< 苦難に対する態度 >


〜 関東大震災後の救援活動期 賀川豊彦 〜




 山と盛り上げられた白骨の前に立ちて、私は言葉も無く、涙ぐむ。

焼け潰れた安田邸が、旧主の亡霊を偲ばしめるやうな形をして立っている。


 まだ、そこここに注意して見ると人間の骨片が出てくる。三萬四千人が一度に焼き殺されたと云うその惨状を思い浮かべて、私は云ひ現はす可き言葉も無い。


 その日に人間の身体に火がついて、消そうとしても消え無かったと、人は云う。倒れたものはみな口から血を吐いて倒れたと云う。


 三萬四千の生霊が、黒板のチョーク画を拭き消す如くに地上より消え失せて了った。


 考えてみると痛ましいことである。人間は松火のように燃え上がり、火焔の旋風に巻き上げられ、火玉となって、遠くまで飛んで行った。痛いとか、苦しいとか云うことはもう過ぎ去った事実であった。凡てが超越的の出来事のやうに見える。


 私はそれに就てわからぬことが多くある。然し私はかく信じたい。


 神は、この苦痛を以ってしても猶、愛であると・・・


 苦痛は私共に取っては善き賜である。死さえ、神の御心である。神の懐にて凡てが溶解せられている。私は凡ての苦痛を持ってしても猶、神を疑うことが出来ない。私は変転の凡てを甘受する。


 万能の中には苦難の出現をすら可能とする。私が神となる日、私は喜びの反対である苦痛をも造るであろう。私が神であれば、生の反対である死を創造するであろう。


 万能の意味は、苦難の創造に対しても制限が無いと云うことである。全能の意味には生と共に死をも創り得ると云うことが含まれている。


 無から有を、苦難より喜悦を、死より生を創造し得るものは、有より無を、喜悦より苦難を、生より死をも創造し得るものでなければならぬ。


 神の為に制限の墻壁を結び、『何故なればおまえは、悪を作り、苦難を撰び・・・』と問い得ようぞ?


 全能者に制限は無い。神の為には、凡てを許容せねばならぬ。全能者の手に陥る者は苦難と死の賜を甘受せねばならぬ。それが創造の秘儀である。悲しむものが幸福であり、飢え饐くものが幸福であり得る生活はただ全能者の手に陥り、創造の秘儀より出発して、神の全能なる芸術に参与するもののみそれを味わい得るのである。


 苦難は芸術の終点に立つ。全能者のみこの芸術を味い得るのである。苦難はそれのみが終点ではない。生命の芸術に於いて、変転の可能性を信ずるものが、之を受け取り得るのである。


 苦難を創造するものは神であることを信じ得るもののみがそれを芸術とし受け取る。


 十字架の芸術はそこにある。神の芸術は苦難を蒔いて生命を刈り取ることにある。一粒の麦を地に落として萬粒を苅り入るることにある。


 苦難の籤をひくものは、神の籤をひくものと考える必要がある。苦難のみを思いつめるものはそれに打ち勝つことを知らない。然し、神の為に苦難を忍ぶものは、苦難を芸術化する。


 苦難が美と変わるのはその心持から出発する。誰しも十字架は悲しいこと、いやなこと、むごつけ無いことである。然し大工イエスに於いては十字架が反って法悦の輝きであったと云うことは、苦難をすら聖化し甘受し得るものは、他に余す可き聖化が無いからである。


 苦難の聖化は、神の最後の芸術である。苦難にすら打ち勝つものは、他の凡ての喜悦に打ち勝ち得るに決まっている。


 見よ、苦難は最高に芸術では無いか?世界苦を除き得るものは、他に残す可き悪が無いではないか?


 苦難は相対の世界に立つものには永遠に残る。相対よりよう脱却し得無いものは、苦難に勝つ可き道を知らない。絶対の秘儀に這入り得るもののみ、それに打ち勝つ可き秘儀を知る。絶対なるものは生命の外には無い。


 延び上がり、打ち砕き、苦難の中に飛び込んで行く、生命は苦難に怖じない。苦痛は生命に取っては,実在の本質では無くして,その附録であり、装飾である。


 苦痛が生命の装飾であることに感付くものは、苦痛を怖じ無い。生命に対する幕間は暗黒に見えても、それで苦痛の総量を計算することは出来ない。生命は苦痛よりも強い。被服廠跡にまた青草が萌え出で、バラックの中に人間が群がる。生命は火焔より強い。


 地球が、太陽系の一角に植えられてから幾兆萬年経つか私は知ら無い。火の海を冷えさませて、大地を海の中から生え出ださしめ、地震と、噴火と、暴風と、洪水の激しき変動を越えて、アメーバーを人間にまで造り上げた宇宙の内なる神は幾百萬年の変動を貫いて、退化の道をお取りにはならなかった。


神から云えば、折には悲観したことも有ったかも知れ無い。その中にでも、神は凡ての苦難を貫いて、人間創造にまで成功したのである。或時にはあまりに打ち続く大爆発と大噴火の為に炭酸瓦斯が地殻の表面を蔽ふで、高尚な動物らしいものが創れなかった時代もあったろう。大蜥蜴が地上を”のそのそ”と歩き廻り、有肺魚が、その醜い姿で地上を探検に出かけたこともあったのだ。その後また炭酸瓦斯が凡て水に溶けおとされ大蜥蜴が一度に斃死せねばならぬようなこともあった。然しそれでも、神は失望しなかった。


 神は生物進化の道程の手をゆるめ無かった。失望するなよ、若き魂よ、神は嘗て失望したことが無いではないか?苦難は彼に取って完全な芸術である。


 ナザレのイエスは死を彼の芸術の一種と考えた。彼はそれに対して何等臆する処が無かった。殉教者に対して苦難は光栄の極致である。


 そうした場合に、苦痛は苦難としての本質を全く失って了っているのである。悦んで受け得る苦痛は苦痛では無い。それは光栄の一種類である。


 光栄の苦難に参与せよ、神に忠なる若者よ、神に生くるものには、苦痛の流血は宝石にも勝る。たとえそれが平凡時の平凡なる苦難であるにしても、苦難は勝利によって呑み亡ぼさるべきものである。苦味は陶酔者の口舌にはこの上なき芸術である。


 苦き杯を逃げるな、友よ、『み心の儘に』を神に告げよ!苦杯を盛られる日に真実の芸術があり得る。強くあれ、神の如く強きものには、苦痛は北斗星の如く、良心の芸術として好愛せらるる。苦痛によって愛が密着する。之れを受難の真理と云う。苦難を通過せざる愛は、愛の真実を持た無い。愛が錬われる為には苦難の鍛錬が必要である。


 神の打ちおろす苦難の鎚にひるむな、苦難の火花は芸術の最後の至聖所である。此処に入るものは選ばれたる至高の魂である。


 受難によって、仲保者になるが善い。受難の芸術は人を神に造り換える唯一の道である。苦難は、神とその子等のみが負い得る光栄である。苦難を甘受するものは、最後の階段に登る。そこにて、神は直接その魂にす囁く。





(1923年12月14日 本所松倉バラックにて)