< 仏教堕落論 >
先ず仏教が渡来してより間もなく、聖徳太子が出生せられ、仏教と民族精神との融合が行なわれた。仏教はこれによって、早く日本文化に消化せられた。これは日本文化の向上の為には利するところが甚だ多かったと思う。この後、国家組織の統一にも影響を及ぼして、聖徳太子の新日本建設の理想が、大化の改新に及んで実行せられた。この理想は、聖武天皇によって更に強調せられ、仏教によって中央と地方統治の連絡が図られ、中央集権の実が大いに挙がって、国勢が発展したのである。平安時代に及んで、仏教は益々日本化して、所謂日本佛教が漸く起こった。それと共に本地垂迹思想に依って、仏教と国民思想との調和も図られ、祖先崇拝の思想との融合も年代を経ると共に漸く進んできた。日常の生活も殆ど全く仏教に涵るようになって、仏教が全く国民の生活の中に融解してしまった。殊に浄土教に於いて、その融合の最も鮮やかに現われていることが認められるのである。然るに一方に於いて、平安時代の仏教は、漸くその弊を生じて形式化した。これはその時代の社会一般の通弊であったのであるが、一面には密教全盛の影響でもあった。かようにして、仏教は著しく堕落した。かくて平安時代の末に及び、改革の機運が漸く熟して、鎌倉時代の前後に於いて、新仏教の興隆の促し、仏教復興の曙光を認めるようになった。是に於いて、仏教は形式的より離れて実際的になり、貴族的より脱して平民的となった。これによって、武士道を培養し、国家意識を向上せしめ、また平民文化の発達を促したのである。平民文化が発達すると共に、経済の発達も大いに見るべきものがあった。これにもまた仏教の力が興って大なるものがある。それは室町時代に於いて殊に著しく、座・市場・門前町・問屋・為替・ョ母子・無尽・質屋などは何れもその例である。
さてまた一方より観察して見るに、一般精神生活も物質生活も、各時代を通じて、著しい影響を仏教から受けた。思想界に於いては言うまでもない。言語に於いても、仏教に根源を有するものが甚だ多いのである。今日我々が知らず識らず使うところの言葉の中で、その解釈を仏教に求むべきものは非常に多い。また假字の発明の如きも、仏教によってできたことであり、印刷も仏教に伴って発達した。文学に於いては、万葉集を初め、各時代の歌集、平安時代の物語類、或は戦記類、室町時代の謡曲・狂言・小説等の中に、仏教に関する分子の多いことは、枚挙に遑がないのである。五山僧侶が文学に於ける效績は言うまでもなく、教育もまた同じく中世にあっては寺院僧侶の手に委ねられてあった。医学及び暦学なども、仏教の背景の下に発達している。芸術に於いては、絵書・彫刻を初め、建築・音楽何れも皆仏教の畑に於いて育った。この他、衣食住の生活・礼式・挿花・茶湯、その他種々の風俗等、何れを見ても仏教の影響を受けないものはない。また社会事業の如きも、江戸時代以前にあっては、専ら寺院僧侶によって行なわれた。一般救済慈善事業は固よりであるが、浴室の発達、動物愛護より、交通の発達、土木事業に至るまで、幾多の事跡が残っているのである。また各時代を通じて、地方文化の発達も、仏教の力による所が多い。奈良時代から平安時代の初期までを一期として、この間に地方文化の著しい発達が寺院によって促された。次は平安時代末から鎌倉時代に亙って、寺院による地方文化の発達が見られる。また寺の領地としての荘園の発達によって、地方文化の発達したこと、殊に商業・交通運輸の発達等に寄与する所が多かった。また室町時代に於いては、地方大名と寺院の結合によって、その地方の文化の中心を作り、地方都市の基を建てた。従って、江戸時代封建制度の基礎を作ったのも、また寺院僧侶が與って力あったのである。
江戸時代になって、封建制度の立てられるに伴い、宗教界もまたその型に嵌り、更に幕府が耶蘇教禁止の手段として、仏教を利用し、檀家制度を定めるに及んで、仏教は全く形式化した。これと共に本末制度と階級制度とに依って、仏教はいよいよ形式化した。寺院僧侶の格式は固定化し、尊碑の階級は煩わしく、元来平民に起った各宗派も、甚だしく階級観念に囚われ、僧侶は益々貴族的になり、民心は仏教を離れ、排仏論は凄まじく起こった。仏教は殆ど麻痺状態に陥り、寺院僧侶は惰性によって、辛うじて社会上の地位を保つに過ぎなかった。
かくして明治時代に及んだ。260余年間、徳川幕府の保護政策によって惰眠を貪っていた寺院僧侶は、一朝にしてその恃とすべき者を失った。廃仏毀釈といえる暴風に吹きさいなまれた。元来道心を以って出家したのではなく、ただ世を渡るための手段として遁世したもの、形ばかり頭を剃った僧侶、祖先以来の習慣に倣うて僧籍に入っていた者は、得たり賢しと還俗し、それぞれ皆新しい生活の道を求めた。そうして残った者は、真実に道を求めんとする者、即ち仏教の主義に殉ぜんとする者か、或は全くその当時の趨勢に暗かった者だけになった。かようにして当時の僧侶に淘汰が行なわれた。僧侶は今や全く恃むべき何物も持たなくなった。志ある者は自ら立たねばならぬことを悟ったので、道心堅固の者が残されて、奮闘努力を続けて、教界の復興を志したのであった。廃仏毀釈のために寺もなくなってしまった、寺の財産も失ってしまった、領地は没収せられ、檀家などの関係もなくなってしまった、本尊仏堂も壊されてしまい、宝物などは塵埃の如くに棄てられたのである。然しながら、これが為に、僧侶の目が覚めた。これは寧ろ廃仏毀釈のもたらした賜物であって、いささか皮肉の感がある。
福田行誡が、当時仏教の通弊を述べて、『己れ誡、久しく弊中に薫染して、蒼蠅の嗅を逐えるの徒なり、豈にいやしくも一旦にして纓を洗う人となることを得んや、然れども、その見る処を以て之を云わば、諸宗各々弊なき者あることなし』といい、その弊原を按して、我執・名聞・利養の三弊にありとし、『今の世王政出でて侯伯を廃し、位階を縮む、今にして僧網何の為にかせん、名位何の望む所かあらん、幸いにして僧者の名聞を棄てんは此秋なり』といい、また『今の世、門地を廃し、寺領を没す、僅かに食糧を存すべし、』『予を以て此を云えば、真にこれ朝恩なり、いささかも遺憾の念を生ずべからず、』『既に攝政・関白・幕府及び大小の侯伯、数百年の国邑を棄てて、皆王家に帰す、公法固より然るべしと雖も、然れどもその一毫と雖も、各此を惜しむものなきを見れば、俗人と雖も殆ど檀度の大士なり、僧者にして鉢底の餘粒を惜しむ、その理にあらざるべし、利養此に於いて永く捨念に帰す、豈喜ぶべきの至りにあらずや、』と論じ、また加賀松任本誓願寺白華が各宗会盟への建言中『徳川氏二百余年、吾徒を安逸に放棄す、これを癡婆の驕児を育するに譬う、今世王政一新、百弊皆除く、驕児の厳師に遇うが如し、自驕惰を知らずして、督責を怨む、その罪果して誰にかある、小子驕惰のもっともなる者也、ただ自省して、僧風を振るい、器宇を大にし、励修閲藏して庶幾くはその責を塞んとす』といえるが如きは、よく自己を意識し、時勢の趨く所を観察したもので、僧界革新の気運自らこの中に萌すものあるを覚えしめる。
かくて仏教復興の機運は漸く熟し、明治二十年前後から仏教はようやく息を吹き返したかの如く見える。然れども仏教界の一部分に於いては、今日に於いても、なお二百余年前の江戸時代の姿をそのまま保存しているものがあって、江戸時代の仏教が貴族化した各宗本山の成り上がり振りは、昭和の今日なおよく保存せられて、我々に向かって活きた史料を提供しているものもある。
よくよく日本文化発達の大勢を見るに、貴族文化より平民文化へと進んでいる。差別より平等などへ転じて来ている。固よりこれは一筋道に進んだのではなく、多少波乱はあったけれども、大勢はその方向に動いているのである。但しその進歩発展が序に従って中を執るという所に、我が国民の特徴があると思う。俄かに突進せず、順序を履み、中正の方針をとって進んで行くという所に、我文化進展の特質があると思う。
然るに仏教のみは、江戸時代に惰眠を貪り、為めに一般社会の進運に伴わなかった。ここに明治時代になって、一般社会に於ける四民平等・階級撤廃など、平民の文化発達の著しいものがあるに拘わらず、寺院僧侶のみは、社会の落伍者となり、江戸時代の元の姿をそのまま引き継ぎ、居然として自ら誇り、階級観念に没頭して、以て独り尊大を維持し、得々として喜んでいる者もある。寺院僧侶の文化は、外の社会に較ぶれば、少なくとも五六十年は遅れていると思う。志ある者もしくは狡慧なる者は、ただ名ばかりを僧籍に列ねて、実際は他の職業に転じている。昔、平安時代に、三善清行の意見封事に、『諸国百姓の課役を逃れ、租調を逃るる者、私に自ら落髪し、猥りに法服を着く、此れ皆家に妻子を蓄え、口に腥膾を啖う、形は沙門に似て心は屠児の如し』というのがある。今日はそれと反対で、僧侶の籍にある者が、僧形を喜ばずして、俗人の形をとる者が多くなった。またかつて平安時代より室町時代にかけて、寺院は文化の中心となり、僧侶は社会の進運の先覚となって民衆を率いて行ったものである。然るに今や、僧侶は社会の進運から遥かに遅れて、寺院の多くはまさに歴史的遺物に化し去らんとしている。今後果たして如何なりゆくべきや、是に至っては、ただに長大息之を久しうするのみである。
(辻善之助)