< 翁 の 文 >



〜 富永仲基 (1715〜1746) 〜








< 序 >


 むかし伊加須利(坐摩神社)の宮のそばに、ひとりの翁が住んでいた。 その名前はわかっていない。 ある人の話では、才智にたけ、思慮にとみ、いつも夜遅くまで学問をするのが好きだったということである。 午後十時の「寝よとの鐘」が鳴り響いても、机を離れず、夜のふけゆくのも忘れ、あかつきの雁の声を聞くまでひたすら学問に熱中していた。 ただ文事だけを友として暮らしていたため、隣の人でさえ、この翁についてはなにも知らないということであった。 ところで「徳のある人には必ずことばがある」といわれている。 ここに富永某というもの、時雨のほかはだれも訪れるもののない翁の住まいをときどき訪ね、そこで聞いたいろいろの話を書きとって本にまとめ、「翁の文」と題をつけた。


 わたしの家の近くだったところから、富永某は「これを御覧ください」といって、その文を見せてくれた。 ところで、この翁の住む所は渡辺という地名なのだが、そうするとこの書は「渡辺の翁」ということになるだろう。 渡辺といえば、登連法師が歌の教えをうけるために、雨もいとわず「渡辺の聖」のもとに通った故事が思いおこされ、興味深いのだが、それはともかく、とりあえずこの書を一読してみた。


 たしかに、翁のいうようにインドの教えは、薪が燃えつきるように、寿命がつきて往生することの道理をいったものである。 そして誤ったこの仏教の教えをしりぞけたり、儒教の道は、天下の根本である中和の道に立って、万物を十分に育てるものであるが、この中国の文事を嫌ったり、またわが国の神代のむかしを崇敬して、後代の人のこじつけをしりぞけるといったことなどは、日本のことや中国のことなどを、ともに十分に知っていなければとてもできるようなものではない。 それができるような人でなければ、この「翁の文」のような内容のことは、とてもいえるものではなかろうと思われた。


 めずらしい書物なのだが、仮名で書かれているため、人がおろそかにして、見すごすのも残念なので、師良の老の愚痴として、このような簡単な序文を書きそえることにした。


 そもそも神・儒・仏の三教とはなにの道であろうか。 誠の道とはなにの道であろうか。 この翁は、いったいなにを深く理解して、健全な肉体にわざと瘡をつけるように、とくに問題のないところにわざわざ問題をもちこもうとするのであろうか。 たしかに道というものは明らかなものではないが、しかしそれもただここ千百年ほどの間にはじまったものではないだろう。 明らかな道も、明らかでない道も、いまやまったく区別なく混沌としている。 ところが、ニ、三人のよき友人たちが、この翁のことを讃嘆してやまない。 またそのうえに、このような蛇足をそえられたのはどうしてなのであろうか。


 わたしは、もちろん翁の名前も知らなければ、その姿形も知らない。 だからなにを讃嘆すればよいのかよくわからない。 ただ、わたしの友人富永仲基が、いままで語り伝えられなかった新しい絶妙の道を発見し、それを人に伝えようと、一生懸命に老婆心をつかっているのがわかるだけである。 それでは、その仲基と翁とで、その道をひろめようとする趣旨が、はたして同じなのであろうか、それともちがっているのであろうか。しかし、もしちがっているのならば、どうしてこの翁に同意して、「わが家の教えにしよう」などとかれがいうのであろうか。 もし同じだというならば、仲基の主張に反することではないだろうか。 世間の人、もしもこの書のなかから、そのすぐれた見識によって、大黄の甘さをかみしめるように、わが身に役立つことを読みとるならば、仲基の序といい、これを翁の序という。もしも妙道を知ろうと思うならば、天辺の月に問いかけ会得することである。 (一七四四年 十月望月 浪華全機居士書す)





< 翁の文 >



 ”この書は、「ある翁が書いたものなのだが」といって、わたしに友人が貸してくれたものである。 このように腐敗堕落した末の世とはいうものの、やはり才知と思慮に富んだ翁はいるものである。 三教の道のほかに、またあらたに誠の道ということを主張し、説き出すようになった。 じっさいこの言葉に従って行動するならば、いかなる過ちにもおちいることはあるまいと、仲基はすぐにこの翁に同意して、そうかたく信じるようになった。 翁の名前はなんというのかとたずねても、わからないというだけで返事がないので、どうにもしかたがない。 むかしの、いわゆる隠棲して自由に時世を批評した隠遁者たちと同類のものであろう。 わが家の教えとして、また人にも伝えたいものだと、その始めから終わりまでを、すべて書き写した。(一七三八年 十一月 伴の仲基写す)


 いま世間では、神・儒・仏の道を三教といって、インド・中国・日本の、それぞれ三国に並び行なわれるもののように考えている。 あるいは三教は一致すると主張したり、またあるいはこれをたがいに批判しあって争い合うということにもなっている。 しかし、本来、道たるべき道というものは、特別のものであって、この三教の道というものも、すべて誠の道というものには、決してかなわない道だということを知る必要がある。 なぜかといえば、仏教はインドの道、儒教は中国の道であり、国が異なるので、これらは日本の道ではない。神道は日本の道ではあるが、時代が異なっているので、今の世の日本の道ではない。


 国がちがっても、時代がちがっても、道は道にかわりがないはずである。 しかし、この道の道と名づけられた言葉の本来の意味は、それが実践されるところから出た言葉なので、実践されない道というものは、誠の道ではない。 だからこの三教の道は、すべて今の世の日本では、実践されていない道だというべきものである。


 僧侶のやることはすべてインドにならったものである。 自分の身を修め、また人をも教化するのだが、とくに梵語をつかって説法などをするものだから、だれもこれを会得したためしがない。 まして調度品から家の造りにいたるまでを、なに一つインドとちがわないようにしようとするが、こんなことは、おもいもよらないことである。 インドでは、片はだをぬぎ合掌するのを礼にかなったものとし、股や膝などがあらわになるのを礼儀正しいこととしている。 だから経典にも、「踝膝露現陰馬蔵」とも書かれているのである。 人の臀部のきたないところまでも、隠さずにあらわしておくのをよいことだとしている。 だから僧侶は、もしすべてをインドにならうなら、このようなことも、他人の思惑を気にしないでやるべきである。


 ”「是我語と雖も、余方に於いて清浄ならずんば、行なわざれば過ちなし。 我語に非ずと雖も、余方に於いて清浄ならば、行なわざるを得ず」と説かれているように、まったくその国の風俗を改めて、インドに学び従えと仏も教えているわけではない。 ところが日本の僧侶は、なにごともすべてインドを見習おうとして、この国にふさわしくないことばかりをやっている。 これらはみな、その道にはずれるものである。 翁はこれをにくんで、嘲弄したものである。”


 また中国では、肉食を主としているから、わが国の儒者たちも牛や羊などを自分で飼育しておき、いつもそれを料理して食べるべきである。 そしてその献立も、『礼記』の内則篇に書かれているものを、よく考えあわせてつくるべきである。 また婚礼のときには、新郎がみずから花嫁を迎えに出るという中国の結婚儀礼である『親迎』を実行するべきである。 祭のときには、尸(かたしろ)をおかなければならない。


 それに儒者は、その衣服なども、深衣と呼ばれるものを着用し、頭には儒者の冠である章甫などをかぶるべきである。 ところが、今の儒者は、身には裃をつけ、髪の毛を総髪にしているが、これなどは中国の儒者の姿ではない。 それに第一、儒者は、中国語の発音によって、中国の文字を使うべきである。 中国語の発音にもいろいろあるが、まず周の時代の魯国の発音を学ぶのが良い。 中国の文字は、その種類が多いので、古文・籀文・科斗などの中国の古代の字体を使用すべきである。


 ”「夷狄に素して夷狄を行う」ともいい、また「礼は俗に従う」とも、あるいはまた「禹は袒して裸国に入る」ともいえば、まったく自分たちの国の風俗を捨てて、中国とそっくり同じように真似をしろと、中国の儒者たちもいっているわけではない。 ところが日本の儒者は、すべてなにごとも中国の風俗に似せようとして、わが国ではとても通用しないことばかりを行なっている。 これもまた真の儒道とは見当はずれのものである。”


 ところで、日本のむかしには、人に向かってかしわ手をうち、四拝するのを礼儀としていた。 また枚手といって柏の葉にご飯をもって食べ、喪のときには歌をうたい、故人を泣きしのび、喪がおわると川に行って祓をしたものである。 神道を学ぶ人は、このようなことを一つ一つ、むかしのとおりによく考えて実行しなければならない。


 今、世間で用いられている金銀や銭というものなども、もともと神代にはないものだったから、神道を学んでいる人は、これらのものを捨てて、いっさい使用しないというのが本当であろう。 また今われわれが着ている衣服も、呉服といって呉の国から伝来したものであるから、これも使用しない方がよい。それにまた、ものをいう場合にも、神代の古いことばをよく覚えておいて、父を「かぞ」、母を「いろは」、爾を「おれ」、衣服を「しらは」、蛇を「はは」、病気を「あっしれる」などと、すべてあらゆるものをみな異なったことばで表現し、自分たちの名前までも、「なに彦」「なに姫の命」と、それぞれ普通とはちがった風につけるべきである。


 ”「左の物を右に移すことなく、右の物を左に移すことなかれ」というのであるから、現在の風俗を変えて、太古のようにすべきだと、神道でもいっているわけではない。 ところが今の神道は、すべて昔のことを手本として、あやしげな、異様なことばかりをしているが、これは、また本来の神道の道にはずれることである。 野々宮宰相公は、「今の神道は、すべて神事ばかりで、誠の神道ではない」といわれたそうである。 まことに今の世の道は、みな神事・儒事・仏事の戯れごとばかりで、誠の神道・儒道・仏道というものではない。 もしもこの「翁の文」と、それに宰相公のことばがなかったならば、仲基もここに指摘されたことに気づかなかったものとおもわれる。”


 このようにいうと、なにか嘲って、嘘言をくりかえしているように聞こえるが、しかし、それぞれの道について学ぼうとする以上、やはり本来ならこうあるべきだという点だけを明らかにしただけである。 これをたとえでいえば、五里か十里ほどへだたっただけの近国の風俗でいえば、それをそっくり真似ることは困難なものである。 それを、ましてや中国やインドといった遠く離れた国の風俗を、そっくり日本でも学び取ろうということは、まったくおろかなことであろう。 また、五年か十年ほど前にすぎ去った近いことでさえ、それを覚えているという人は少ないものである。 ましてや神代のことを、今の世でもそのとおりに真似ようとすることは、すべてまったく実現不可能なことであり、


 たとえそれらをよく学びとって、少しもちがわずに実行できたとしても、みなの納得のゆく、道理にかなったものとして、また今の世に理解しておかねばならないというものでもあるまい。だから、この三教の道というものは、どれも今の日本の世の中で、実践されるべき道としてその必然性をもつ道ではない。 実践されないような道は本来の道ではないから、三教はすべて、誠の道に適した道ではないということを、よく知るべきである。


 それならば、その誠の道、つまり今の日本の世で実践されるべき道とはいったいなにをいうのであろうか。 それは、ただ物事に対しては、その当然になすべきことをつとめ、今現在やっている仕事に生活の根拠をおき、心を素直にし、品行を良くし、言葉づかいを柔らかくし、立居振舞を慎み、親のあるものは、よく親に孝養することである。


 ”翁は次のように自注している、「『六向拝経』を見る必要がある。 それには、もっぱら五倫のことが説かれている。 また儒者も、この五倫を重視している。それに『神令』にも、この五種は載せられている。 だから、こうしたことはこの誠の道が、三教に道にも、欠くことのできないものであることの証拠である」と。”


 また主君に仕えるものはよく主君のために心を尽くし、子供あるものはよく子供を教え導き、臣下のあるものはよくこれを治め、夫のあるものはよく夫に従い、妻のあるものはよく妻をしたがえ、兄のあるものはよく兄をうやまい、弟のあるものはよく弟をあわれむことである。 そして、年老いたものには心をくばって大切にし、幼いものにはいつくしみをかけ、先祖のことを忘れないで、一家の親しめをおろそかにしないことである。


 人と交際する場合にも、心から誠意をつくし、悪い遊びごとをせず、秀れた人を尊敬し、愚かなるものをあなどらず、またわが身にあてはめて考え、悪いことは人にしないことである。 人あたりがするどく、角をたつようなことをせず、ひがんで頑固になることもなく、せかせかとせわしい態度をとらず、怒ることがあっても度を超えず、喜んでもその立場を失わないことである。 楽しみごとにもおぼれず、悲しみごとにも自分を見失わず、なにごとにも十分であろうとなかろうと、みな自分にとって幸いなことであると、そう思って十分心に満足をおぼえることである。


 受けとるべきでないものは、たとえ塵であっても受けとらず、また与えなければならないときは、天下国家であろうとも、それを惜しまず与えることである。 衣食のよしあしも、わが身のほどにしたがって、奢ることもなく、またけちけちすることなく、盗みをせず、偽りをせず、色ごとを好んでも理性を失わず、酒を飲んでもみだれず、人に害を与えないものは殺さず、飲み食いにはつつしみを忘れず、悪いものは食べず、たくさんものを食べないことである。


 ”翁は次のように自注している。、「『瑜迦』に『寿未だ尽くさずして死すは、九種の因縁あり。 一には、食度量に過ぎ、二には、不宜を食す。 三には、消せずして復食う』などと説いている。 『論語』にも、『割正しからざれば食わず。 時ならざるは食わず、多くを食わず』などと説いている。 これは、みな誠の道がどんなものであるか、それを窺い知るうえでの示唆を与えてくれるものである」と。”


 暇な時間のあるときは、自分の身にとって有益な学芸・学問を学んで、賢明になるようつとめることである。


 ”翁は次のように自注している、「『論語』に『行い余力あれば則ち以て文を学ぶ』ともいい、また『律』に、『差次会等を知らんがために書を学ぶ。 新学の比丘は、算法を学を開す』ともいっている。 これもまた、誠の道を知るうえで参考となるものである」と。”


 今の文字を書き、今のことばをつかい、今の食物をたべ、今の衣服を身につけ、今の調度をもちい、今の家に住み、今の習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、いろいろな悪いことをせず、いろいろとよいことを実践するのを誠の道ともいい、それはまた、今の世の日本で実践されるべき道だともいえるものである。


 ”これらのことは、すべて儒・仏の書物に説きふるされたことであって、いまさら格別にいうべきほどのものではないが、いま翁が、こうして新しく自分がはじめて言い出したように説明し、不必要なことはいっさいいわず、直接その誠の道というものを指示した志というものは、まことに尊敬に値するものである。”


 ところで、この誠の道というものは、そのもとはインドから来たものではない。 中国から伝来して来たものでもない。 また神代のむかしにはじまって、今の世に習い伝えられたものでもない。 天から下ったものでもなければ、地からわき出たものでもない。 ただ、いま生きている人のうえに照らして、このようにすれば人も喜び、また自分もこころよくて、はじめから終りまでさしつかえるところもなく、すべてがよく治まるというところから生まれたものである。


 また、このようにしなければ、人もこれを憎み、自分もこころよくなく、ものごとに支障がふえて順調にゆかないことばかりが多くなるので、どうしてもこのようにしなければならないという、ごくあたりまえの人のなすべきところから出て来たのが、この誠の道である。 だからこれは、人がとくに頭をひねって、かりに作り出したというものではない。 だから今の世に生まれ出て、それが人間として生まれたものならば、たとえ三教を学んだ人だといっても、この誠の道をすてて、一日として人間らしく生きることはできないはずである。


 だから、この誠の道をすてて、別に新しくなにかの道をつくり出すことのむつかしい証拠は、釈迦も五戒を説き、十善を説き、また貪・瞋・癡の三つを三毒と名づけ、「父母に孝養し、師長に奉事する」ことを三福の一つに教え、「諸悪莫作、衆善奉行、自らその意を浄む。 これ諸仏の教」とも説かれていることである。


 孔子も、「孝弟忠恕」を説き、「忠信篤敬」を説き、「知・仁・勇」の三つを三徳と名づけ、「怒を懲し慾を塞ぎ、過を改め、善に遷る」とも説き、また「君子は担にして蕩々、小人は長にして戚々」とも説かれている。


 また神道の人も、清浄・質素・正直と説いている。これらはみな、誠の道にもかなった、深い洞察にもとづく言葉である。 これによって、道理にかなったものは、すべて相通じ合う内容をもつものだということがいえるだろう。 だから三教を学ぶ人も、この点だけはよく心にとどめて、道理にはずれるあまり感心のできない、異様なことばかりをしていないで、人の世にまじわって、普通にこの世をすごすならば、それはすなわち、誠の道を実践する人だということができるだろう。


 ”この第八節で、翁も自分のもっとも言いたく思っていることを言いあらわしている。 完全に三教の道をすてようとするのではない。 ただ、その誠の道を少しでも実践させようとするだけである。”


 しかしながら、ここに翁としてのわたしの主張が一つだけある。 それはおよそ古代以来、道について説き、法をたてようとするものは、必ずそれぞれの主張に対して、それ以前の誰かを祖にかこつけ、そのものの主張することよりも、さらに秀れたことを述べようとする。 これは、非常に歴然とした傾向なのだが、後代の人はみなこの事実を知らず、そのため幻惑されるのである。



( 富永仲基 二十四歳 )