< 清 浄 経 >
ある時、わたしは、このように聞いた。
ある日のこと、仏陀は、ヴェーダンニャの釈迦族の人々と、マンゴー林に滞在していた。
ちょうどその頃、ジャイナ教の開祖である”ニガンダ・ナータプッタ”が亡くなったため、彼の教団は分裂して、互いに反目し合っていた。
その様子を、チュンダが目の当たりにして、仏陀に報告しようと、仏陀の滞在している場所を訪れた。恭しく挨拶すると、仏陀にこのように言った。
「尊師よ、かの教祖が亡くなって間もなく、かの教団は分裂して、殺人まで起こりました。どうして、このような事になったのでしょうか」
「チュンダよ、それは、彼の教義と戒律が、人に安らぎを与えず、人に恐怖を与えたから、彼自身が、正しく悟っていなかったからである。
○悟っていない師匠と、信じていない弟子では、正しく説いていないと、師匠は非難されるが、誤りに従わなかったと、弟子は称賛されよう。
○悟っていない師匠と、信じている弟子では、正しく説いていないと、師匠も非難されるし、誤りに従っていたと、弟子も非難されよう。
○悟っている師匠と、信じていない弟子では、正しく説かれていたと、師匠は称賛されるが、正しく従わなかったと、弟子は非難されよう。
○悟っている師匠と、信じている弟子では、正しく説かれていたと、師匠も称賛されるし、正しく修められていたと、弟子も称賛されよう。
さらに、チュンダよ、この条件が揃っても、師が亡くなる前に、弟子を育てられなければ、師が亡くなった後に、弟子が育てられなくなる。
師の死後も、優れた弟子が、法に基づいて、弟子を育てなければ、真理の法統は途絶える。それは、弟子にとって、何よりの苦しみである」
「チュンダよ、亡き尊い師の遺志を継ぐ者、真理の法統を継ぐ者には、四つの弟子がある。それでは、この四つの弟子は、如何なるものか。
第一には、男性の出家の修行者、比丘である。
第二には、女性の出家の修行者、比丘尼である。
第三には、男性の在家の修行者、優婆塞である。
第四には、女性の在家の修行者、優婆夷である」
「チュンダよ、以上の者が、神通を以て、弟子を育てない限り、真理の法統は途絶える。それは、弟子にとって、何よりの苦しみである」
「チュンダよ、様々な師匠が居るとはいえ、この世界で、私より優れた師は一人も居ない。仏陀の教えより、優れた教えは無いのである。
例えば、見ていても、見ていないと説く、”ウッダカ・ラーマプッタ”は、非想非非想処を説き明かしたが、それさえも、私には及ばない。
それでは、時を通じて、仏陀が説く教え、苦悩の滅尽に至る道諦とは、如何なるものか。
チュンダよ、その道が、七科三十七道品である。
第一の科は四念処である。それでは、この四つの念処は、如何なるものか。
第一に、身に対して、不浄であると念じること。
第二に、受に対して、不快であると念じること。
第三に、心に対して、無常であると念じること。
第四に、法に対して、無我であると念じること。
第二の科は四正断である。それでは、この四つの正断は如何なるものか。
第一に、積んでいる悪業を断じる、断断である。
第二に、積んでいない悪業を断じる、修断である。
第三に、積んでいる善業を積む、随護断である。
第四に、積めていない善業を積む、律儀断である。
第三の科は五根である。それでは、この五つの根とは、如何なるものか。
第一に、帰依に関する隠された力、信根である。
第二に、精進に関する隠された力、進根である。
第三に、集中に関する隠された力、念根である。
第四に、禅定に関する隠された力、定根である。
第五に、智慧に関する隠された力、慧根である。
第四の科は五力である。それでは、この五の力とは、如何なるものか。
第一に、帰依に関する現われた根、信力である。
第二に、精進に関する現われた根、進力である。
第三に、集中に関する現われた根、念力である。
第四に、禅定に関する現われた根、定力である。
第五に、智慧に関する現われた根、慧力である。
第五の科は七覚支である。それでは、この七つの覚支は、如何なるものか。
第一に、繰り返して法を修める、念覚支である。
第二に、条件に合う法を選ぶ、択法覚支である。
第三に、一心不乱に修行する、精進覚支である。
第四に、法を修めることを喜ぶ、喜覚支である。
第五に、心や体が軽快になる、軽安覚支である。
第六に、瞑想による三昧に至る、定覚支である。
第七に、無為となり自然になる、捨覚支である。
第六の科は八正道である。それでは、この八つの正道は、如何なるものか。
第一に、真理に基づき、見解を正す、正見である。
第二に、正見に基づき、思索を正す、正思である。
第三に、正思に基づき、発言を正す、正語である。
第四に、正語に基づき、行為を正す、正業である。
第五に、正業に基づき、生活を正す、正命である。
第六に、正命に基づき、精進を正す、正進である。
第七に、正進に基づき、集中を正す、正念である。
第八に、正念に基づき、合一を正す、正定である。
第七の科は四神足である。それでは、この四つの如意は、如何なるものか。
第一に、欲求を以て修める、欲如意足である。
第二に、精進を以て修める、勤如意足である。
第三に、集中を以て修める、心如意足である。
第四に、思索を以て修める、観如意足である」
「チュンダよ、もし、清らかな異教の徒が、教えを授けようとして、仏陀の教団に来たら、否定もせず、肯定もせず、法を問うべきである」
「チュンダよ、もし、邪まなる異教の徒が、教えを授けようとして、仏陀の教団に来たら、否定もせず、肯定もせず、法を説くべきである」
「チュンダよ、もし、邪まなる苦行の徒が、仏陀の教団では、楽行を説くと非難するなら、否定もせず、肯定もせず、法を説くべきである」
『苦行者よ、確かに、仏陀は安楽を説くが、それは、邪まではない、正しい安らぎである。それでは、この四つの安楽は、如何なるものか。
第一は、欲を離れて楽を得る、離欲得楽である。
第二は、楽を離れて喜を得る、離楽得喜である。
第三は、喜を離れて静を得る、離喜得静である。
第四は、静を離れて空に入る、離静入空である』
「チュンダよ、もし、邪まなる苦行の徒が、仏陀の教団では、楽行を説くと非難するなら、否定もせず、肯定もせず、法を説くべきである」
『苦行者よ、確かに、仏陀は安楽を説くが、それは、邪まではない、正しい安らぎである。それでは、この四つの安楽は、如何なるものか。
第一に、涅槃から還って来ない、阿羅漢である。
第二に、色界から還って来ない、不還者である。
第三に、二度まで還って来ない、一来者である。
第四に、悪趣まで落ちて来ない、預流者である』
「チュンダよ、もし、邪まなる苦行の徒が、仏陀は、戒律を守っていないと非難するなら、否定もせず、肯定もせず、法を説くべきである」
『苦行者よ、煩悩を、滅ぼし尽くしたものは、自ずと、守ることになる、九つの戒律がある。それでは、この九つの戒とは、如何なるものか。
第一には、殺生を犯せない、不殺生の戒である。
第二には、偸盗を犯せない、不偸盗の戒である。
第三には、邪淫を犯せない、不邪淫の戒である。
第四には、妄語を犯せない、不妄語の戒である。
第五には、貪欲に塗れない、不慳貪の戒である。
第六には、憎悪に塗れない、不瞋恚の戒である。
第七には、迷妄に塗れない、不邪見の戒である。
第八には、財貨を貯めない、不蓄財の戒である。
第九には、恐怖を抱けない、不恐怖の戒である』
「チュンダよ、もし、邪まなる異教の徒が、仏陀は、未来を説かないと、非難するならば、否定もせず、肯定もせず、法を説くべきである」
『異教徒よ、この生が、最後の生命である。仏陀にとって、この時が、永遠の一瞬である。それ故、仏陀は、現在を説き、未来を説かない』
「チュンダよ、もし、邪まなる異教の徒が、仏陀は、死後を説かないと、非難するならば、否定もせず、肯定もせず、法を説くべきである」
『異教徒よ、死後の存在に、囚われるなら、死ぬ前に、生前の苦悩を、滅尽できなくなる。それ故、仏陀は、生前を説き、死後を説かない』
「チュンダよ、もし、邪まなる異教の徒が、仏陀は、真理を説かないと、非難するならば、否定もせず、肯定もせず、法を説くべきである」
『異教徒よ、仏陀は、絶対的な真理を説く。それは、相対ではない。絶対の諦らめである。それでは、この四つの諦とは、如何なるものか。
第一は、全ては苦しみであること、苦諦である。
第二は、苦しみは必ず生じること、集諦である。
第三は、苦しみは必ず滅すること、滅諦である。
第四は、苦は越える道があること、道諦である』
「チュンダよ、過去に関して、諸説がある。増上慧を有する、仏陀は、過去の諸説に関し、解くべきを説いても、解かないべきは説かない。
例えば、この世界は、常住であると考えるもの。
例えば、この世界は、無常であると考えるもの。
例えば、自ら作った、自作であると考えるもの。
例えば、他が作った、化作であると考えるもの。
例えば、この世界は、偶然であると考えるもの。
例えば、この世界は、必然であると考えるもの」
「チュンダよ、未来に関して、所説がある。増上慧を有する、仏陀は、未来の諸説に関し、解くべきを説いても、解かないべきは説かない。
例えば、この自我は、物質であると考えるもの。
例えば、この自我は、精神であると考えるもの。
例えば、この死後は、有想であると考えるもの。
例えば、その死後は、無想であると考えるもの。
例えば、その死後は、断絶であると考えるもの。
例えば、その死後は、不滅であると考えるもの」
「チュンダよ、過去に囚われるのをやめて、未来に囚われるのをやめて、現在のみ念じる。それでは、今に念じる処とは、如何なるものか。
第一に、身体を正しく自覚する、身念処である。
第二に、感覚を正しく自覚する、受念処である。
第三に、意識を正しく自覚する、心念処である。
第四に、観念を正しく自覚する、法念処である」
これを、傍で聴いた、ウパナーヴァーナは歓喜した。
「ああ、妙なることです。稀なることです。
このように清らかで、このように浄らかとは。
尊師よ、仏法は、単純明快で、実に、清浄です」