< 高等宗教の使命 >
〜 一歴史家の宗教観 〜
キリスト教・大乗仏教的診断によれば、欲求にはまず自我中心的欲求がある。すなわち自我がその貪欲を満足させるために欲望の対象を利用するというだけの目的をもって、己の外にある対象に憧れるのがそれである。そしてこの自我中心的欲求の問題に関しては、キリスト教・大乗仏教的政策も小乗のそれと異なるところはない。それが等しく教えるところは欲望を滅却せよということである。キリスト教と大乗仏教とが、他の種類の欲求、すなわち自我中心的ではなく、反対に自己犠牲的な欲求の診断に移るときに、政策の相違が起る。自己犠牲は利己的に自我を消滅せしめることではなく、愛の心をもって他の人々に奉仕するために自己を献げること、そしてそのためにはいかなる悩みをも代価として支払う覚悟をもつことを意味する。
一個の自我がこのように献身的な仕方で憧れをもつ時に、自我はその憧れの対象を正当な獲物である”かのもの”としてではなく、他の自我であるゆえに神聖な汝として扱うのである。この献身的な欲求を感じることによって、愛する自我は宇宙をば自分と同じようなもろもろの自我の社会として扱っているのである。自我中心的な欲求を感じることによって、自我は自己の外にある宇宙の万物を霊のない一連の波動と微粒子として扱っているのである。あらゆる人間的自我がこの二つの異なった欲求をもちうること、また現にもっていること、そしてこの二つが単に性質を異にするばかりでなく、精神的領域の両極端に対立するものであることは、万人の経験する事実である。相剋しつつしかも不可分なもろもろの対立物の人間性における逆説的統一のもう一つの現われがここに認められるのである。そして現世の人間生活に不可避的につきまとう不断の闘争は、実は自我中心的欲求を消滅せしめ、あらゆる代価を支払っても献身的欲求の道に進もうとする闘争なのである。この代価は実に深刻な悩みであることが明らかとなる。愛を通してわれわれが蒙る苦痛は、貪欲のためにうける苦しみよりさらに激しいものである。キリスト教と大乗仏教の判断によれば、たとえ最大の悩みといえども愛の道を歩むために支払う代価としては高すぎるものではない。なんとなれば、あらゆる悪のうちで最大なるものは、悩みではなくて自我中心性であり、あらゆる善のうちの最大なるものは、悩みからの解放ではなくて愛であるから。
以上のように、現存する高等宗教を概観してみると、われわれは、人間と宇宙の性質に対する二つの異なった診断にもとづく二つの異なった人間行為のための指針を見いだすのである。この二つの診断のいずれが真実により近いものであろうか。また二つの指針のいずれがわれわれを人間の真の目的により接近せしめるであろうか。
もしもキリスト教の伝統に育った二十世紀の探求者が、これらの質問に対してできうる限りの解答を求められたならば、疑いもなく彼は小乗に対してキリスト教と大乗仏教に味方するというであろう。事実の問題について、小乗の診断が献身的と自我中心的な欲求との区別を見落としているのは、その診断が皮相なものであることを示していると彼は見るであろう。そしてこの皮相的な診断が誤った価値評価と誤った処方に導いたことを認め、さらに進んで小乗の政策もまた、彼の見るところでは、自らを裏切って不条理に陥るがゆえに実際の役にはたたぬものだと論ずるであろう。欲望を消滅しようとする欲望を感ぜずに、一個の自我はどのようにして欲望を消滅せしめる仕事にとりかかることができようか。また欲望を消滅せしめようとする欲望が消滅せしめられぬ限り、自我はどのようにして欲望を消滅せしめることに成功しえようか。涅槃を志す者は、自らの目的を裏切らざるをえぬ仕事にのり出したのではなかろうか。彼は不眠症患者の苦境に自らを陥れ、眠りがおとずれることを望むあまり眠ることができなくなった人間となってしまったのではなかろうか。彼の欲することは自己の意識を失うことであり、この欲望を妨げているのは欲望そのもののもつ自我中心性である。この譬喩は小乗仏教の高僧の涅槃に対する欲望が、自我中心的な性質のものであるという急所をついている。俗念を離れようと努める高僧にとっては、宇宙に存在するすべての他の自我は、愛さるべき汝ではなくて棄てされるべき”かのもの”である。そして人格をあたかも事物のように扱おうとする欲望は、たとえそれが人格を棄てさることだけに用いられる場合においても、自我中心的なものである。
小乗仏教に対する異議の申し立ては、ここでキリスト教の代弁者から大乗仏教の代弁者にひきついでもらってもよいであろう。小乗を批判するこの仏教徒の批評家は小乗の経典を証拠として、仏陀の本来の教えは小乗ではなくて大乗であると論じるであろう。小乗の経典は仏陀の説教と事績を記録したものと称しているが、もしもこの記録が正しいものとすれば、仏陀は彼が行っていたことを説いていたのではないと結論を下すほかはない。人間の最高の目的が自我の滅却であると説くことによって(実際に仏陀がそう説いたとすれば)、彼は自分の拒んだ行いの道を他の人々にすすめていたことになる。というのは、仏陀自身は、正覚を得たのちに誘惑者が現われて、涅槃に入ってただちにこの世を去ることをすすめた時に、これを拒んだからである。涅槃に入る代わりに、同じ悩みをもつ同胞の解放につくすために、ことさらに自己の悩みからの解放を延期する道を択んだことによって、慈悲のために悩む方が、自我の滅却によって悩みから自分自身を解放するよりもすぐれた道であると信ずることを、仏陀ははっきりとした行為によって示していたのであった。しかし人間の真の目的がなんであるかということが問題とされる時には、自分自身にとって正しいことはそれ自体が正しいことであるべきであり、従って他人にとっても正しいことであるはずである。従ってこの選択をすることにおいて仏陀は自らの実例によって教えを説いていたのである。そして彼がその生活によって示したこの模範は、彼に帰せられている説教以上に重要なものでなければならない。たとえその教えのなかで自我中心的な自我の滅却の追求がすすめられているとしても、その献身的な愛の行為によって、仏陀は暗黙のうちに彼自身の言葉を取り消していたのである。そしてまた大乗の菩薩の理想の源泉となったこの行為は、小乗仏教国における日常生活の精神と行為に対しても仏陀の教えよりも大きな影響を及ぼしてきたと思われるのである。小乗を批判するこの大乗仏教徒の批評家が率直に思いやりのある人であったならば、この対人論証こそは小乗に引導を渡す情けの一太刀であったであろう。
小乗仏教の経典に描かれている誘惑者をしりぞける仏陀の姿と好一対をなすものは、先に引用したピリピ人に宛てた聖パウロの書簡の一節に描かれたキリストである。われわれはそこに、悟りを開いた仏陀のように、己の境位を完全に支配するという、異常な立場に立った一個の自我の姿を見るのである。ゴーダマ仏陀と同様に、いまやイエス・キリストも永久に悩みから免れる力をもっている。イエスは神の姿にて存在し神と等しきものとなっているのである。そしてこのように神に似た存在の状態にあっては、自我はもはや満たされぬ欲望をもつことはなく、従って失望の苦しみを味わうこともありえない。涅槃を目前にしている仏陀と同様に、キリストもまた天国において神とされる機会を手に入れるべき酬いとして捉えることができたのであった。しかしキリストは仏陀と同じくこの誘惑を斥ける。彼は自我性と不可分の悩み・・・しかも一個の自我の支配的な情熱が貪欲ではなくて愛である時に、自我が身をささげる限りなき悩み・・・をことさらに択ぶのである。
この同じ誘惑を斥けることによって、キリストと仏陀はともに自我についての同一の真理を行為によって明らかにしている。一個の自我は使うためにあるタラントン貨幣である。この貨幣を地にうめたり鋳つぶしたりして流通面からひきあげることは、貨幣が発行された目的に反することであろう。この真理は日常的な自我についてのみではなく、ゴーダマ仏陀のような悟りをひらいた自我、イエス・キリストのような神化された自我についても妥当する。自我性は要望と切りはなすことはできない。従って絶対的実存との完全な一致をなしとげた自我にとってさえ、さらにまた神としての人格面における絶対的実存そのものにとってさえ、悩みからの解放はありえないのである。
神とはなんぞや。人間にとっては、神とは同胞を助けることである。
愛は神より出ず・・・愛というは、我ら神を愛せしにあらず、神われらを愛し給いしなり・・・我等もし互に相愛せば、神われらに存し、その愛も亦われらに全うせらる・・・神は愛なり、愛に居る者は神に居り、神も亦かれに居給う。
このようにして、もしも大乗仏教徒またはキリスト教徒が小乗と自己の信仰とを比較したならば、彼らは恐らく自己の信仰の方が優れているという結論に達するであろう。それは小乗よりもさらに深い宇宙の神秘の洞察を与え、また人間的存在が自分自身をいかに処置すべきかについての、より高い理想を掲げていると感じるであろう。もしもこれがキリスト教徒の結論であるならば、科学技術による”距離の抹殺”がいまやすべての高等宗教をますます互いに接近せしめつつ世界にあって、以上の結果として彼のなすべき行為はいかなるものであろう。彼の最初の衝動は、「己を義と信じ、他人を軽しむる者ども」のように行動することであるかも知れない。そして彼はその先例を、キリスト教のみならずユダヤ教、回教の歴史のうちに数多く見いだすであろう。しかしそうした先例はまた警告でもあるであろう。そもそもパリサイ主義というものは、ユダヤ系の諸宗教の陥りがちな罪であって、一連の悲劇的な残虐行為と悲惨な結末という応報を自らの身に招いたものだからである。パリサイ主義の産物は不寛容であり、不寛容の結果は暴力であり、そして罪の値は死である。西欧キリスト教世界のカトリック対プロテスタントの宗教戦争の罪深さと怖ろしさとは、十七世紀の西欧の先達を動かしてキリスト教的な愛の名のもとに宗教的寛容を確立させた悪であった。われわれが生きている今日、十七世紀の先達から受けついだこの一見定着したかに見える寛容の習慣が、パリサイ的排他性と狂信性以外には西欧の宗教的伝統の何物をも保持していない。世俗的イデオロギーによって脅かされているのを見るのである。
それにも拘わらずわれわれが伝統的なパリサイ的陋習に再び陥ろうとする誘惑をなお感じるならば、われわれは慈愛をすすめる幾つかの真理を思い出すことによって、この誘惑から身を守ることができるのである。
一つの宗教の試金石は、単に真理を洞察し教えを解釈することだけでなく、人間がそれらの真理を心に体し教えを実践するのを助けることに、どの程度の成功或いは失敗をしたかということである。従って実在の性質と人間の真の目的についての定義をうけ入れるか或いは拒絶するかによって、宗教の問題は片がついてしまうというようなものではない。われわれはさらにその帰依者の日常生活のなかを窺い、実践の面で、彼らの宗教が自我中心性という人間の原罪の克服に、どれほどの助けとなっているかを見なければならない。これはあらゆる宗教が直面しなければならない問題である。そして小乗仏教の絶対的実在の直観と人間生活と闘うためのその政策を排斥するキリスト教徒は、もしも彼の小乗を非とする抽象的判断が、小乗仏教世界の精神的風土の直接の体験によって裏づけられることがないならば、彼は自分自身の危険負担において小乗を非難していることとなろう。キリスト教の支配のもとにおいてよりも小乗仏教の支配のもとにおいて、人間がより善い生活を送ってはいないという確信が、直接の観察によってえられないならば、彼自身の方がより高いものであると主張するのは不当であろう。
われわれは自分の宗教が唯一の道であり真理であると信ずる。そしてこの信念は、その限りにおいては正当なものと認められるかも知れない。しかしその限度は知れたものである。なぜならばわれわれは全体的真理も知らず、また不純物が全くまじっていない真理を知ることもないからである。「われらの知るところ全からず、われらは鏡もて見るごとく見るところ朧なり」。「光が闇のなかに輝き出た時にも、宇宙はなお神秘である」。
「かくも大いなる神秘の核心は一つの道のみを巡ることによっては到達しえない」(シマクス)。他の高等宗教がわれわれの宗教よりも僅かの真理しかもたないということがたとえ事実であったとしても、それらの宗教に真理が全くないということになならない。またそれらのもつ真理が、キリスト教に欠けている真理であるかも知れないのである。シマクスの提唱する寛容の説には、キリスト教側からなんらの答弁も与えられてはいない。キリスト教ローマ政府が、世俗的武力によってシマクスの父祖の宗教を力づくで抑圧したことは、彼に対する解答でも何でもないのである。そのうえにシマクスは沈黙させられたわけでもない。彼の父祖の宗教はとおのむかしに消滅したが、ヒンズー教が今日もなお生きのびてシマクスの代弁者となっているのである。
今日われわれをとりまいている世界においては、異なった現存宗教の帰依者は相手の宗教的遺産を容認し、尊重し、敬意を表するだけの用意を、従来にもましてもたねばならない。なぜならば、自己の宗教と隣人のそれを比較して、効果的な判断を下すことのできる立場にある人は、われわれの世代には誰もいないからである。幼い頃から家庭にあって親しんできた自分の宗教を、成人してから外から知った宗教と比較する時、効果的な判断はありえようはずがないのである。父祖伝来の宗教が当事者の感情に対してはるかに強い支配力をもつことは必然であって、これと他の宗教との比較判断は到底客観的なものではありえない。現存する異なった諸宗教の優劣を判断しようとする衝動は、物理的な距離の抹殺がもたらすことを期待される心理的効果を発揮するまで保留しておかねばならない。もろもろの異なった歴史的国家、文明、宗教の遺産がひとつとなって、全人間家族の遺産となる時がやがてやって来るであろう。そして異なったもろもろの宗教の効果的な優劣判断は、この時はじめて可能となるであろう。この可能性は、恐らくわれわれの目に見えるところまで来ているであろうが、まだ手の届くところまで来ていないことは確かである。
その時が来るまでに、現存するもろもろの宗教は厳しい実地試験をうけることとなろう。「その果によりて彼らを知るべし」。宗教に課せられる実地試験は、いつの時代、どの国においても、悩みと罪の挑戦に対する人間の霊の応答を助けることに成功したかいなかということである。われわれが今はいりつつある世界史の一章においては、科学技術の不断の進歩はわれわれのかずかずの悩みをかつてないほど深刻なものとなし、われわれのかずかずの罪は、その現実的結果においてますます大きな禍いをもたらすものとなるかに見えるのである。この歴史の一章は一つの試験期間となるであろう。そしてもしわれわれが賢明であるならば、われわれはその判決をまつであろう。
もしもわれわれが時の選別作業を待ちきれなく感じるならば、それはとりもなおさずわれわれ自身の宗教の真理と価値に対する信念の不足を告白することにほかならない。これに反してもしもわれわれがこの信念を実際にもっているならば、人間の霊が現象の背後にある存在との交わりに入り、絶対的実存を己を調和させることを助けるために、われわれの宗教が十全の役割を果たしえないのではないかと心配することはないであろう。もろもろの高等宗教の使命は、互いに競争することではなくて互いに他を補うことにある。われわれは自己の宗教を信じても、それが真理の唯一の宝庫であると感じる必要はない。自己の宗教が救済の唯一の道であると感じなければ、それを愛することはできないといったものではないのである。われわれはキリスト教に対する忠誠を欠くことなく、シマクスの言葉を服膺することができる。シマクスに対して心をかたくなにすることは、とりもなおさずキリストに対して心をかたくなにすることである。なんとなれば、シマクスの説いていることはキリストの愛にはほかならないから。
愛は長永までも絶ゆることなし。しかれど予言は廃れ、異言は止み、知識もまた廃れよう。
〜 トインビー 〜