< 六祖壇経とは >



 これは禅宗の六祖の慧能大師による説法と生涯の出来事の収録です。慧能大師は紀元681年に韶州の大梵寺で説法しました。韶州の刺史の要請で門人の法海がその説法内容を集録して本にしました。慧能が亡くなった後、唐代の末に五宗に分かれました。しかし、彼等の禅法理論の基本は皆同じです。例えば、元の時代の徳異が言ったように、「五宗の大本は、ほとんど<壇経>からです」。<壇経>の重要さがこれで分るでしょう。


 六祖壇経のフルネームは<六祖大師法宝壇経>で、略称は<六祖壇経>、又は<壇経>と言います。この経は、後世になって沢山の版があります。数百年で、中国及びアジアなど沢山の国で影響を及ぼしたものは、明に時代以後に人気のあった「宗宝本」です。

ここでは、宗宝本の版の壇経によって内容と重点を解説いたします。


 <壇経>は、計十品あります。説法の場で分けると次の三つがあります。


一、大梵寺での説法


第一品<行由> 自分の歴史を語りました。


第二品<般若> 主に「摩訶般若波羅密」を解説し、般若の智慧は誰もが持っている、成仏は自性に依ると言いました。


第三品<疑問> 聴講者の韋刺史等の疑問に対して回答し、福田は功徳ではない、西方浄土は自分の心にあると強調しました。


第四品<定慧> 定慧の意味を説明し、禅定と智恵を修める三大命題は、「無念為宗、無相為体、無住為本」と言いました。


第五品<坐禅> 坐禅の意味を説明し、「自性本性清浄」を特別に強調しました。


二、曹渓山中での説法及び弟子達との問答


第六品<懺悔> 懺悔の意味を説明しました。


第七品<機縁> 曹渓山中で来訪した方との対話。


第八品<頓漸> 神秀の弟子の志誠・神会との対話。


第九品<宣詔> 則天武后、唐の中宗は慧能に京に来てくださいと手紙を出しました。慧能は、病気を理由に行かなかった。朝廷から慧能に褒賞状が送られた。


三、亡くなる前に弟子達に言い残した説法


第十品<付属> 禅宗の宗旨がきちんと伝えられていくためには、説法の時に「対話」でやりなさいと弟子達に言いました。又、自分の後は衣鉢を伝えないことや自分の遺骸の葬り方について話をしました。



 内容によりますと、<壇経>は成仏の方法を教える聖典です。ある人は<壇経>の宗旨は「識心見性、自成仏道」ですとも言いました。この宗旨を基本とし、<壇経>は仏教の多くの問題について、独特な見解を持っております。ここで例を挙げて<壇経>の基本思想を述べましょう。

<六祖壇経>は、如来蔵を目標としています。般若空観をもって煩悩を取り除き、「明心見性」に達することが目的です。


 衆生は、皆仏性の可能性がありますし、皆自修自悟ができます。これを「無相戒」と言います。衆生の心に持っている仏性は戒ですと慧能は強調しています。慧能の無相戒は「仏性戒」とも言います。これは大乗戒相の十重四十八軽戒ではありません。ですから、この戒を「無相戒」と呼びます。その内容は、帰依自己三身仏・四弘誓願・無相懺悔・三性三帰依戒などの四つです。


<帰依自己三身仏>

慧能は、仏の法身・報身・応身は外にあるものではないと言っています。

自分自身の心の中の覚性は法身です。

覚性は善のことを考えると善の姿になり、悪のことを考えると悪の姿になります。これが化身です。

善を念ずると良い応報になります。これは報身です。

もし自分がもともと仏性を持っていて、自分と仏とは根本的に差異がないと固く信じるならば、これは自身の三身仏に帰依していることになります。


<四弘誓願>

四弘誓願を簡単に言いますと、自修・自学・自悟成仏です。

衆生無辺誓願度とは、自性の衆生は果てしないが、自分自身の自性は自分で救済しなければいけません。

煩悩無尽誓願断とは、煩悩は尽きることは無いが自心で虚妄を取り除く。

法門無量誓願学とは、仏法の修行方法は数えきれないほどありますが、最も優れた正法を勉強する。

仏道無上誓願成とは、仏道は遠く高い所にありますが、自悟成仏するように誓願する。


<無相懺悔>

慧能の無相懺悔は各自が自分の身・語・意の三業で作った悪行を心から懺悔して再び犯さないようにする。


<三性帰依戒>

全ての考えは愚痴に迷わない、染まらない、悪い行いを断つ。


 頓悟法門を主張しています。「一悟即至仏地」と言っています。それは、仏道を勉強する人が速やかに悟りを開けるように、自分の心を観じ、自分の本性がすぐ悟りを開くことができるように、自分の心に仏性があることに気がついていない人は、徐々に進めば良い、既に悟った人は外に求めず、すぐに修行に入り、成仏できるように。


 坐禅は自然でありのままの日常生活の中で行う。これは「無念為宗」です。慧能は自分の禅法は「無念為宗・無相為体・無住為本」と強調しています。慧能は仏教の真如(実相・仏性)を自分の禅法の見習う手本にしています。無相とは、言葉の概念や形に執着しないこと。無住とは、全ての法を頭に定住させない。固定的な見解や特定の心理傾向を持たないこと。無念とは、全ての法に執着しない、六塵から離れることはできないが染まらない。無念は坐禅を指導する際の原則と方法があり、修行者が皆到達したい最高の境地でもあります。これは所謂「悟無念頓法者、至仏位地」です。


 慧能の禅法は、禅定智慧が基本です。慧能は禅定が智慧の本体で智慧が禅定の応用ですと言っています。

灯りのように、灯りがあれば光がある。灯りは光の本体で光は灯りの応用です。これを定慧観と言っています。又、心は自性戒です。心に愚痴がなければ自性慧です。心が無乱であれば、自性定です。自性慧、自性戒は仏性自身が戒・定・慧を持っているのと同じことです。それは人間にもともと有るものですと慧能は主張しています。

慧能の禅法思想は人間と仏国の距離を短縮させました。人間の光輝を称えています。又、実践上で新しく、活発で洒脱で明快な修行に路を開きました。

ですから、昔の人は


「人生で一番幸せなことは、夜中に灯りをつけて、壇経を読むことです」と言いました。


 これで分るように自性について書いてある<六祖壇経>はとても智慧のある法典です。