< ブッダの伝承 >



 釈尊は紀元前四六六年に生れ、四三一年三十五歳で成道し、三八六年八十歳で入滅したと考えられるから、四三一年から三八六年まで四十五年間絶えず倦むことなく説法せられた。但し五十年の教化となす説もあるが、それは成道の年を異なって考えるか、または四十五年を大数を取って五十年としたかの何れかであると見てもよい。この間に於ける説法は多数の人々の集会した席上で、予め案を立てたのに従って醇々として説くこともあり、悩める者、法を求める者が来って請うに応じて教えることもあり、食に招請せられて食後に施主等に説教することもあり、遊行の中途見聞することを主題として随従者に教誨することもあり、正しくない行為のあった者を呼んで誨えて正道に復せしめることもあり、その他種々なる場合があったに相違ない。釈尊は常に同一箇所に長居することなく、諸所を巡遊されたのであるが、朝は早起きで、坐禅正観に住し、人々に種々説法し、弟子を教導し、昼近く行乞出で、または招請に応じて受食に行き、正午以前に食事を終って、施主に説きまたは弟子信者の勧請によって教え、午後もまた教化と坐禅とで暮らし、夕刻は水浴宴坐などもあったであろうし、他の行業もあったであろうし、夜間に来請の諸天との説話もあったと伝えられていることもある。遊行中とすれば、歩いては休み、その間に講堂で大衆に説き、また弟子信者に接して教えるなど、寧日休時も無いといえる程であったと推定せられる。この間に於ける極めて多数の説法が経となる基であるが、釈尊自身には何等説法の手控えなどがあったのではない。最大偉人たる釈尊が手控えに依る説経講演などは想像だにも出来ない。手控えに依る説教などは死物であって何の生命もないものであるし、また説教後にメモをなす如きことも到底考えられることでない。釈尊の説法は活々した生命躍動のものであった。従って、経となる基は釈尊の側から、メモなどによって、伝わったことは絶対にない。


 然らば、これ等の説法を聴聞した弟子信者の方はどうであるか。当時インドには文字が知られてから千年以上にもなるから、弟子信者の中には極めて自由に文字を駆使し得るものは多数あったに相違ないが、親しい我師、生命の源たる如来、の直接の声を文字に筆記することは全く無かった。ノートに取るなどは金口の声を聞く所以ではない。所謂六群比丘の如きは居眠りしていることもあったかも知れないが、それ等は問題ではなく、総べては生命を打ち込んでの聴聞である。なんで文字に留めるなどの閑枝が容れられようぞ。然らばこれ等の説法がどうして伝わるか。而もこれ等を除いては経は出来ては来ない。


 吾々が現今一時間の講演を如何に熱心に、全身を耳となして、聞いていても、講師の話の全部を覚えているが如きことは到底出来得ることではない。如何に講師が釈尊の如き偉大な人格で、聴聞者はその人格に於いて活きていた聖であったとしても、人間である限り、釈尊の一語一語を皆悉く記憶している如きことが出来るものではない。絶対に出来ないことは人間たる限り止むを得ない。時代が数千年隔たるとも、場所が数千里異なるとも、インド人と吾々とで人種が同一でないにしても、他人の言う一語一語を全部そのまま暗誦するを得ないことは何人にも疑ないであろう。然らば釈尊の説法は凡て聴聞者がその説法の趣意要領を把握して憶持するので伝わる外には、他の何等の方法もなかったのである。


 趣意要領の把握についても、十人が十人決して同一様でないのが人間としては必然的である。各個人の事情によって重きを置く点が互いに異なるから、同一の説について異様に聞くものである。この異なりは聴聞者の心理的生理的の事情の違いによってすら左右せられる。極めて大まかな趣意要領ならば、演題を記憶していれば、それで済むが、今日は四諦の説について教えると釈尊が仰せられたとして、その説法は四諦であったと知っていれば、趣意要領を得たことになり、それすら時には忘れるものがあり得るにしても、それを例外として除けば、凡てが同一様に四諦の説であったと把捉していることになろうが、然しそれのみでは経の基とはなるを得ない。それは一に何等内容を持って居らぬからである。内容についての趣意要領となれば、粗枝大葉のものでも、既に全聴聞者に一様に把捉せられていないのが自然のことで、よし多数の者には一様であったとしても、全体の凡てに一様であることは到底出来得ることではない。試みに、今、実験的に、数十分の講演の趣意要領を、その聴者に書いてもらって見るがよい。如何に各人各様でであることに驚くであろう。尤もそれが為のかかる実験的の試みを、釈尊説法の場合と同一として扱うわけにはいかないとしても、趣意要領の取り方が十人十色であることについてはよく知らされる所があろう。実際、仏以一音演説法、衆生随類各得解は真理である。勿論一場の試みの場合などは、不出世の偉人釈尊の親口の説法を聴く場合と全同であるべき道理はない。従って説法の聴聞者には粗枝大葉の趣意要領の把捉は大体同一様なものがあったに相違なかろうもそこには人格的の活きた感化が存していたからである。然らば、更に、その趣意要領がどうして伝わったかを考えて見ねばならぬ。いうまでもなく、趣意要領は聴聞者がその後まで常に記憶していたのであり、暗誦的に復習しては、それの説法の場合を追想して生気を得たに相違ない。然し、釈尊の直接の弟子は大体釈尊の入滅後三十年程で入寂したと考えられる。個人的に言えば、猶短命な者もあったし、また三十年以上長命な者もあったであろうが、優波離が三十年程で入寂しているから、先ずそれ位で重要な直接の弟子は終ったと見てよかろうと思われる。その後はどうなったか。


 趣意要領はその把捉者、記憶者の間に於いて必ずしも相互に全同ではなかった。然し、これ等についてよしんば異見が起ったとしても、釈尊在世の時期には、釈尊に直接訂正判定を請い得るから、かかることは意識的に問題にはならないが、釈尊が入滅せられた時には、かかる事も、その他の一切のことと共に、大問題となって来る。趣意要領を記憶していても、これ等は長い間には、その説法の場合を混雑したり、格の趣意要領間が乱れたり、種々なることが起り得るに相違ないが、当時としてはそれ等が凡て合して仏教を成していたのであり、その外には仏教なるものは無かったのであるから、直接の弟子は之に基づいて、それを実践しつつあったのであるし、釈尊が入滅した際には直接の弟子の中でも、仏教界を担う大弟子上座は各人の有する趣意要領を親しく語り合って大体一定または共通せしめる必要を感じたに相違ない。この趣意要領がまちまちであっては、釈尊滅後の仏教を維持することを得ないから、上座間にはこれは深刻な問題であったと考えられる。かの大迦葉の主唱によって、五百人の上座が七葉窟に会合して第一結集を開いたと言われているのは、確かにこの申し合わせの会合であって、この会合は事実であったと考えられる。現今伝わる伝説では、釈尊入滅後、直ちに行われた会合で、その席上、優波離は律を、阿難は法(経)を誦して、数ヶ月の間に、現行の律、阿含の通りに結集せられたとなっているが、実際としては、律、経、特に経となる基の趣意要領程度のものを申し合わせて、ともかく一定とまでは行かずとも共通のものを得ることをなしたのであろう。かかるものを申し合わせなければ、仏教は釈尊の荼毘の煙と共に消え去ることになるであろう。この申し合わせがなかったならば、経となる基の纏まることはあり得ない。故に、西欧の仏教学者のある者が第一結集の伝説を全く否定して、あれは所謂第二結集の伝説から創造したことに過ぎぬとなすのは、当時の事情の洞察に欠けたものと言うべきで、第二結集が行われたと認めるすらもその根拠を得ないといわねばならぬ。この申し合わせとしての第一結集について考えられる重要なことは、第一に、申し合わせた趣意要領は極めて簡潔で、殆ど法数名目の羅列の程度であったであろうこと、現行の阿含経を見ても、その重要なものが単に法数名目の羅列のみで何等の説明解釈が存しないが、これは元来詳しい解説の部が古くからあったものとすれば、現行阿含経になる時に省かれて、骸骨のみとなったとは到底考えられないことからも推定出来る。現行の阿含経を見るに、四諦説にしても十二因縁説にしても、何処にあっても全く同一文で、名目を並べたのみである。これが即ち型であって、古い趣意要領の把捉がかかる種類のものであったであろうと推定せられるのである。第二に、申し合わされた趣意要領は釈尊四十五何間の極めて一部分の説法のものに過ぎないであろうこと、四十五何間機に触れ時に従って説かれた法は極めて多かったに相違なく、たとえ粗枝大葉の趣意要領でも、現行阿含経の全部を以てしても到底全部を纏め得られなかったであろうのに、現行阿含経は趣意要領でない部が極めて多いから、釈尊説法の凡ての趣意要領などは伝わっていない状態である。第三に、第一結集の当時及びその以後に於いても尚未だ経という名称は用いられて居ないこと、現行律蔵の第一結集記にすらも、法と律とを結集したと述べられて居て、経と律とはなって居らぬ。従って古くは法の名称を用いて、経の文字を用いなかったのであるし、この点は他の記述からも証明し得られる。阿育王の碑文の中にも、法の久住の為に思念すべきものとして指示せられた法門に、経名が七種挙げられているが、その中の一種のみ経の文字があって、他の六種には無いから、阿育王の時代には既に幾分は経とも称せられるに至ったことが判るが、決して凡てが経と称せられたのではない。


 この如く趣意要領が第一結集として申し合わされたとしても、それは大体一定するまでには至らずに、共通的になった程度のものであるが、然し、それ等が文字に書かれたというのではなく、結集申し合わせに関与した上座並びにその系統のものがそれ等の趣意要領を憶持暗誦して、これに基づいて他に敷演して説きつつ、仏教を維持し、伝えつつあったのである。従って釈尊の直接の弟子の入滅以後にも、その直接の弟子、即ち釈尊の孫弟子、の間に於いても憶持暗誦せられ、更に直接の弟子の敷演した趣意の多少までが加わって、伝えられたのであるに相違ない。直接の弟子、孫弟子、恐らく特に後者、並びに曾孫弟子あたりでは暗誦伝持に努力することが緊切なことであったに相違ないから、これに努力が払われ、一歩に於いては趣意要領は全く散文の型となり、他方に於いては韻文の偈とせられて、暗誦伝持に便にせられたと考えられる。偈は詩であるから暗記には便宜であり、また要旨を括り得るから、多く作られたであろうとは思われるが、詩としては文字に制限があり、また韻律の法則もあるから、内容の如何によってはその名目を詩となすを得ない為に、散文としても型も行なわれていたのであろう。詩とせられた中でも説話詩が古いものとせられるが、これは多くは問答体で両人の間の話し合いの詩となっているものである。釈尊に最後の供養をなしたのは鍛冶工のチュンダであったし、この食以後、釈尊は病を得て、遂に入滅したのであるから、大乗涅槃経ではチュンダに罪があるのではなく而も最後の供養は最も功徳があるとせられているが、小乗涅槃経では釈尊は食後チュンダに説法せられ、その説法はチュンダが問い、釈尊が答えられた形になっていて、内容は沙門に善悪の四種のあることである。これは説話詩となって伝わっていて、漢訳の小乗涅槃経ではチュンダ供養の記事に引き続いて述べられ、従って涅槃経中に存するが、パーリ涅槃経ではこの説話詩だけは省かれて居て、他のスッタニパータの中のチュンダ経として収録せられている。如何にチュンダが教養あるものでも、釈尊と詩の往復で教を受け得たかは全く疑問であるし、またかかる場合の説法が詩の形でなされたかも疑問であるしむしろ散文的に醇々として教誡せられと考える方が合理的であろう。教をなす場合、文学的な効果などを意図する所以は釈尊には全然なかったのであるから、通常の言語で詳しく説いたに相違ない。然らば、それが説話詩で伝わっているのは、即ち後世暗誦伝持の便宜のために韻文に作り代えたに外ならないことは疑う余地はないであろう。かかる種類のものは他にも猶相当多く見出されるが詩の形に作ることは説話詩となすとは限らなくて、却って多くの場合普通の三十二綴より成る詩、即ちシュローカとせられるのであって、この形が甚だ多い。かかる型と偈とが仏語であり、仏説であることになるのである。釈尊の説法は型と偈とになり、それに上座等の多少の敷演文が付加して、暗誦によって伝持せられたのである。この点は法即ち経の方面のみではなく律についてもまた同じことである。律の中の戒は、釈尊成道十二年比丘が故二と婬す、ここに於いて釈尊不邪淫戒を制すといわれている通り、十二年間は戒の制定はなく、僧伽は全く清浄無雑であったが、初めて十二年に婬戒が制定されたのであって、戒の制定は凡て反抗があったのを機会となして起ったのであり、決して最初から、刑法などの如くに、箇条書きとして与えられたものはなかった。従って一戒の制定には、須提那比丘が後悔告白したのに対してなした如くに、醇々として教誡し全く改心せしめた長時間の説法があったのであり、それが簡潔に、邪淫を禁止せねばならぬという不邪淫戒の数文字に纏められて、説法の長文は伝わらないのである。尤もこの戒の因縁を説いた部分が律の中の保存され、如何なる場合に起り、如何に処置せられ、如何に戒として制定せられたか、更にその戒を言詮わす文字の意味まで解釈したものが伝えられているが、これ等は主として上座等の説明敷演が基となって伝わったものであると考えられる。戒を言詮わす文字一一の解釈などは明らかに釈尊のなしたものでなく、上座等のなしたものに拠っていることは疑いない。故に律の方面でも、釈尊の説法がそのまま伝わっているのではなくして、凡て不邪淫戒の数字に要括せられているに過ぎない。



(宇井伯寿)