< 積極的清浄心 >
元来清浄ということには積極・消極の二つの意味があると考えられる。
積極的な清浄とは、穢濁を除いて洗い清められた状態であり、心の場合ならば、修行によって煩悩汚濁を除き、清浄なる悟りの智慧が得られた状態を指すのである。これに反して、消極的の清浄とは濁り汚れのない清水や白紙のような状態であり、心についていえば、善悪のいずれにも染まらない無記の状態を指す。
それでは、『心が浄潔である』とは上のいずれの清浄を意味するものであろうか。原始経典やパーリ仏教における心清浄は積極的のものではなく、消極的意味の清浄と考えられる。何となれば、もし心が最初から修行が完成して得られるような清浄な悟りの心であるとすれば、心は汚れることは決してないであろう。ところが一般の心は汚れることもあれば浄することもある。現に心清浄を説いている増支部の文でも、『外来の諸随煩悩によって染汚されている』、『外来の諸随煩悩から解脱している』という浄穢二つの立場が併説されている。さらにこれに関する有名な文として、パーリ相応部に『比丘らよ、心の雑染の故に有情は汚され、心の清浄の故に有情は浄まる』とされ、これは大乗仏教でも多く採用されている。上の文は、心は汚れることもあるが浄まることもあって、浄穢が固定していないという空無我の立場に立つものである。
空無我のものを清浄であるとすれば、それは心についてだけでなく、肉体や物質を含めた一切の現象法についてそれらが清浄であるといえることであるのに、何故に心についてだけ清浄と説いたかということが問題となる。
それを空無我であるから心は清浄であるとすれば、どうして心は積極的に善や理想に向かって進むのかということは説明できないことになる。心は本来的に善や理想に向かって進むようになっているということを本来清浄とすれば、清浄の意味は積極的になってきて、無覆無記の中立的な心が清浄であるとする説では間に合わないことになる。
このように、心性清浄には消極的と積極的の二つの意味があることは否定できないであろう。そして心に理想追求への積極的な可能性や能力としての如来蔵や仏性を認めなければ、修行証果の可能性も説明できないことになる。原始仏教で信等の五根や三無漏根などが説かれたのは可能性としてのものではないが、心に積極的な清浄のはたらきがあることを経験的事実からのべたものであろう。
なお原始経典には有名な自灯明(自州)、法灯明(法州)の説法があるが、自は法という真如や理想を理解し体得する能力をもった自己であり、理想に向かう心をもった自己である。
この意味で、原始経典の中に積極的な自性清浄心もすでに至るところに説かれていることが知られる。流転縁起や還滅縁起を説く四諦や十二縁起の中にも積極的な清浄心が予想されており、仏教の根本目的としての、『いかにあるか』、『いかにあるべきか』という理論や実践の面も積極的な清浄心なしには存在し得ないのである。
ただこのような清浄心としての仏性や如来蔵を外教のアートマンなどと混同しないようにし、両者の明確な区別をつけて説明することが必要である。
(水野弘元)
神秀曰く
身は是れ菩提樹 (我が身こそは悟りの樹)
心は明鏡の台の如し (心は明鏡の台のようなもの)
時時に勤めて払拭して (たえず努力して磨きあげ)
塵埃を有らしむること莫れ (塵埃を残してはならぬ)
慧能曰く
菩提、本より樹無し (悟りに、樹なんぞあるものか)
明鏡も亦た台無し (明鏡もまた台は無い)
仏性は常に清浄なり (ブッダの本性は、いつも空っぽ)
何処にか塵埃有らん (どこに塵埃のつきようがあろう)
心は是れ菩提樹 (心こそは悟りの樹)
身は明鏡の台為り (身体は明鏡の台である)
明鏡は本より清浄なり (明鏡は、てんから空っぽだ)
何処にか塵埃に染まん (どこが塵埃に汚れるものか)
修行している時だけが、「積極的清浄心」ではなく
修行していない時も常に清浄であることが、「積極的清浄心」であろう。
by山口 巌