< クリスティーナ大公妃あての手紙 >


〜 科学と信仰 〜






 私は二、三年前、妃殿下がよく御存じのように、天界の中に、この時代以前には見られていなかった多くの特殊な事物を発見いたしました。 それらの事物の新鮮さは、それらから哲学者の諸学派の間で一般に抱かれている若干の自然に関する命題と矛盾するものとして導かれる、いくつかの結果はもちろんのこと、私に反対する少なからぬ数の教授たちをいきり立たせました。 あたかも私が自然および科学を混乱させるため、それらの事物を天界に私自身の手で置いたかのように。 彼らは、真理の増大は、調査および学問内容の増加や基礎固めに役立つものでこそあれ、それを低下させたり破壊したりするものではない、ということを忘れているようであります。 そして、真理に対してよりも、自分自身の意見により大きな愛情を示しつつ、彼らは、もし自分自身で見ようとするならば、彼らにもある、他の人々と同様な感覚が証明したであろうと思われる新しい事物を否定したりつぶしたりしようと努めました。 このため、彼らはさまざまな事件をつくりあげ、空疎な議論に満ちたいくつかの出版物を刊行しました。 そして彼らはそれらの中に『聖書』のいくつかの箇所からの証拠を撒き散らすという重大な誤りを冒しました。 彼らはそれらの文句を正しく理解することに失敗しているだけでなく、それらの証拠なるものは、彼らの目的に対しても適合しておりません。 それらの人々は、もし聖アウグスティヌスの非常に有益な文言に注意を払いさえすれば、おそらくそのような誤りに陥らずにすんだでありましょう。 その文言は、はっきりしていなくて議論だけでは理解が困難なことがらについて、われわれが何か積極的な陳述を行うことに関するものであります。 天界の物体について、ある自然の結論を語る場合、聖アウグスティヌスは次のように書いておられます。 『われわれは真面目な信仰において節制ということにつねに留意しつつ、疑わしい点については何事も不用意に信じてはなりません。 それは、後になって旧約あるいは新約のどちらの「聖書」とも矛盾しないということが明らかにされるかもしれないことがらに対して、われわれの誤謬に都合のよいように偏見を抱く、というようなことをしないようにするためなのです』。




 そういうわけでありますから、自然の諸問題を論ずる場合は、『聖書』の章句の権威から出発すべきではなく、感覚による経験と必然的な証明をもとにすべきである、と私には思われます。 なぜなら『聖書』も自然も、ともに神の言葉から出ており、前者は精霊の述べ給うたものであり、後者は神の命令によって注意深く実施されたものだからであります。 一般的な理解に資するために、章句の裸の意味に関するかぎり、絶対的な真理とは異なる多くのことがらがのべられております。 これに反して、自然は無情で不易なものであります。 そして自然は、自ら課せられた法則の言葉を超越するようなことはありません。 また自然は、彼女の隠された理性や、操作の方法が人々の理解能力の中にあるかどうかについては、いささかもそれを気にしていないように思われます。 それゆえ、五感による経験がわれわれの眼前に提示してくれたり、必然的な証明が結論するところの、自然の諸効果なるものは、さまざまな意見を持つように思われる『聖書』のいくつかの章句についての疑念を呼び起こしたり、ましてや、それらを非難するために、用いられてはならないのであります。 さらにいいますならば、『聖書』のすべての章句は、自然のすべての効果に責任があるよう義務づけられてはいないのであります。 神は、『聖書』の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります。




 これらのことがらから、とくにわたくしたちの問題について次の結論が必然的に導かれます。 聖書は、天界が動いているのか静止しているのか、その姿は球形なのか円板状なのか、それとも平面状に広がっているのか、大地は、その中心に位置するのか、それともその一部分の中心なのか、そのようなことをわたくしたちに教えようとはお望みになりませんでした。 そして同様な種類の他の結論をわたくしたちに押しつけようという意図も全くお持ちになりませんでした。 大地や太陽が動いているか、静止しているか、ということはすぐ前に引用しました言葉と密接に関連しています。 それは、どちらが正しいかを決定しなければ他の側も確定できないという性格のものであります。 ところでもし、聖霊が十分考慮の上、その御意図、すなわちわたくしどもの救霊に関係のないような種類の命題は教えなくてもよい、ということでありますならば、どうして一方の側が誤りで、他方の側をとらねばならないのでございましょうか。 どうして一方をとることが、信仰の上で、そんなに必要なのでございましょうか。どうして一つの意見をとることが異端であり、魂の救済に無用なのでございましょうか。 聖霊は救霊に関して何もお教えになるお気持ちがないとでもいうのでしょうか。 私はここで、非常に高い位におられる、ある聖職者に方から伺った言葉をのべたいと思います。 すなわち、聖霊の御意志は天界にどのようにして行くかを教えることであって、天界がどのように運行しているかを教えることではありません。





 信者の中には、天界の運動に関して、それは静止しているのか動いているのか、という質問をする人々がいます。 そして、もし動いているのなら、どのようにして支えられているのか、と彼らはいいます。 もしじっとしているとしたら、天界に固定されている星々は、どのようにして東から西へ回るのか、また、北極に近い星ほどより小さい円を画くから、天界は、もし未知の他の極があるとすれば、いくつかの極のまわりを回転しているのか、あるいは、他の極がないとすれば、円板状に動いているのか、などという質問をする人々がいます。このような人びとに対しわたくしは、それらのうち、どれが本当にそうなのかを見出すためには、精細かつ深い検討が必要であろう、と答えましょう。 しかしながらわたくしには、これらのことを行ない、議論する暇もないし、むしろ、直接、救霊や教会のため教化活動を行なうほうが、わたくしにとって、より本質的な義務であると考えます。




 何人もすでに一般にのべられている諸意見について満足しないからといって、軽率であるとみなされるべきではありません。 自然に関する議論においては、人々を喜ばせる意見に与したり、それに固執したりする人であってはなりません。 そのことは、太陽の安定性や大地の可動性について、偉大な哲学者たちの間ですでに何千年来議論されて来た問題に関して、とくにそうであります。 その太陽の安定性と大地の可動性についての意見は、ピタゴラスによって、またその学派に属するすべての人々によって、そしてポントゥスのヘラクリデスによって、抱かれていたものであります。 それはまた、プラトンの先生であるフィロラウス、およびアリストテレスによれば、プラトン自身によっても、同じく抱かれていたとのことであります。 プルタークは、『ヌマの生涯』の中で、プラトンは、彼がすでに成人したとき、他の考えを抱くことは馬鹿げているといった、と記しております。 同様なことは、アルキメデスが書いていますように、サモスのアリスタルコスによっても支持されています。 数学者のセルカス、キケロによれば、哲学者のニケタス、そのほかたくさんの人々によっても支持されてきました。 そして、それは最後に、ニコラウス・コペルニクスによって、拡張され、多くの観測や照明を用いて確固たるものにされたのであります。



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