< ダーウィンとマルクス >
もし、将来、幾千年後に、十九世紀を記念させるにふさわしい偉大な姓名がある、とすれば、それは、ナポレオンでもなく、ビスマルクでもなく、ロスチャイルドでもなく、カーネギーでもない。うたがいもなく、チャールズ・ダーウィンとカール・マルクスの両人をとりあげなければならない。なぜならば、彼らが、おのおの特殊の科学(一は生物学、他は経済学)に関しなしとげた発見は、ひとり当時の科学その他の革命であったばかりでなく、ひいては世界人類の思想と生活のうえに、一大革命をもたらしたものだからである。
思うに、現時の社会主義の理論は、まちがいなく、最新の科学を、その根底にしているものである。そして、最新の科学は、とりもなおさず、ダーウィンとマルクスの両人によって、その新紀元を画したものである。だから、この両人の人物と事業を比較し、研究するのは、社会主義研究者にとって、きわめて必要で、また興味のあることである。
1831年、ダーウィンの年は22歳、ビーグル号にのって世界を周遊すること5年、帰国後はじめて『博物学者の世界周航』をあらわし、その研究の成果を公表してから、その後、彼が地質・植物・動物の諸学問に関して出版した多数の著作は、すべて深遠・該博な観察・実験と、前人未到の学説とをもって、当時の科学界に大きな光明をなげかけたものである。そして、彼は、ただこれだけで、すでに第一流の科学者としての地位を占有したものであった。けれども、彼の姓名が、そのまま19世紀を記念させるようになった理由は、いうまでもなく、生物進化の学説のおかげである。
進化に関する学説の第一は、有名な『種原論』で、彼は、この書において、すべての生物が、自然淘汰と適者生存の原則によって、進化してきたものであることを、論断した。1859年、この書がはじめて出版させたとき、全社会は、憎悪・嘲罵・呪詛をもって、これをむかえたのであった。とりわけ、一般の宗教家にいたっては、激烈にこれを攻撃し、生物学に関してなんらの知識がない新聞記者なども、ただ世俗にこびへつらおうとして、あらそってその攻撃に付和雷同したのであった。
けれども、『種原論』は、とうとう世界を通じて一個の科学的経典になった。いまやいっさいの科学の研究が、みなこれをもって基礎としないものはなく、きわめて無学・文盲な人物でなければ、また進化の原則をうたがう者は、一人もない。そして、最初にあらゆる罵言をなげつけた彼ら宗教家でさえも、またその教壇において、やむなく、宗教と科学の調和に苦心するようになってきたのである。
そして、当初、『種原論』に対するおもな非難は、所説の根拠になる事実がとぼしく、結論が速断にすぎる、ということにあった。けれども、ついで出版された『アニマルス・エンド・プランツ・アンダー・ドメスチケーション』という一書は、動植物に関する莫大な実例をあげて、それでもって、これらの非難に答えることができたのであった。
反対の第二は、進化の学説は、動植物に応用できても、それを人類に応用はできない、ということにあった。そして、さらにダーウィンの『人祖論』が出版された。この書は、あますところなく、人類は特別という偏見を打破したものである。最後に、彼の『エキスプレッション・オブ・ジ・エモーション』は、人類が喜怒哀楽を表現する基本的な方法を、生理的、解剖的に研究して、ひとり人類だけでなく、他の動物もまた、同じものであることを論断し、それでもって、人類もまた、一種の動物にすぎないことをハッキリさせたのであった。以上の四書はうたがいもなく、ダーウィンの存在を、人類の歴史とともに不朽にしたものである。
マルクスも著述も、その新聞・雑誌への投書・演説の筆記、その他の小冊子などを合わせると、厖大な量に達しているが、その第一にとりあげなければならないのは、彼の『経済学批判』である、とする。
『経済学批判』のマルクスにおける地位は、ちょうど『種原論』のダーウィンにおけるそれと、同じようなものである。マルクスは、まずこの書において、いわゆる社会主義者の経典とよばれる大著『資本論』四巻は、むしろ、この詳解とも見るべきものであって、『資本論』の地位は、とりもなおさず、ダーウィンの他の三部の著書とよく似ている。
そして、ここに注意しなければならないのは、『種原論』と『経済学批判』と、両書がほとんど同時(1859年)に出版されたことである。これは、奇縁のようであって、奇縁でなく、偶然のようであって、偶然ではない。なぜならば、古今東西、どんな発見でも、またどんな発明でも、みな幾千年来の研究の結果、幾憶万人の知識の集積がもたらした成果でないものはないからである。
だから、イギリスにおけるプレスレー、フランスにおけるラボアジエ、スウェーデンにおけるシエーレの三人が、期せずして、ともに酸素の発明者であったことを、あやしんではいけなあい。1770年年代における世界思想の進化の過程は、ちょうどだれかの手によって、酸素の製造法を発明させることができ、その発明を必要とする程度にまで到達していたのであった。生物学・経済学における進歩もまた、このようなものである。1859年の天地は、生物進化と剰余価値の学理が、だれかの手によって、発見されなければならない必然の機運が、ちょうど熟していたのである。
ついで『資本論』第一巻が、1867年、ドイツにおいて出版され、その英訳が、1887年に出版された。『資本論』の第二巻・第三巻は、マルクスの死後、その友人エンゲルスによって、編集され、その第四巻は、エンゲルスの死後、彼らの友人であるカウツキーが、マルクス手記の原稿を校訂して、公表した。
この両書についで重要なのは、『革命および反革命』と題するもので、彼が経済学的見地から、1848年以後のヨーロッパの政界を評論したものである。思うに、科学的研究には、五つの段階がある。一は観察、二は実験、三は記録、四は考慮、五は集成である。凡庸の学者で、よく観察・実験する者がある。よく記録し、考慮する者がある。けれども、よくあつめて大成する者、ということになると、第一流の人物・頭脳でなければ、できない相談である。より高い集成は、とりもなおさず、より高い人物・頭脳でなければならない。ダーウィンとマルクスは、ほんとうに最高の人物・頭脳であった。
ダーウィンが世界周航の旅にのぼってから、『種原論』の発行にいたるまでのあいだに、彼がおこなった生物界の観察と実験は、28年のながい歳月を経過した。そして、彼は、これを記録し、これを考慮して、無数の複雑な事実、無数の混沌とした現象のなかから、共通の原理を発見し、整然とした秩序を形成し、それでもって、進化の学説をうちだした。人は、この共通の原理を名づけて、自然法というのである。けれども、その法則は、社会および政府の法規・命令とはがちがっている。私は、むしろ、集成というほうが、適切ではないかと思っている。
マルクスもまた、過去・現在の経済的事象を観察・実験した。ただし、経済学者は、生物学者のような実験はできなくても、歴史と社会が、そのまま彼に代わって、その実験をしたものである。そして、彼もまた、これを記録し、考慮して、世界の最高に位するような集成をなしとげることができた。
さよう、彼らの発見は、すぐさま人類の思想・生活およびその宇宙に対する根本的関係に影響するものであって、このような大発明は、わずかな例をのぞいて、ながいあいだ見られなかったものである。たとえば、コペルニクスの法則や、ガリレオの地動説のようなものである。その出現ぶりは、はじめ、世界を震撼し、なかごろ、その真理を認識させ、最後に大革命を実現するものである。
以上にのべたとおり、大発見・大発明は、人知の進歩した結果である。だから、生物進化論のような場合でも、またダーウィンの以前において、ラブレーからレマルクにいたる数人の大思想家の脳中において、ながらくその萌芽が見られなかったわけではない。けれども、ダーウィンの時代にいたるまでは、一般人民、いや、科学者の多数でさえもが、宇宙の森羅万象は、まったく宇宙以外に超絶した一権力、あるいは、諸権力のために統治され、左右されるものである、と考えていたのであった。物質と運動とを創造した第一原因というものがある、と決めていた。そして万物の破壊、終末の時期があるだろう、と考えていたのであった。
以上の観念は、ダーウィンのために、根本から破壊された。進化の学説は、万物が無始であって、無終であることをあきらかにした。森羅万象が、一定・不変のものでなくて、変転・輪廻するものであることをあきらかにした。宇宙の生命が、ただ連結・発展であることをあきらかにした。彼は、万物流転といったヘラクテイトス(前535頃〜475頃、ギリシャの哲学者)が基礎をおいた哲学の屋根を完成したのである。これは、このうえもなく、おどろくべき思想的大革命ではないか。
そして、マルクスは、とりもなおさず、ダーウィンが、自然界に向ってなしとげた発見を、人類社会に向ってなしとげた。生物界における進化の法則を、社会組織に応用した。マルクスのいう歴史の物質的概念が、それである。彼が思うには、どのような社会組織であっても、その根本要素であるものは、富の生産・分配の方法である。社会の維持し、生活を可能にする根本の富の生産・分配の方法が、進歩・発達するにしたがって、社会組織全体もまた、進化・発達するものである。だから、ローマ、イギリス、フランスの歴史を解釈しようと思えば、ローマ、イギリス、フランスの社会組織を知らなければならない。
彼もまた、社会の組織発達の他の要素である文学・美術・宗教・法律を無視するものではない。けれども、これらの要素もまた、経済組織、すなわち、その社会の生活方法の状況によって、その性質・状態がちがってくるものである。だから、文学・美術・宗教・法律を解釈しようとする場合でも、また本にもどって、その時代の経済組織の状況を見なければならない、として、彼は、古来の社会組織が、進化・推移した必然の大道を考えて、現在の資本家制度が、彼のいわゆる『剰余価値』によって維持されているものであることを発見し、そして、この制度の進化・発達の結果は、ついに社会主義に帰着する以外にないことを論断したのである。
これでわかるとおり、社会は、けっして一個の明君・賢相といわれる者の権勢によって、組織され、統治されるものではない。国家は、けっして神仏の摂理によって、興亡するものではない。生物の自然淘汰と同じように、その人民多数の境遇の適否によって、盛衰するものである。だから、健全な社会がほしいと思うならば、健全な生活方法をえなければならない。健全な生活方法がほしいと思うならば、すぐさま社会主義にはしらなければならない。
これで、現時の学術の基礎である生物進化の法則が、人類社会に応用された結果は、とりもなおさず、社会主義であることがわかるであろう。社会主義は学術に反す、とだれがいうのか。
これは、ダーウィン、マルクスの両者が、19世紀にあたえた光明の大観である。
ダーウィンは、無神論者でない、ということは、宗教家が熱心に弁明するところである。けれども、彼の学説から推論すれば、有神論者であり、宗教信者であることも、絶対にありえない。彼は、自分でアグノスチック(不可知論者)とよんでいたのであった。彼は、40歳でキリスト教をすてた。彼がいうには、私は、キリスト教の説くところの証明を発見することができない、と。
マルクスもまた、無神論者であった。マルクス、エンゲルス、ベーベル、リープクネヒト、ゲード、ラファルグ、ユブレカノフ、その他科学的社会主義の教祖・先輩が、たいてい唯物論者である理由が知りたいと思えば、エンゲルスの『空想より科学へ』の序文を読むと、たいへん参考になるだろう。
ダーウィンは、さいわいに資産家であった。彼がもし貧乏で、パンのためにかせがねばならない境遇であったら、彼は、とてもこの大発見をすることができなかったであろう。なぜならば、彼は、きわめて病弱だったからである。
マルクスは、さいわい身体が強健であった。彼は、一生みじめな窮乏のなかでくらしていて、よくあのような大事業を完成できたのも、そのおかげである。マルクスの組織した『万国労働者同盟』の時代には、ほんとうに郵便代さえなかったことがある。その貧乏のひどかったことがわかるだろう。
ダーウィンは、貴族と肩をならべて、ウエストミンスター寺院にほうむられ、マルクスは、ハイゲート墓地の貧民のあいだに横たわっている。ついでながらいえば、マルクスの無二の親友であるエンゲルスの場合は、その遺言により、遺骸の灰を海中になげすてた。ダーウィンは、純粋な地質学者・生物学者で、英語以外の外国語を知らなかった。マルクスは、その本職である哲学・経済学のほか、文学・化学・数学にさえも通じ、ヨーロッパ各国語を読み、英・独・仏の文章を書くことができた。
両人の偉大な事業と浩瀚な著作とは、一朝一夕、研究し、解釈のできるものではない。私は、ただその一斑をのべて、研究者の参考に供し、あわせて教示をもとめる次第である。
最後に、ダーウィンがマルクスにおくった書簡をかかげて、それでもって、本論をむすびたい。この書簡は、マルクスが『資本論』第一巻を寄贈したのに答えたものである。
「拝啓。私は、あなたの資本に関する偉大な労作をお送りいただいたことに感謝いたします。そして、私は、私がそれをうけとるにふさわしくあったら、それをよりよく理解できたら、と心からのぞまないではいられません。私たちの研究は、非常にちがったものではありますが、私たちは、ともにおたがいの知識の交換を誠実にのぞんでいる、と信じます。そして、このことが、結局、人類の幸福に役立つもの、と確信します。敬具。1873年10月1日」
彼らは、ともにただ知識の普及を熱望し、人類の幸福の増加を期待する、というのである。高潔な風格は、心から尊敬したくなるではないか。(明治37年10月2日)
< 生存競争と社会主義 >
ダーウィン氏の生物進化の学説が、ひとたび発表されて、旧来の科学とたたかい、哲学とたたかい、宗教とたたかいはじめると、向かうところをなぎたおし、すべての独断をうちこわし、もろもろの迷信をうちやぶるありさまは、くさった木をくだき、かれた木をひきさくようないきおいで、世界の思想・学術は、そのために面目を一新した。
いまや、生命進化の法則は、人間の知能のおよぶかぎりにおいて、うたがうことのできない一大真理として、なにの学、なにの説、なにの研究、なにの弁証であることに関係なく、あらゆる学問の領域にわたって、すべてがこれを基礎・根底にしなくてはならないようになってきた。
そして、われわれ社会主義者もまた、心からよろこんで、ダーウィンの一信者であることを明示せずにはおられないのである。
そうなると、一個の疑問が、しばしばわれわれに向ってくりかえされるのを耳にするのである。いわく、『社会主義が現時の自由主義を禁止しようとしているのは、ダーウィニズムの生存競争の法則と矛盾するものではないか』と。
考えてみると、動物・植物の別なく、生物はみな、生存のために競争しないものはない。そして、その結果、多数の劣者が、競争にやぶれて死滅し、少数の優者だけが、代々生存することになる。大昔から、生物が徐々に進化することのできる秘密は、こうした理由によるものである。これは、ダーウィン氏の明示するところで、しかも、社会主義者は、生存の競争を禁止・撤廃して、万民はすべてその生存を確保することができるという。これは、社会の進化を阻害しようとするものではないか、と。
われわれは、つぎのように回答したい。『いや、社会主義は、けっしてダーウィニズムと矛盾するものではない』と。なぜであるか。
われわれもまた、生存競争が生物進化の一動機であることをみとめている。けれども、すべての生物は、しだいにその進化の過程をとおるにつれて、生存競争のすがたもまた、おのずから変移しないではおられない。
高等な生物の生存競争のすがたは、下等な生物のそれにくらべてみると、たいそうその酷烈の度合いが減少している。下等な生物は、競争の結果、生存できるものが、千百万中の一にすぎないのに対して、高等の生物はだいたい、生死の数のバランスがとれ、人類にいたっては、生存者のほうが、死者の数をうわまわっている。動物は植物よりも、人類は動物よりも、文明人は野蛮人よりも、生存競争の犠牲になる劣敗者が、だんだんすくなくなってきた。
このように、生物の機関・組織が、複雑・完全になるにつれて、競争の方法が、たいへん緩和されて、自然にその劣敗者を減少していく事実は、純粋な生物学の領域のなかでもまた、これを否定することができない。ましてや、人類の社会組織は、さらに向上・進歩したものであるから、いっそうつよく緩和の事実が証明できるわけである。あの、ひとり競争が進化の動機であることを知って、競争そのものにもまた進化のあることを知らず、原始生物の劣敗者が多いのを見て、すぐさま人類社会にもまた、多数の劣敗者がなくてはならない、とするような類推は、進化の法則を乱すことの極端なもので、むしろ、ダーウィニズムをけがす敵といわなくてはならない。
思うに、太古、原始人の生存競争のすがたは、動物のそれにくらべて、いちじるしくかわったところがない。ただ、食物と婦人を入手するために、いいかえるならば、生活の両面の根底である栄養と生殖との計画を達成するがためで、その方法もまた、単純な暴力があるにすぎなかった。そして、その生活が、すこしく進化する段階になってからは、いくらか政治的権勢の競争が、これに加わるようになってきて、その方法もまた変化して、もっぱら知力の競争になった。
有史以来の人類の歩みを見よう。ギリシャ・ローマの社会は、もっぱら私法上の平等(奴隷禁止)のために競争した。そして、これに勝利した。しかも、競争はやまなかった。中世紀の社会は、こんどは宗教的平等のために競争していた。そして、彼らは勝利した。十八世紀の終わりから、政治的平等のために競争していた。そしてまた、これを手に入れた。そして、生存の競争は、依然としてやすまないのである。そのつぎにきた現時の社会は、まちがいなく、経済的平等をかちとるために、いいかえるならば、衣食の平等をかちとるために競争しているのである。
人類の生存競争は、けっしてその跡をたたないにもかかわらず、しかも、その目的・理想がつねに進化し、その方法がつねに向上してきている事実を認識しなくてはならない。そして、われわれは、今日の社会が、その競争・努力の目的である経済的平等をかちとるのもまた、それほどとおい時期でないことを確信している。いや、社会主義は、ほんとうに一日も早く、人類社会にこの競争を終結さして、さらに一歩を前進させようと思っている。後世の子孫に、もっとあたらしい思想目標のために、あたらしい競争を開始させたい、と思っているのである。
であるから、社会主義を論評しようとする者は、まず第一に、社会主義がけっしてすべての生存競争を禁止しようとするものでなくて、反対に、生物進化の法則を活用して、その競争の目標・理想を進化させ、その方法を洗練されたものにしようとする存在であることを認識しておかなくてはならない。
原始・野蛮の時代においては、暴力の闘争が、社会進化のために、唯一の動機であった。しかし、現代においては、すぐさま一個の罪悪ではないか。もし競争は進歩に必要である、という理由で、暴力もまたこれを禁止することができない、といったならば、その無法を笑わない者が、一人でもいるだろうか。現在の自由競争をもって必要である、とする愚論は、このたぐいではないか。
豺や狼が牙をむきだして競争している、といって、われわれもまた牙をもって戦わなくては、という道理はない。牛や羊が角をつきたてて競争している、といって、われわれもまた角をもって戦わなくてはならない、という理屈はない。牙と角との争いが腕力の争いとなり、腕力の争いが知識の争いになり、技術の争いになった変化の過程が、もしダーウィニズムとすこしも矛盾する点がないとすれば、われわれは、現在の衣食の競争をもって名誉の競争に高め、名誉の競争をもって道徳の競争に高めても、けっして社会の進化を阻害するものでないことを信じている。いや、これが、ダーウィニズムの必然に帰着するところではないか。
さらに、生物の進化は、ひとり生存競争によるばかりでなく、また実際の生存協同の恩恵に浴する場合の多いことを認識しなくてはならない。
多くの生物は、その外敵と戦うために、自然を開拓するために、あるいはその種の繁栄のために、あるいは、各自の利益を増進するために、その同種族と協同し、あるいは異種族とさえも扶助しあって、その結果、大きな進化をとげる例が、たいへんに多い。
そして、その協同がますますかたく、またひろがっていくにつれて、分業の方法がますますすすんでいく。分業の方法がますますすすんで、その機関・組織が、いよいよ複雑をきわめてくる。あらゆる有機体のうちで、下等とよび、高等とよぶ者は、すべてその機関の簡単なのと複雑なのとによって区別されている者であることがわかれば、社会の進化・向上もまた、ほんとうにその協同をかたくし、ひろくしていくことの、一番大切なことが、よくわかってくるだろう。また生物の協同の度合いは、つねにその食物の多少に比例して増滅している。食物の豊富なところでは、彼らは、たがいにニコニコして仲良くしているが、そうでなければ、その競争がきわめて残忍・酷烈な現象を呈してくる。人類もまた、このような制約をまぬがれない。
野蛮人のなかには、子殺し、親殺しのようなひどいことをしても、黙認しているものがある。離島のように、衣食が不足して、人工の増殖に悩む地域では(たとえばポリネシアのような)、これをもって宗教上の義務、もしくは善事としていることがある。しかし、土地・食物が豊富にめぐまれ、その文明が進歩している地域においては、無上の罪悪であることは、いうまでもない。
だから、その衣食の競争が、現在のように激烈なことは、けっして社会を進歩させる理由にならない。各人に、一日も早く、その経済的平等をかちとらせ、その協同の範囲を拡張して、強固なものにさせるのでなければ、人類は、逆に、野獣の域に退歩するようになるだろう。社会主義が、衣食の競争の廃止を叫ぶのは、どうしても、だまって現状を見過ごしていられないからである。
ダーウィン氏の進化説は、千古不滅の真理である。けれども、彼はただ、生物自然の進化する根本の理由を説示するにとどまった。
だから、どうしてこれを人類社会に応用すればいいか、という問題になってくると、あの、いわゆるダーウィニアンの徒が、まちまちの議論に分かれ、なかにはひどい謬見におちこんでいる者がある。
そして、ダーウィンが生物自然の領域でなしとげたのと同じような創見を確立して、じかに人類社会の領域にもちこんで貢献したのが、近代社会主義の開祖マルクスである。
マルクスもまた、すべて従来の独断・迷信を排除し、人類社会の史的発展過程を研究して、社会進化の法則が、かならず社会主義に帰着しなくてはならない必然の筋道をあきらかにした。マルクスの『資本論』は、まことにダーウィンの『種原論』とならんで種子をおろした十九世紀の大作である。
だから、ダーウィンの進化説は、ほんとうにマルクスの資本論によって、はじめて大成されたものである。いったい、社会主義をさして進化説と矛盾する、というような論者は、まだ社会主義がわからないばかりでなく、また進化説もわからない者である。(明治37年1月31日)
(幸徳秋水)