< つれづれなるままに >
〜 吉田兼好 〜
八つになった年、おやぢにたづねていふには、
「佛とはどんなものなんでせう」といふと、
おやぢの曰く、
「佛には人がなったのさ」。
再び、
「それでは、人はどうして佛になるのですか」とたづねると、
おやぢもまた、
「佛の教によってなるのだよ」と答へる。
また、たづねて、
「その教へてござった佛に対しては、どんな佛が教へなさったのでせうか」と。
その答へ、
「それもまた、前の佛の教によっておなりになるのさ」と。
また、たづねて、
「その教へ始めでござった最初の佛は、どんな佛なんでせう」といふと、
おやぢ、
「天から降ったか、地から涌いたかだろうな」といって、えへへと笑ふ。
おやぢも、
「子供に問ひつめられて、返事もできなくなっちまひました」と、
大勢に話しておもしろかった。
〜 徒然草 第二百四十三段 〜
「抄にいはく。此だんは、兼好の身のうへをいひて、それにつけて、一部をくくりたり。仏の先をとひとひして、天よりやふりけん、土よりやわきけんといひのこしたるなり。自己の工夫にて、得道成仏させんためなり。この段には、秘伝あり。伝授しても、多年工夫せずしては、がてんゆかぬ事なるべし」(磐斉抄)
「此章は、上に、ひたと妄想をはなれて、道に入らん事をいへり。其道といふは、此仏道也。其仏とは、いかなる物ぞと尋ねたる次第也。此草子一部の終にいたりて、仏をとひつめて、つゐに、仏の正体のしれぬ所、不可思議の妙所なり。言語も弁ずる事あたはず、文章もかきしるす事のならぬが、至道の極意なるべし。よろづの事も、是になつらへしらせんための、一段の話則なるべし。心をとめて、ふかく玄底を工夫すべき事なりぞ」(参考)
「此章、結文にして、天よりや降りけん、地よりやわきけんと云ふは、序文に、よしなしことと云首尾也。よしなしごととは、由来なき義なり。天よりや降けん、地よりやわきけんと云も、又、由来なき義なり。しかりといへ共、一部の内に、儒・釈・道の三教をあらわし、兼て世事をしらしむる事、尤其故あり。只、始終に、兼好が卑下の詞を書り。且亦、一段の章趣は、久遠実成の釈尊の御事さへ、風俗の論に及ては、此如。いはんや、此双紙などは、云けつからは、何の由来もなきに似たれ共、又、由来なき事にも非ずと云心をふくみて記するか。作意益々深切也」(拾遺抄)
〜 安良岡康作 〜