< コラールと世俗歌曲 >
〜 シュヴァイツァー 〜
ルターは旋律の作製に際しては、彼が歌詞作製に際して採用したと同じ原則を用いた。即ち彼は古人の作に成るものから、何らかの用に立つものを採り、これを「改良」した。ただし歌詞の改良に比して旋律の改良の方が徹底的に行われた。何となれば彼は旋律が歌いやすく、かつ覚えやすくあることに、専ら着眼したからである。
ドイツの教会音楽において、明瞭に新古の境をなす1524年、この年に2人の頭角をあらわせる音楽家、コンラート・ルップフとヨーハン・ワルターは、ルターの客となって、「彼の家のカントライ」をつくっていた。 ケストリンは上掲の論考において、この3人の仕事振りを描き出している。 「ワルターとルップフとが卓に向かって座し、五線譜の上に身体をかがめ、手に鷲ペンをとっているかたわら父ルターは室内をあちこちと歩き、 横 笛 をもって、彼の作った歌詞に結びつかんがために、記憶及び幻想から流れ出る旋律を長い間ふきこころみた。かくして終に曲節は、節奏的によくまとまり、念入りにみがきをかけられ、強く圧縮せられて無駄のない統一体として、確かにそこに立つようになった。」
中世の宗教的歌曲は、このようにして、その旋律が保存せられることになり、コラール歌詞は古い曲節に合うように翻訳された。1524年出版の提要に於いても同様である。また既にひろく知られている宗教的歌曲の曲節に合うように、新しい詩がつくられたことが、更に屡々であった。
一つの旋律は一つの教会的歌詞と結びついて、それ以後、それを以って名とするに至るのであるが、これに至る迄の沿革は殆ど知る事はできない。それ故に、どの旋律が古来の伝承で、どの旋律が宗教改革の音楽家によって創作せられかを決定することは困難である。ともかく後の種類に属するものの数が、あまり少なく見積もることは不可である。ワルターは、他の人々に比して、この宗教的事務への奉仕において、豊かな創作力をあらわしたように思われる。
ルターが旋律の創作者として、どの程度に顔を出しているかは結論し難い。それによって若干の旋律が彼に帰する同時代者の証言は、事を確証するには、あまり一般的で漠然としている。確かに彼に出ずるものとせられている「我が神は堅き城」の旋律は、グレゴリウスの旋律のあちこちを織り合わせたものである。この事実の承認は、決してこの旋律の美を失わしめることでもなく、またルターから名誉を奪うことにはならぬ。散らばったものから一つの纏ったものを作り出すことは、これまた一つの重要な才能に属することではなかろうか。
ニコラウス・デチュウスのドイツ語のグロリア(即ち、「高きにいます神にのみ栄光あれ」)の旋律は、復活祭のグロリアの中のエト・イン・テラ・パクスなる詩にあたる旋律によっていることは明白である。かようのことはカトリック教会の歌唱伝習所で教育せられた人に於いては、何らあやしむに足りない。むしろこの方策に出でなければ、かえって不思議である。また中世の宗教歌曲もグレゴリウスの旋律の通性を保存していることに注意しなければならない。
コラールの旋律を創作するに当たって、幸福な立場にあったのは、ボヘミアのヨアヒムスタールの敬虔なるカントル、ニコラウス・ヘルマンであった。この人は詩人で、同時に音楽家であった。「汝ら信徒よ、諸共に神をほめよ」及び「輝ける日はあらわれたり」はこの人の作である。
教会用歌曲の旋律を創作した音楽家の数は大体に於いて非常に多数ではない。これは創作能力をそなえた芸術家が存しなかった事によるのではなくて、旋律創作と云う仕事が大して意義あることだと思われていなかったことによる。一つの新しい旋律が、誰にでも知られ、それに伴って国の隅々に迄ひろまることは困難であり、かつ多くの時間を必要とする。従って民衆的な宗教的旋律として、既に出来ているものが得られない場合には、世俗的旋律を教会に奉仕せしめる手段に出ることは、新しい旋律をつくり出すことよりも、はるかに自然である。福音派教会はこの手段を徹底的に用いた。
教会用旋律の中で、はじめから教会用としてつくられたものが少ないことは、ある土地の住民の中で土着民が少ないのと同様である。最古のカトリック教会の音楽といえども、異教の街頭から、教会の中に移住したものであって、オーギュスト・ゲファールトに如き専門家が講演においてこのことを発表している。
宗教改革にとっては、何はさておき、ともかく役に立つ旋律を手に入れることが、第一であった。宗教改革は民謡を宗教の世界に導き入れることによって、世俗の音楽そのものを高尚なものにしようとした。1571年にフランクフルトで出版せられた歌集の表題は、世俗の音楽をそのまま宗教用に転用する試みよりも、世俗的歌曲の悪い部分を捨てて、基督教に改宗させる試みの方が、多く為されたことを示す。即ち、「基督教的に、道徳的に、良き風習にかなうように改作せられた俚謡、御者及び鉱夫の歌、人が宗教的に良く、有用な歌詞をこれにそえることを欲するならば、それによって街頭、田野及び家庭で無用の恥ずべき歌をうたう悪しき、いきどおるべき旋律をやがて消滅させるために」。
ルターは、美しい旋律は必ずしも悪魔の専有物ではないと云って「私は遠いところから来た」と云う歌のふしにあわせて「天の高きより我は来る」を作った。原曲はこれを歌いながら謎をかけて、これを解しかねた少女は、花嫁の花冠をかぶせられると云うようなものである。その後ルターは、このふしを再び悪魔の方へ行かしめた、と云うのはこの旋律が改宗した後においてもなお、舞踏場や酒場をあちこちと駆けめぐったからである。1551年、ワルターはコラール集からこれを放逐し、別のふしを補った。この後のものによって、ルター作詞のクリスマスの歌が今日まで歌われているのである。
このような再堕落はしかし例外である。教会的に貴族に列せられた旋律のほとんど全部は、新序列に立ってその存在を主張し、時の牙をあざわらう力を持った。これらの旋律は、幾世紀もの長い間にわたって、彼らが世俗的な先祖をもっていると云う、紙に記された僅かばかりの証拠に対して反証を挙げることは為し得なかったのである。旋律の性質を以ってしては、今となっては世俗的なものと、教会的なものとを判別することは出来ない。何となれば世俗的の音楽が古くなると、宗教的な高尚さに自からを推し挙げる品位が与えられるからである。一つの神秘的な紐帯が、古い時代と宗教とをめぐってこれを融合させるのである。もし古い、世俗的モテットに教会的な歌詞をつけて演奏したならば、教会音楽のピュリタンといえどもなお欺かれ得る。とある頭の良い人物が云ったが、これは正しく無くは無い。
この様にしてハインリッヒ・イザークの「インスプルックよ、私は御前から別れねばならぬ」の曲節は、「この世よ、我は汝を去らざるべからず」なるコラールとなり、パヴィアの戦の時の、傭歩兵の歌った歌、即ちパヴィア節は「アダムの堕罪によりて」となり、「神より我は離るまじ」のコラール旋律は「或時私は散歩した」なる恋愛の歌から出る事となり、「我が事は全て神にまかせまつり」は「これより大なる悩みはこの世に無し」なる恋愛歌から出で、「我が神の恵みを讃むるを助けよ」は1572年に出版せられた宴飲の歌の中にあらわれている。
1601年にハンス・レオ・ハースラーはニュールンベルクで「四、五及び八声部で奏する新作のドイツ語の歌曲、パレット舞曲、ガリアルデ舞曲及びイントラーダの楽園」を出版した。12年後この中に収められてある恋愛の歌「我が心はやさしき乙女によりてみだれたり」の旋律は、「心より我は潔き死を望む」なる死の歌となり、更に後にパウル・ゲルハルトの「おお、血と傷にみてるみかしら」にむすびつき、終にバッハのマタイ伝受難曲の主導旋律となった。
外国の旋律は、魅力と美しさをもっている場合には、国境を越えた所で取押え、一夜漬で福音派教会の礼拝式用のものたらしめられた。このような目に遭ったのは「汝のうちによろこびあり」の旋律で、これは1591年ジョヴァンニ・ゲストルディのバレット曲集の中に入って、イタリアから来たものである。フランスの小歌T1 me suffitde tous mes meaux も同様で、これは1529年パリの有名な楽譜出版商ピエール・アティニャンの Trente et quatre chansons musicales の中に入って来たものである。この曲節は「神の思いたまうこと、常に行わる」として広められた。バッハがマタイ伝受難曲のために、この旋律に立派な和声をつけた時、このような事の成行があったことに想到したであろうか。
後になってユグノー派信徒の詩篇曲を媒として別のフランス民謡がドイツのコラールに入って来た。カルヴァン派の教会は、用うべき宗教的民謡の手持ちがない為、ドイツの教会よりも更に多く宗教に関係ない曲節に拠らざるを得なかった。詩篇歌唱用曲節の編纂に当たって、どのような事が行われたか、これをドゥアンはその魅力ある作 Clement Marot et le Psautier Hugenot に記している。カルヴァン自身すらもが、ダビデやソロモンの気品の高い詩が、極めて軽々しい旋律と相携えて、元気にしかも信心深くあちこちと散歩しているのを見て笑った。このことは彼の一生一度のことであった。
ユグノーの詩篇曲集の決定版は1592年に刊行せられた。既に1565年、ケーニヒスベルクの法学の教授アムブロジゥス・ロープワッサーは、フランス語の原書にある125曲に合うように、ドイツ語の翻訳をつくった。それでこれらの曲はドイツに知られ、直ちにコラール集に入った。「我らこの上なき苦しみにある時」の立派な旋律は、ユグノーの詩篇曲から出たもので、原籍はフランス民謡である。
諸事物についての現代風の史的な考え方は、あつかましい好奇心の値に於いて求め得られたものであるが、かかる厚顔な好奇心のみが、この真相暴露をこころよしとすることが出来る。音楽家はかかる事に頓着しないし、またこの暴露を再び直ちに忘却し去るであろう。何となればこの暴露は彼が本能によって既に知っている以上のことを教えることにはならないからである。彼はその本能にって、真実にかつ深く感ぜられた音楽は、世俗のものたると宗教的のものたるを問わず、芸術と宗教とが手を握り得る、かの高い境地を歩むものとなることを知っているのである。
起源について我々が何等知る処のないコラール曲節は幸いなるかな、である。ニコラーイ作「朝の星はいかに美しきかな」及び「起きよと守るものの声は呼ぶ」は、このしあわせにめぐり合った。この二つの旋律は、1598年に出た、未来の生活の美しさ、楽しさについての書物の付録として、始めて世に出たものである。
それからうまい汁が吸えるような旋律の宝庫が、用いつくされるに至って、作曲の時代がはじまる。17世紀には極めて豊富に宗教詩が作られたが、これらが作曲に駆り立てた。当時の福音派信徒たる音楽家で、宗教用曲節を作曲しなかったものはほとんど無い。複旋のコラールの歴史で光っている作曲家のほとんど全部は、曲節成立の歴史においても、引き出される値がある。
曲節の運命は詩の運命と何ら異なるところはない。即ち芸術家が創作した所の、いつかは亡び失せるべき多数の形象の内で、ただ極めて少数のもの、或いはただ一つだけが永生の息吹を吸いこむことが出来たに止まる。かかるものは、この世に福音派のコラールなるものが存する限り、その集中で、不滅の美しさに輝いている。
多数のコラール旋律案出者の中で、頭角をあらわしているのは、ベルリンの聖ニコライ教会のヨーハン・クリューガーである。彼はパウル・ゲルハルト及びヨーハン・フランクの詩の為にその芸術を潔め用いた。彼の作になる旋律のうち「わがよろこびなるイエス君よ」「よそおいせよ、我がめぐし霊よ」「すべてをj神に感謝せよ」等最も美しいものは、バッハの諸作曲の中に採り用いられて、名誉の座を占めている。そもそもマタイ伝受難曲も最初の聖歌「最愛のイエスよ、汝は何の罪を」がクリューガーの作なのである。
第18世紀の始めころ、音楽の上を吹き渡った気息は、音楽家をして今後、ほんとうの教会用旋律を作ることを不可能にした。ドイツの音芸術はドイツの詩歌との共感を失ったのである。そして純粋に芸術的に美しいイタリアの旋律の影響のもとに立たざるを得なくなった。これらの旋律はもはや、心まずしきものの宝を持たない。実に中世以来、あの独特な、立派な曲節がドイツ人の為に流れ出たのは、この宝からなのである。これに加うるにこの当時市民の間にも、宮廷にも漸く盛んになった世俗音楽は、音楽家を新しい仕事に誘った。それ故、宗教詩の為に、自己を無にして曲節を創作し案出することばかりが、音楽家の唯一の満足を買い得なくなったのである。
バッハが世にあらわれた時には、宗教詩の創作の大なる時代は云うにおよばず、教会用旋律の創作の大なる時代も既に幕をとざしていた。もちろんこの当時の音楽は宗教的旋律の創作を行っていた。しかしそれはアリア風の歌曲で、本来の会衆の為の歌ではなかった。はっきりと正体のつかめない主観的性格が、これらのアリア風の歌曲にこびりついていて離れない。
この点に関してはバッハもまたその時代の例規に服せざるを得なかった。ツァイツの城館附カントル、シェメッリは、1736年にブライトコップフから、収載歌曲番号が954に及ぶ大部の聖歌集を出版した。彼は有名なトマス学校カントルのもとに行って、協力を求めた。バッハは、この聖歌集の序文が示す如く、数字低音を校閲しただけでなく、曲の附いていない歌に旋律をつけた。当時の讃美歌集の例に洩れず、この集の中の曲節の作曲者の名が書きそえられていないため、どの曲が、及びどれだけがバッハの手になったかは、十全の確かさをもって定めることは出来ない。しかしこの集の出版以前から有ったことが、後になっても証明せられないことによって、ある程度の確実さをもって彼のものと認め得る曲節は、コラールと云うよりも宗教的アリアと云う方が適当なものである。
上のことはこれらの歌曲の性格について記されたことであった、美的価値についてのことではない。何となればこれ等の曲の独特の美しさは、ドイツのコラールの中で育った芸術家が、形式的に完成したイタリアの旋律の影響を受けながら作ったものであるとの点に存するからである。「甘き死よ、来たれ」や「愛しまつる主イエスよ、いずこに」のひびきの下に、身体がぞっとするのを感じたことのある人、その人こそこれらの曲節が言後に絶して立派であることを知っているのである。
これらの旋律を会衆に歌わせたり、あるいは四部合唱曲に編曲したりするのは不可である。何故とならば、これ等の旋律をこのように取り扱うならば、生えて居る所からもぎはなされた睡蓮の花のように、直ちに凋落の襲う所となるからである。これ等の曲節をコラールとして取り扱う際に明らかになる所の、重苦しさと無気力さは、これらの曲が本来コラールでないことを示すものである。
合理主義の時代にあっては、酒に水を割って味を害する如く、折角のコラールの歌詞に理論めいた章句を割り込ませることが盛んに行なわれたが、旋律に関してはそれほどのことは無かった。とは云うものの、讃美歌集に古来からの旋律が再び採り入れられ、またコラール集が、近来の作になる無性格な曲節の包囲攻撃を受けなくなる迄には、相当にはげしい戦いが続いたのであった。この戦いが終わった後の今日にあっては、論争は、我々が古いコラール旋律を、18世紀の人々が我々に伝えたように、詩の各綴りを同じ長さで歌うべきであるか、それとも、もともと旋律にそなわっていたリズムの変化の豊富さに復すべきかに転じた。これはほとんど決し得ない論争である。歴史的、芸術的もしくは実際上の商量から帰結して、一方を正しいと定めれば、その途端に同種、同値の否定材料が、伴って来るからである。
音符が均等化せられた、すりへらされた形のコラールを可とする論者は、バッハがリズム的なコラールの伝統が彼の周囲でなお強く余力を発揮していた時においてさえ、古いリズム的な形のコラールに立ち帰る芸術上の必要性を全く感じなかったことや、現在我々がバッハから受け取る形のコラールは、純音楽的見地からは、これを不可として、変更を強制する理由が見つからぬことを楯にとることができる。バッハをコラールの形の問題に関してひきあいに出すとしても、これくらいのところであろう。この老大家は、あたかも聖パウロがすべてをよりよく知っているコリント人を説服したように、リズムの変化の豊かな旋律にかえそうとする熱心家に反対して、自分たりともリズムに関する感覚を持っているのだと主張することが出来たのである。
〜 アルバート・シュヴァイツァー「バッハ」より 〜