現しえないような真理が。


 宗教的直覚も通例簡潔な用語で表現される。 それは精神的体験を平易に述べたものである。 もっとも禅ではしばしばそれは詩句の形を帯びているから、この点禅は俳句に近いものがあるといえる。 これらの平易な文句が知識的に分析されうる場合は、哲学者と神学者はたがいに競ってその題目について何巻もの書物を書く。 同様に、俳人を動かした詩的直覚と、詩的思慕とが、他の種類の詩人の手にかかると、さらに長い手のこんだ詩の因となりやすいであろう。 本来の霊感に関するかぎり、芭蕉は西洋のどの詩人にもおとらぬ偉大な詩人である。 文字の数は詩人の真の資質となんら関わりがない。 詩人が使う手段はまったく偶発的で変化するかもしれぬが、われわれが人間や事物を判断するのは偶発的なものによるのではなくて、本質的にそれらを組成しているものによるのである。