< 仏教とわらべうた >



坊さんが屁をこいた(十数える)


 ぼ・ん・さ・ん・が・へ・を・こ・い・た


 (坊さん=坊主(ぼうず)。「坊主」とは「房主」と書くのが本来である。始めは僧房の主(あるじ)のこと、つまり一坊の主としての住持や住職のみを指していた。これに対して十分な経験をもちながら、特定の房(坊)を持たない僧侶を法師と称した。また、こうした坊主身分のことを特に坊主衆(ぼうずしゅう)とも称した。古典文芸作品では、坊主は小僧の対義語で、お寺の一番身分の高い僧侶である。日本では中世以来、次第に法師など住職以外の一般の僧の総称となった。従って、本来は尊称であった。「坊さん」「お坊さん」と呼ぶのも、同じ語源による。時代が経つと、僧形の者、髪を剃ったり短く刈ったりした者、また、毛のない頭やそれに見立てられるものをも広く指すようになる。武家時代に、大名などに仕えて、僧形で茶の湯など雑役をつとめた者も坊主と呼ばれ、その職掌によって茶坊主・太鼓坊主などと呼ばれた。また、男の子の愛称となったのは、昔、僧のように幼時に髪を剃っていた事からであろう。なお、キリスト教伝来には、宣教師を(南蛮)坊主と呼んだこともあったという。このように、時代が下がるにつれて、尊称とは言えなくなり、蔑称の場合も多く、現在では僧侶に対し「坊主」などと呼びかけるのは大変失礼に当たるので、注意が必要である。これは「坊主丸儲け」「生臭坊主」などという言葉[檀家制度が導入されたために僧侶の堕落が著しくなった江戸時代から使われるようになった]に象徴されるように、仏教の葬式仏教化に伴い、僧侶が必ずしも尊敬の対象にならず、むしろ侮蔑の対象にすらなったという意識の変化によるものであろう)

 (葬式仏教=本来の仏教の在り方から大きく隔たった、葬式の際にしか必要とされない現在の日本の形骸化した仏教の姿を揶揄して表現したもの)

 (檀家制度=寺院が檀家の葬式供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係をいう。仏教に関わるものであるが、江戸幕府の宗教統制政策から生まれた制度であり、家や祖先崇拝の側面を強く持つなど、日本特有のものである)



達摩さんがころんだ(十数える)


 だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だ


 (達摩=中国禅宗の開祖とされているインドの仏教僧である。ブッダから数えて28代目。慧能は達摩から数えて6代目)

 (日本書紀などの記録によると、推古21年12月に太子が道中で大変身なりの汚れた飢えで倒れている人を見つけ、憐れんだ太子は自分の着ている物をその薄汚れた者にかけてやった。翌日、気になって使いの者に様子を見に行かせると、すでにその者は冷たくなっており、太子は手厚く葬った。後日確認すると、棺の上には太子が与えた衣服だけが残されていた。その倒れていた薄汚れた人物は、達摩大師が姿を変えたものだとされ、人々は、『聖人は聖人を知る』と口々に噂をした。そして、この棺の上に達摩塚を作り、さらに、僧が修行を行なう精舎を建て、聖徳太子が木で彫った達摩の像を安置したというのが、達摩寺のはじまりとされている)



羅漢さん(物真似遊び)


 羅漢さんが揃ったら 廻そじゃないか

 ヨイヤッサノ ヨイヤッサ

 ヨイヤッサノ ヨイヤッサ


 (羅漢=阿羅漢の略称。尊敬や施し受けるに相応しい聖者)



坊さん坊さん(鬼遊び)


 坊さん 坊さん 何処行くの

 わたしは田圃へ 稲刈りに

 わたしも一緒に 連れしゃんせ

 お前が来ると 邪魔になる

 このかんかん坊主 糞坊主

 うしろの正面 誰


 (茶坊主=室町時代から江戸時代に存在していた職名の一つ。将軍や大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、来訪者の案内接待をはじめ、城中のあらゆる雑用に従事した。刀を帯びず剃髪していたため「坊主」と呼ばれていたが、僧ではなく武士階級に属する。現代は、権力者に取り入り出世や保身を図る者の例えとして、侮蔑的に扱われることが多い)

 (坊主丸儲け=坊主は資本も経費もいらず、収入がそのまま全部儲けになる。「花八層倍、薬九層倍、お寺の坊主は丸儲け」という昔からある言葉の最後の部分。花八層倍=花屋は元手(仕入値)の八倍の利益がある。薬九層倍=薬屋は元手の九倍の利益がある。お寺の坊主は丸儲け=坊さんは元手なしで利益がある)

 (生臭坊主=生臭坊主とは怠け者のことで、そういった人を嘲う言葉として江戸時代から使われる。ちなみに本来の生臭坊主の意味は、戒律を守らない坊主(僧侶)のことである。仏門の身である僧侶は、魚や鳥獣類の肉といった生臭物を食べる僧侶を生臭坊主と呼び、転じて修行やお勤めをさぼり、金策のことばかり考えるような僧侶のことも指すようになる。ここから一般でも怠け者に対して生臭坊主と呼ぶようになった。現在では本来の意味を知らず、「なまぐさ」という語感から怠け者の意で使っている人も多い)



うさぎうさぎ(月)


 うさぎうさぎ 何見て跳ねる

 十五夜お月様 見て跳ねる


 (仏教説話。うさぎは自ら焚火に身を投じ、餓死しそうなお爺さんを救おうとした。お爺さんは仏の化身で、うさぎを昇天させ、月に住まわせた)



頭の皿は(鬼遊び)


 頭の皿は 幾皿 六皿 七皿 八皿 九皿 十皿

 とさんの上に灸(やいと)をすえて 泣くや悲しや 金仏

 毛のない 坊さん


 (金仏=感情の動きの少ない人。心の冷たい人)



いの字(手合わせ唄)


 いの字 一切虚空 いんじゅうじ

 いららんが 一切虚空 一切達摩の達摩の子

 一切まっさら いの字が いんぎり豆 十三大豆


 (一切虚空=三世[時間]・十方[空間]・諸法[凡ての範疇]を空とする仏教思想)

 (いんぎり豆=縁切り豆か)

 (十三大豆=十三大会か。胎蔵界曼荼羅で、その数が自ら十三層の法界塔婆に相応するという)

 (いろは・・・=色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず)



清水の観音様(手毬唄)


 清水の観音様に 雀が三匹とまった

 その雀が蜂に刺されて

 あいたたブンブン あいたたブンブン

 まずまず一貫 貸し申した



赤田首里殿内(手遊び唄)


 赤田首里殿内(赤田首里殿内に)

 黄金燈籠下ぎてィ(黄金の燈籠が飾られて)

 うりが明がりば(これが明々とともれば)

 弥勒うんけ(弥勒様をお迎えしましょう)

 シーヤープーシーヤープー(両頬を触っていい顔をする)

 ミーミンメーミーミンメー(両耳を指でつまむ)

 ヒージントーヒージントー(肘を擦る)

 イユーヌミーイユーヌーミー(掌を指しながら歌う)


 (弥勒=@釈尊の次の世に現われ、仏となる菩薩。釈尊入滅後56億7000万年後に衆生を救済する。A仏教の唯識説を説くインドの唯識派の開祖)

 


盆ならさん(お盆唄)


 盆ならさんよ 盆ならさんよ

 盆が来たに 帯買うてお呉れ

 赤いが良えか 白いが良えか

 今の流行の 繻子の帯 繻子の帯

 

 此処をこう行きゃ 門前町よ

 門前町の 黒船御座る

 幕は非緞子 葵の御紋

 中で船歌 面白や 面白や


 (お盆=一般に仏教の行事と認識されているが、仏教の教義で説明できない部分も多い。古神道における先祖供養の儀式や神事を江戸幕府が庶民に強いた檀家制度により仏教式で行なう事も強制し、仏教行事の『盂蘭盆』が習合して現在の形が出来たとされる)

 (盂蘭盆=釈尊の神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉を枯らし飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、ことごとく口に入る直前に火となって、母親の口には入らなかった。哀れに思って、釈尊に実情を話して方法を問うと、『安吾の最後の日にすべての比丘に食べものを施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう』と答えた。その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行ない、比丘たちは飲んだり食べたり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり母親の口にも入った)

 (安吾=それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一ヶ所に集まって集団で修行すること。及びその期間の事)



よいさっさ(お盆唄)


 よいさっさ よいさっさ

 これから八丁 十八丁

 八丁目の 潜りは 潜りにくい潜りで

 頭の天辺すりむいて

 一貫膏薬 二貫膏薬

 それで治らにゃ 一生の病じゃェー



さのやの糸桜(お盆唄)


 さのやの糸桜 盆には何処も忙しや

 東のお茶屋の門口で

 赤前垂れに繻子の帯

 ちょと寄らんせ入らんせ

 巾着に金が無い

 無うても大事ない入らんせ

 おお辛気 こう辛気


 (ゆき暮れて雨もる宿や糸桜=蕪村)



遠 国(お盆唄)


 遠国なはは なははや遠国 なはよいよ〜い

 何が優しや蛍が優し 草の葉陰で灯をともす

 アリャリャコリャリャ サアサヨ〜イヤサ

 

 遠国なはは なははや遠国 なはよいよ〜い

 船は出てゆく帆掛けて走る 茶屋の娘は出てまねく

 アリャリャコリャリャ サアサヨ〜イヤサ


 一おいて廻りゃ こちゃ市ァ立てぬ 天満ならこそ 市立てまする

 二おいて廻りゃ こちゃ庭掃かぬ 丁稚ならこそ 庭掃きまする

 三おいて廻りゃ こちゃ三味弾かぬ 芸妓ならこそ 三味弾きまする

 四おいて廻りゃ こちゃ皺寄らぬ 年寄りならこそ 皺寄りまする

 五おいて廻りゃ こちゃ碁は打たぬ 良え衆ならこそ 碁を打ちまする

 六おいて廻りゃ こちゃ艪は押さぬ 船頭ならこそ 艪を押しまする

 七おいて廻りゃ こちゃ質ァ置かぬ 貧乏ならこそ 質置きまする

 八おいて廻りゃ こちゃ鉢割らぬ 盲目ならこそ 鉢割りまする

 九おいて廻りゃ こちゃ鍬持たぬ 百姓ならこそ 鍬持ちまする

 十おいて廻りゃ こちゃ数珠持たぬ 坊主ならこそ 数珠持ちまする


 (遠国=律令国の等級区分の一つ。都から遠く離れた所にある国)

 (数珠=仏を念ずる時に用いる珠との意味から『念珠』とも呼ばれる。起源は諸説あるが、古代インドのバラモン教で用いられていた道具を原型とするとされる。それが、釈尊により用られ、後に中国に伝わる。そして仏教伝来とともに飛鳥時代には、日本に伝わったとされる。鎌倉時代に入り、浄土教が流行し称名念仏が盛んとなるとともに一般にも普及する)



山寺の和尚さん(手毬唄)


 山寺の和尚さんは 毬がお好きで毬は無し

 猫を紙袋へへし込んで

 ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く

 ニャンポン其処にか わしゃ此処に

 さらば一貫貸しました


 (和尚=仏教の僧の敬称である。『御僧』を表現するのに、特定の宗派で『わじょう』と言われているのを僧のことだと思い、それが一般化して『おしょう』と言われるようになったという説もある。本来の意味は、出家して受戒した僧が、日常親しく教えを受ける教師を指す。『十誦律』では、受戒の師を指す。禅宗・浄土宗では『おしょう』、天台宗・華厳宗では『かしょう』、真言宗・法相宗・律宗・浄土真宗では『わじょう』といい、律宗・浄土真宗では『和上』と書く)

 (良寛=”子供らと手毬つきつつこの里に遊ぶ春日はくれずともよし” ”手毬唄ひふみよいむなここのとをとをと納めてまた始むるを”

「頭髪を剃って僧侶となったからには、衆生に喜捨を乞うて修行生活をするわけである。それを自分ですでに承知していながら、どうして反省しないでおられよう。私の見るところでは世の僧侶たちは、昼も夜もわけもなく読経や説教に声を張りあげているだけである。ただ生活の資を得るために、一生、心を外部にばかり馳せている。在家の衆で仏道にこころざさないのなら、まだ許せる。しかし出家した者がそのこころざしを持たないとは、なんたる心の汚れようか。三界への執着を断つため髪を剃り、現世の事象の本来無であるのを悟って墨染め衣になったのである。恩愛のきずなを捨てて禅門に入り、是にも非にもかかわらぬ境涯になったのである。世間どこを歩いてみても、男も女もそれぞれ何かして働いている。機を織っては着る着物をつくり、田を耕しては食う米を作っている。それなのに、こんにち僧侶と称する者どもは、行もつまなければ悟りも持っていない。いたずらに檀家からのお布施を費して、仏戒の三業を顧みようともしない。大勢集まって大法螺をたたき、旧弊のまま朝な夕なをすごしている。外面はもっともらしい顔をし、よその婆さんたちを迷わせている。それを世渡り上手だと自惚れている、ああ、いつになったら目が覚めるのか。たとい子持ちの虎の群れに中に踏み入っても、名誉や利得の路に迷い込んではならない。すこしでも名利の欲心が起これば、大海の水を注いでも洗い尽すことはできない。親爺がお前を出家させてから、朝夕なにをしているか。焼香して神仏を請じ、いつまでもお前の道心の堅固であるように祈願しているのだぞ。そんなことでは、初志とは矛盾しているではないか。三界は宿屋のように仮の宿、人命は朝露に似てはかなく消えるものだ。修行の上の好次期は失いやすく、仏法の正門もめったには遇えないものだ。さァさァ、見映えのある良い色彩を打ち出すべきだ、手をかえて他から呼ばれ注意されるのを待つまでもない。私が切々とくどく言うのも、決していい仕業ではない。明日といわずすぐに今から、よくよく考え直してお前の態度を改めるがいい。後世に生れたもの(自分を含む)は、自ら勉強して、内心に不安や危懼の思いをのこすことのないようにせよ」)



道成寺(手毬唄)


 トントンお寺の道成寺

 釣鐘下ろいて 身を隠し

 安珍清姫蛇に化けて

 七重に巻かれて一廻り 一廻り


 (安珍清姫伝説=旅僧安珍に恋した清姫が蛇体となって日高川を渡り、道成寺の鐘に隠れた安珍を灼熱の恋に巻き熔かすという話。蛇道に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである。『謹請東方青龍清浄』)



田螺どん(お彼岸唄)


 田螺[つぼ]どん田螺どん お彼岸参りをさっせんか

 お彼岸参りはしたァェけど

 烏という黒鳥が 足を突き目を突き

 それでよう行かんわいな

 のののォどの木に花が咲いて

 お茶壺ゴーロゴロ お茶壺ゴーロゴロ

 お茶壺ぶち割った


 (お彼岸=サンスリット パーラムの意訳であり、仏教用語としては、『波羅密』(パーラミター)の意訳『到彼岸』に由来する。Paramitaをparam(パーラム)+ita(到った)、つまり『彼岸』という場所に到ることと解釈している。悟りに到るために越えるべき迷いや煩悩を川に例え、その向こう岸に涅槃があるとする)

 (涅槃=人間の本能が起こる精神の迷いがなくなった状態。心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地)



百八燈(お彼岸唄)


 百八燈 百八燈

 百の米が一斗五升

 もろんざけが十六杯 十六杯

 爺ごたち 婆ごたち

 じさは川を越えなれも

 ばさは舟に乗りなれも

 この明りにござれござれ


 (百八燈=仏説の百八煩悩に基き、百八把または多数の松明をたいて精霊の祭りを行なうこと)

 (爺・婆は精霊をさす)



お月さんいくつ(月の唄)


 お月さんいくつ十三七つ まだ年ァ若いね

 あの子を産んで この子を産んで

 誰に抱かしょ おまんに抱かしょ

 「おまんは何処行った」

 油買いに茶買いに 油屋の前で滑って転んで 油一升こぼした

 「その油どうした」

 太郎どんの犬と 次郎どんの犬と みんな舐めてしまった

 「その犬どうした」

 太鼓に張って 鼓に張って

 あっち向いちゃ ドンドコドン

 こっち向いちゃ ドンドコドン

 叩きつぶしてしまった


 (禅僧仙高ノ影響を与えたわらべうた)



きせない(お盆唄)


 天の星さん 数えてみれば

 九千九つ八つ七つ ノーヤッサイ キセナイキセナイ

 九千九つヨーホイ八つ七つ ノーヤッサイ キセナイキセナイ



中の弘法大師(鬼遊び唄)


 中の 中の 弘法大師

 なぜ 背が低い

 立つなら 立ってみよ


 お皿の中へ 灸をすえて

 痛や悲しや オゲゲのゲ


 (弘法大師=弘法さんは小坊さんの転訛か。大師は四国八十八箇所の霊場の創始者)



京の大仏さん(鬼遊び唄)


 京の 京の 大仏さんは

 天火で焼けてなァ

 三十三間堂が焼け残った

 ありゃ ドンドンドン

 こりゃ ドンドンドン

 「うしろの正面 何方」


 (大仏=大仏殿は方広寺の金堂で妙法院に属し、天正十四年豊臣秀吉建立。もと大仏は木像盧遮那仏坐像で高さ十六丈という。慶長以来、数度の地震・火災等のため倒壊・焼亡し、再建されて現在に至る)

 (天火=寛政十年七月、雷火で焼失したことを指す。一説に、慶長七年十二月、方広寺の大仏鋳造の時の大火とも。即ち、銅像の胴体にその首を鋳着ける時に、火が胴の中の支柱に移って火事が起こったのを、原因不明のため、当時の人々は「天火で焼けてな」と言ったものかと)

 (三十三間堂=東山区七条大和大路にある天台宗の古刹、蓮華王院本堂の俗称。長寛元年、後鳥羽法皇の勅願によって創建、一千一体の千手観音を安置す。堂の実際の長さは六十四間五尺)



一番始めは(手毬唄)


 一番始めは一の宮

 二また日光中禅寺

 三また佐倉の宗五郎

 四また信濃の善光寺

 五つ出雲の大社

 六つ村々鎮守様

 七つ成田の不動様

 八つ大和の法隆寺

 九つ高野の弘法様

 十で東京本願寺



巡礼お鶴(手毬唄)


 一つかえ 柄杓に笈摺 杖に笠 巡礼姿で父母を尋にょうかいな

 二つかえ 補陀落岸うつ三熊野の 那智さんお山は音高う響こうかいな

 三つかえ 見るよりお弓は立ち上り 小盆に精げの志 進上かいな

 四つかえ ようこそ巡礼廻らんせ 定めし連れ衆は親御達同行かいな

 五つかえ いえいえ私は独り旅 父(とと)さん母(かか)さん顔知らず逢いたいわいな

 六つかえ 無理に差し出す草鞋銭 少々ばかりの志 進上かいな

 七つかえ 泣く泣く別れる我が娘 伸び上がり反り上がり見送って去(い)なそうかいな

 八つかえ 山越え海越え谷を越え 艱難してきた我が娘去なさりょうかいな

 九つかえ 九つなる子の手を引いて 十郎兵衛館の表口連れ込もうかいな

 十かえ  徳島城下の十郎兵衛は 我が子と知らずに巡礼を送ろうかいな


 (巡礼お鶴=阿波の十郎兵衛の哀史を読み込んだ数え唄)

 (”普陀落や岸打つ浪はみ熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬”西国三十三番巡礼歌)



天竺へのぼる道へ(手毬唄)


 天竺へのぼる道へ 椿ょ植えて育てて

 日が照りゃば涼みどころよ 雨が降れば雨宿

 雨宿の茶屋の娘は 天下一の機織り

 一つでは乳を飲み候 二つじゃ乳を離れて

 三つでは水を汲み候 四つじゃ良い茶を出し候

 五つでは管を巻き候 六つじゃころ機織り候

 七つでは綾を掛け候 八つじゃ錦を織り候

 九つではここへもらわれ 十じゃ殿御に受けられて

 まずまず一貫貸し申した


 (天竺=インドの旧名。ブッダの生まれた国)



ぼんぼん(お盆の唄)


 ぼんぼんとても今日明日ばかり

 あさってはお嫁のしおれ草

 

 しおれた草をやぐらに乗せて

 下から見れば牡丹の花

 

 牡丹の花は散っても咲くが

 情けのお花は今ばかり


 情けのお花ホイホイ