< ガンジーの宗教心 >










 ベーカー氏は顧問弁護士をしているほかに、忠実な、ひらの説教師だった。彼は今なお存命で、すでに弁護士業はやめて、キリスト教の伝動事業一筋に生きている。彼は何不自由なく暮らしていて、わたしと今でも文通している。彼のよこす手紙では、彼はつねに同じ問題を取り上げており、さまざまの見地から、キリスト教のすぐれていることを説くのである。そしてただ一人の神の子、人類の救済者としてキリストが受け入れられないかぎり、永遠の平和を発見することはできない、と主張するのである。


 それこそ初対面の間じゅう、ベーカー氏は、わたしの宗教的見解いかんを確かめた。わたしは彼に言った。

「わたしは生まれながらのヒンドゥ教徒であす。しかしわたしは、ヒンドゥ主義については、あまり知っていないし、ほかの宗教については、さらに知りません。実際わたしは、わたしの立場が何なのか、わたしの宗教心が何であって、何であるべきか、ということも知りません。わたしは私自身の宗教について、また他の宗教もできるだけ慎重に研究したいと思っています」

 ベーカー氏は聞き終わって、喜んでくれた。そして言った。

「わたしは南アフリカ伝道会の幹事の一人です。わたしは自費で教会を一つ建てて、そこで定期的に説教を行っています。わたしは人種偏見を少しも持っていません。わたしには協力者が幾人かいます。そして私たちは、毎日午後一時に、五、六分の間ですが集まって、平和と光明を求めて祈っています。もしあなたもそこへ加われたら幸いですね。わたしの協力者に、あなたをおひき合わせいたしましょう。彼らはあなたにお目にかかれるのを喜んでくれるでしょう。あなたもまた、彼らとのつき合いを好きになりますよ」

 わたしは、ベーカー氏にお礼を述べて、できるだけ欠かさずに、毎日の一時間の祈りの会に出席することを約束した。


 翌日午後一時に、わたしはベーカー氏はのところに行って、祈りの会に出た。そこでわたしはハリス女史、ギャップ女史、コーツ氏その他に紹介してもらった。ハリスおよびギャップの両女史は、ともに年をとった独身の婦人であった。コーツ氏はクェーカー教徒だった。二人の婦人はいっしょに住んでいた。そして彼らは、日曜日ごとに彼女たちの家で開かれる四時のお茶の会に、正式の招待状を出してくれた。日曜日に私たちが会うとき、わたしはいつも、一週間にわたるわたしの宗教日記をコーツ氏に渡して、わたしが読んだ本や、その本がわたしに残した印象を彼と議論し合うことにした。コーツ氏は、包みかくしのない、忠実な青年であった。私たちは、よくいっしょに連れだって散歩に出かけた。そして彼もまた、わたしをほかのキリスト教徒の友人のところへ連れて行ったくれた。私たちが親密さを加えるにつれて、彼は、自分で選んでは、わたしに本をくれるようになった。しまいには、そういう本で、わたしの本棚はいっぱいになった。わたしは1893年には、この種の本をたくさん読了した。


 彼は、わたしに非情な親愛の情をいだいていた。彼は、わたしの首にかけているトゥラシの木でできたヴァイシュナヴァ派の首飾りを見つけた。彼はそれは迷信だと思って、そのため心を痛めた。

「そんな迷信は、君らしくもない。さあ、その首飾りをはずそう」

「いや、それはいけない。これは母からもらった神聖な贈り物です」

「しかし、君はそれを信ずるのですか?」

「わたしは、別にこれの神秘的な意義は知りません。もしわたしがそれをつけていなくとも、ばちがあたるとは思っていません。しかし、十分納得のゆく理由がなければ、この首飾りを捨てるわけにはいきません。それは母が、愛情からと、わたしの幸福のためによかれとの信念から、わたしの首にかけてくれたものです。だんだん時の移るとともに、すり切れて、自然にこわれます。そのときには、わたしは新しいものを手に入れようとは思いません。しかし、この首飾りをこわすわけにはいきません」


 コーツ氏は、わたしの説明を認めようとはしなかった。彼はわたしの宗教に対して、いささかの尊敬も持ち合わせなかったからである。彼はいつも、わたしを無知の谷底から救おうとしていた。ほかの宗教が何らかの真理をふくんでいるかどうかに関係なしに、本質的真理を代表するキリスト教精神を受け入れないかぎり、わたしに救いはありえないということ、イエス・キリストのとりなしがなければ、それ以外によっては、わたしから罪は洗い流せないだろうということ、そしてまた、どんなに善行を重ねてもむだであるということを、わたしに納得させようとした。


 ベーカー氏は、わたしの将来についていろいろと心配してくれるようになった。彼はわたしをウェリントンの集会に連れて行った。集会は三日間連続だった。わたしはそれに出席している人々の誠実さを理解できたし、また感心もした。しかし、わたしの信仰・・・わたしの宗教を変える理由は見つけられなかった。ただキリスト教徒になるだけで、わたしが天国にのぼれたり、救いを受けたりする、ということを信ずるわけにはいかなかった。そのことを、わたしが善良なキリスト教徒の友人たちに率直に打ち明けたのは、彼らにとって衝撃だった。しかし、それよりほかに、どうしようもなかったのである。


 イエス・キリストは彼の死によって、また彼の流した血潮によって、世界じゅうの罪を贖ったということを文字どおり信ずることを、わたしの理性は許さなかった。たとえ話としては、そのなかにいくらかの真実はあるかもしれなかった。さらにまた、キリスト教の精神によれば、人間のみが霊魂を持つものであって、他の生物は魂を持たず、死ねば、それは完全に消滅してしまう、というのである。一方、わたしのいだいている見解は、それとは正反対のものである。わたしはイエス・キリストを殉教者、犠牲の体現者、そして神聖な教師としては受け入れられた。しかし、古今を通じて、最も完全であった人間としては受け入れられなかった。


 キリスト教徒の敬虔な生活は、ほかの信仰を持つ人の生活が与えてくれなかったと同じように、何もわたしに与えてくれなかった。わたしは、かつてキリスト教徒の間に起ったと聞いている改革と同じことを、他宗徒の生活ででも見つけたのであった。哲学的にいえば、キリスト教の諸原理のなかには、何も変わったものはない。犠牲の点からいうと、ヒンドゥ教徒のほうが、はるかにキリスト教徒をしのいである。


 このように、わたしはキリスト教を完全無欠、あるいは最も偉大な宗教であると考えることはできなかったが、そうかといって、わたしは、ヒンドゥ教のもろもろの欠点は、わたしには明らかすぎるほど明らかである。もし不可触賤民制がヒンドゥ主義の一部であるとすれば、それは腐敗した部分か、あるいは無用の長物と言うよりほかはない。わたしには、数ある宗派やカーストの存在理由がわからないのである。『ヴェーダ』が神から授かった言葉である、というのはどういう意味なのか。それらが神の霊感によるものならば、聖書もコーランもまた、そうではないのか。


 わたしは、わたしの悩みを手紙にしたためて、レイチャンド・バイのもとに送った。わたしはまた、別にインドの宗教の権威とも文通して、彼らから返答を受け取った。レイチャンド・バイの手紙で、わたしはいくらか落ち着きを取りもどした。彼はわたしに対して、辛抱しながら、もっと深く突っ込んで、ヒンドゥ主義を研究することを要求してきた。彼の文章の一節には、つぎの意味のことが書かれていた。

「その問題を冷静に考えても、ヒンドゥ主義のような微妙で、深味のある思想、その霊魂の観照、あるいはその慈悲は、他のどの宗教にも見つからない、とわたしは信じている」


 キリスト教徒の友人たちが、わたしを改宗させようと熱心になっていたように、イスラム教徒の友人たちも、劣らず熱心だった。アブドゥラ・シェートは、わたしに、イスラム教を研究するように説いてやまなかった。わたしはセール訳のコーランを買ってきて、読み始めた。わたしはまた、イスラム教について書いた、ほかの書物を手に入れた。


 わたしは、イギリスにいるキリスト教徒の友人とも文通した。そのうちの一人が、わたしをエドワード・メートランドに紹介してくれた。わたしは、彼と文通を始めた。彼はわたしに『全き道』という本を送ってくれた。その本は、現行のキリスト教信仰の否認であった。彼はまた、わたしにもう一つ別の本『聖書の新解釈』を送ってくれた。わたしは両方とも好きだった。彼らは、ヒンドゥ教に賛成しているように受け取られた。トルストイの『神の国は汝自身のうちにあり』を読んで、わたしは感動で圧倒された。それは、わたしに永遠の印象を刻みつけた。


 わたしは、キリスト教徒の友人たちの思いに反した道を歩むことになったが、彼らがわたしの心の中に宗教的な探求心を目覚めさせてくれたことは、一生の恩として忘れることができない。わたしはつねに、彼らとの交友を思いだすだろう。






 私はキリスト教に賛嘆すべき点を数多く見出すが、教会のキリスト教と私とを一致させることはできない。・・・私が理解しているヒンドゥ教は、私の魂を完全に満足させ、私の全存在を満たしてくれ、バガヴァッド・ギーターとウパニシャッドは、山上の説教にすら見出せない慰めを私に与えてくれる。山上の説教に説かれる理想を私は尊重しているし、貴重な教えのいくつかは私に深い印象を残しているのではあるが・・・しかし、正直に言うと、疑惑が私をさいなみ、失望が私の眼前に立ちふさがり、地平線のどこにも希望の光の一筋も見られないとき、私はギーターの詩をひもとくのだ。すると私は必ず慰めの一句を見出し、打ちひしがれるほどの悲しみのまっただ中で、私の顔にはほほえみが浮かぶ。私のこれまでの人生は外面的な悲劇に満ち溢れんばかりだが,それらが私の内面には格別目に立つ消しがたい痕跡など残していないとすれば、それはバガヴァッド・ギーターが私に与えた教えのおかげなのである。






 とりわけ行き届いた心づかいをしてくれたのは、多くのクリスチャンの友人たちだった。アメリカ、イギリス、インドからは私に本を送ってくれた。その友情には私は心から感謝を惜しまぬものであるが、それらの本の大部分には私は同意できないと言わざるを得ない。私としても送り主が喜ぶようなことを彼らに言ってあげたいのは、やまやまなのだが、しかし自分の真情と違うことを言うのは、偽善的行為であろう。正統的キリスト教の書物は私を全く満足させないが、イエスに対する私の敬愛の念は本当に大きいものである。イエスの教え、洞察力、そして犠牲死に私は感動し、そしてイエスを畏敬するにいたっている。だが、イエスがその言葉の文字どおりの意味において神の受肉であるとか、神のひとり子であるなどという正統的教義は、私には受け入れがたい。また、イエスのありあまるほどの功績が(人類の救済のために)転用されうるという教えも、私は信じない。イエスの犠牲死は、私たちにとって手本であり、例証である。私たちのだれもが、自らの救済のために十字架にかからなければならないのだ。『息子なる神』『父なる神』『精霊なる神』といった表現を、私はそのまま文字どおりに受けとることができない。これらは皆、比喩的表現なのだ。と同時に私は、山上の説教にさまざまの制限を課そうとする主張をも是認できない。


 新約聖書の中に戦争を肯定する箇所を私は見つけられない。私の見るイエスは、世界がこれまで持った最高の預言者、最高の師、のひとりである。私が聖書を、イエスの生涯に関する完全無欠な報告とはみなしていないということは、あらためて強調するまでもあるまい。同様にまた私は、新約聖書の一言一句が神の言葉であるとも思っていない。旧約と新約の間には根本的相違がある。旧約にもいくつかの非常に深い真理が含まれていることは確かであるが、しかし私は、これを新約と同じ程度に尊重することはできない。新約は旧約の教えの拡大であり、・・・事柄によっては旧約の教義の拒否ですらある、と私は考える。しかしながら新約聖書をも私は、神の最終的福音と見なすことができない。地上のすべての事柄がそうであるように、宗教的理念も進化発展の法則のもとにある。いささかも変わらぬものは、ただ神のみである。しかし神の教えは人間という不完全な仲介者によって伝えられるのだから、その仲介者の純度に応じて、常に多少なりとも歪曲されざるをえない。


 こういうわけで、私がクリスチャンの友人たちに心からお願いしたいのは、今あるがままの私を受け入れてくれることである。自分たちと同じように考え、行動してほしいという彼らの私に対する願いを私は尊重し、評価するが、それと全く同じ程度に私は、イスラム教の友人が私に対して表明する願いをも尊重し、評価するのだ。この二つの宗教はともに私にとって、私自身の宗教と全く同様にまことのものである。しかし私の信じる宗教は、私の内面にあるすべての要求を満足させてくれる。私の内面的発展に必要なすべては、この宗教が与えてくれるのだ。


 私の宗教は私に、他宗教の人々がそれぞれの信仰を守りつつ、豊かに内的発展をとげるよう祈ることを教えはするが、その人々が私自身の宗教を信ずるように祈ることを教えはしない。だから私はクリスチャンのためには、より良きクリスチャンになるよう祈り、イスラム教徒のためには、より良きイスラム教徒になるよう祈るのだ。私は確信しているのだが、神はいつの日にか私たちに、私たちが名乗っている宗教の名称などではなく、私たちが何であるのか、すなわち何を実行しているのか、を尋ねるであろう。いや、今日すでに尋ねておられるのだ。神にとっては行為がすべてであり、行為のともなわない信仰はゼロである。神にとっては行為が信仰であり、信仰は行為である。






 私の心の中でイエスは、私の人生に少なからざる影響を及ぼした偉大な人類の師のひとりという位置を占めている。私はよくヒンドゥ教徒たちに、イエスの教えをも畏敬の念をもって学ばなければ、その人生は不完全なものになるだろうと言う。自らはいかなる宗教を信じていようと、他の宗教の教えを尊敬をもって学ぶなら、その心は広がるのであって、その逆ではない、という結論に私は達している。私は人類がもった大宗教のどれひとつとして、誤っているものなどないと思う。それらすべてが人類を豊かにしてきたのだ。寛大な教育には、すべての宗教の敬虔な研究も含まれていてしかるべきであろう・・・。


 もし、山上の説教と、それに対する私の解釈という二点だけに話を限定するなら、『はい、私はキリスト教徒です!』と、いささかの躊躇もなく私は答えるだろう。だがそれを言う瞬間に、私がさまざまのきわめて大きな誤解を招く危険にさらされることを、私は自覚している。これを否定的な形で諸君に言うとすれば、現在キリスト教として通用していることの多くは、私の見るところ山上の説教の否定である。どうか私の言葉に注意していただきたい。私が今この瞬間に問題にしているのは、キリスト教の個々の行動ではなく、キリスト教信仰、つまり現在の西欧世界で理解されているキリスト教である。実に残念なことであるが、行動はいついかなる場所においても、信仰にはるかに大きな後れをとる。この事実は常に私が自覚しているものである。だから私は今これを批判しているのではない。私が自分の宗教的原則にしたがって生きようと常に心がけているにもかかわらず、私の行動がそれらの原則に後れをとっていることは、だれよりも私自身が体験から十分に知っている。私が今諸君に言おうとすることは、現実世界におけるキリスト教の現われかたと、その信仰表現について、私がいだく根本的疑問の呈示にほかならない。


 私がはじめて聖書を読んだときから今にいたるまで、ずっと私の心を捕らえて放さない言葉がある。それは『何よりもまず、神の国と神の議を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる』である。私は諸君に言いたい。もし諸君がこの言葉を理解し、心にとどめ、そしてその意味において行動するならば、諸君はイエスや他の人類の師が、私の心や諸君自身の心の中でいかなる位置を占めるかなどということは、まったく知る必要すらないであろう。もし諸君がこの道徳的道路掃除をするなら、諸君の心を清めて準備をしておくなら、これらの偉大な師のすべてが、私たちがわざわざ招くまでもなく、自ら進んで諸君の心の中に住みつくようになるのを、諸君は体験するであろう。私の考えでは、これこそがあらゆる本物の教育の基礎である。理性の文化は心の文化に奉仕するものでなければならない。神の助けによって、諸君が清められんことを!


 私は自分が信仰と祈りの人であると主張する。たとえこの身が千々に切り刻まれようと、私は神を否定することなく、神の存在を確信する。神はそうする力を私に与えてくれるであろう。・・・私たちの誰もが、それぞれ独自の『神』解釈をもっていることは、本当である。神はこの地球だけを支配しているのではなく、何十億という同じような地球を、数限りない宇宙の累積を支配しているのだから、これは必然的にそうならざるをえない。・・・つまり、私たちが神について同じ言葉を語るとしても、それらは必ずしも同じ意味である必要はない。そんなことをして何になるだろうか?私たちは人に改宗を勧める必要はないのだ。・・・口頭であれ、著述によってであれ。人を改宗させることのできる唯一の方法は、私たちの生き方そのものである。私たちの生き方は、だれもが読めるようにページが開かれてある一冊の本であるべきだ。・・・もし私が、伝道というものをそのように見なすようにと、宣教師である友人たちに説得できさえすればよいのだが。そうすれば私と彼らの間には、不信や疑惑、嫉妬やいざこざは、宗教問題に関しては存在せず、調和と平安のみがあることになるだろう。私たちインド人は、西側からやってきた宣教団に対して、その西欧的外見のために不信感を抱くようになってしまっている。・・・イエスの教えを、近代文明ということになっているものと混同しないでいただきたい。私は宣教師である諸君に尋ねたい。諸君は無意識のうちに、諸君と共に住んでいる人々に暴力をふるっているのではないかと。私は断言するが、東洋の人々の心のよりどころを奪うことは、諸君の職能の中にはない。彼らが持っている優れたものに対しては、寛容であってほしい。西欧文明の偉大さを確信し、その成果を誇りとしているにせよ、謙虚さを失わぬよう願いたい。真摯な疑問のための余地を心の中に持っていていただきたいし、私たちの誰もが自分自身の人生を送るのを認めていただきたい。そしてもし私たちが正しい人生を送っているとしたら、なぜ急ぐ必要があろうか?

 山上の説教によって与えられた泉の水を胸の奥深く飲んでいただきたい・・・だがそうすると諸君は、イエスの山上の説教に説かれた教えを実行できていない事実を、『粗布をまとい灰をかぶって悔い改め』なければならないだろう。山上の説教の教えは私たち全員のためである。『あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』。






 それはすべて不完全な人間によってつくられたものだから、必ず不完全であるという弱点をもち、虚偽が混入している。だから他人の信仰に対しても私たちは、自分の信仰に対するのと同じ尊敬を抱くべきである。そのような寛容さが日常の根本原理となるところでは、宗教間の紛争は起こりえないし、、また他人を自分の宗教に改宗させようというあらゆる努力も不必要となる。そこではもっぱら、諸々の宗教の欠点が克服され、そして手に手を取って完全さに向かって前進するよう祈りさえすればよいのだ。