< 戦争は体験しない者にこそ快し >


〜 エラスムス 〜







 人々の怨嗟のまとである罪深い戦争と、人々がこいねがう至福の平和とを比較すれば、一方の平和は、いとも気軽にこれを手に入れることができるというのに、他方、戦争のほうは、苦労をかさね、金銭を費やし、危険を冒し、災厄をもかえりみずに、敢えてこれを遂行しようというのである。愚の骨頂であることは、火を見るより明らかではないか。


 いったい、この世に友愛よりも甘美で心地よいものがあるだろうか。そして、平和とは、多くの人々の相互の友愛より以外の、いったい何物でありえようか。それにひきかえ、戦争とは、世の中に広く蔓延する不和そのものなのである。善は、世に広まれば広まるほど、その善性を発揮するのであるから、私たちひとりひとりの人間のあいだの友情が心地よいとなれば、国と国とがこの友情で結ばれた場合の私たちの幸福は、いかばかりであろうか。反対に、悪徳は、世に瀰漫すればするだけ、そのおぞましい汚名にふさわしくなるのであるから、私たちのひとりひとりが武器を手に戦い合うのが罪深いとなれば、何千何万という人間が集まって戦う場合の私たちの不幸は、いかばかりであろうか。手を携えておこなえば、取るに足りぬことも偉大になる。反目していると、偉大なことも瓦解してしまう。


 平和は、あらゆる善をはぐくむ慈母である。それにひきかえ戦争は、およそ美しいことや讃えるべきことを一瞬のうちに破り壊ち、レルネの沼の悪徳の汚穢を人々のあいだに撒き散らす。平和の時には、人々の暮らしの中に、あたかもかぐわしい春が咲き匂う。畑は耕され、庭は緑に茂り、家畜は肥え、都市には建築が相次ぎ、崩れた館は修復され、また飾り立てられる館もあり、財貨は満ちあふれ、快楽はいや増し、法令は遵守され、市政にとどこおりなく、信仰心は厚く、正義はゆきとどき、市民生活は活気をはらみ、手工業は発展し、貧民も職に困ることなく、金持ちはますます贅をこらす。学芸は進歩し、青年が学業に精を出し、老人は静かな老後をたのしみ、娘たちは祝福されて結婚し、「夫に似た息子をもうけたとして讃えられる」。意気盛んな者たちはますます栄え、意地悪な者たちも悪事をつつしむ。


 しかし、戦争という暴風がいったん吹きすさび出すと、不幸がそこかしこにあふれ出し、あらゆるものに襲いかかるのだ。家畜の群れは盗み去られ、収穫物は踏みにじられ、農民は虐殺され、農場は放火され、何世紀にもわたって営々と築き上げられた栄華の都市も、戦争という嵐の一吹きで壊滅する。善をおこなうのにくらべて、悪をなすのはかくもたやすいことなのである。市民の貯えは、野盗や暗殺者の手中に帰す。家族は恐怖にうちふるえ、みな、悲しみと嘆きに満たされる。職人たちは仕事を失い、貧民たちは食を絶たれ、悪事に走らざるをえなくなる。金持ちたちは、財貨が奪われたといっては嘆き、残った宝物が盗まれないかといって恐れ、いずれにせよ心の静まる暇がない。娘たちには、もう心に染まぬ結婚しか機会がない。妻たちは見棄てられて、家に中でくちはててゆく。法律は口をつぐんで語らず、市民生活はないがしろにされ、正義はその逃げ場にまどい、信仰は笑いとばされ、もはや聖なるものを俗事と分かつ基準とてない。青年たちはあらゆる悪徳に染まって堕落し、老人たちは打ち棄てられて、長生きが過ぎたと呪う。学芸を顧る者とてない。つまり、戦争にあっては、誰がこれを描こうと試みても、決して言葉につくせぬほどの、辛酸をなめなければならないのだ。いわんやこの私ごときには、決して描き切ることができない。


 しかしながら、たとえ戦争に加担したからといって、私たちが単に不幸をなめるだけで、穏やかな気性や敬虔な心根を万が一にも失わずにすむというものなら、・・・またもし平和だからといって、私たちがただ幸福を楽しむだけで、徳性の涵養を絶対に心掛けぬというものなら、その時は仕方がない、先にあげつらねた戦争の災厄といえど、私たちはこれを耐え忍ぶにやぶさかではないであろう。が、実情はまさにその反対であって、それゆえに戦争を試みるのは罪悪なのである。





 ああ、私たちの望むと望まざるとにかかわらず、この世にはすでに十分な数の災厄がひしめいて、うちしおれた人間たちを悩まし、苦しめ、責めさいなんでいるではないか。二千年の昔、医家はとうに無慮三千にものぼる疾病の名を書き記し得たものであったが、さらに今日でも、そのリストには日々新しい病名がつけたされている。不治の病である老衰の名をこれに加えることもできる。


 他方、古今の典籍に管見のおよぶかぎりでも、幾多の都市が地震のために崩壊し雷火によって焼尽し、堅牢な大陸が大地の変動のために海中に没し、強固な城塞が土台を野兎の穴に穿たれて倒壊している。


 人間もまた例外ではない。日常茶飯事の災難に見舞われて多数滅び去っているのであって、津波、洪水、雪崩、家屋の倒壊はいうにおよばず、あるいは毒殺され、あるいは寝首を掻かれ、一人が転落して落命すれば、また一人は猛獣に襲われて命を失い、食べ物や飲み水にあたる者まであらわれる始末、はては牛乳にまじった毛のかたまりや、急いで食べた葡萄の一粒にむせてはかなくなくなったり、魚の骨を喉にひっかけてこときれたり、その例は枚挙にいとまがない。のみならず、重い苦悩を耐えかねて往生するなら驚くにはあたらないが、吉報に接して喜びのあまり成仏してしまう場合もある。最後に、地上のそこかしこ、ほぼいたる所で猖獗をきわめている疫病については、今さら言をまたない。


 つまり、私たち人間の命は、それ自体ですら転(うた)たはかないものであるのに、ゆくさきざきで各種の災難にねらわれてもいるのである。ただ、こうした災厄というものは、比較的容易にこれを避けることができ、また私たちの責任のおよぶかぎりではないから、私たちを単に不幸におとし入れるばかりで、それがため私たちの徳性がそこなわれるわけではない。とはいえ、大変な数の災難である。これを眺めてホメロスが、人間こそ生きとし生ける者のうち悲惨をきわめた存在である、と喝破したのも故なしとはしない。


 その当の人間が、これでもまだ数に不足があるとばかりに、さらに今ひとつ、別の災難を我が身に招こうとするのは、いったいなんのためなのであろうか。しかもこのたびの災難たるや、どこにでも転がっているという代物ではなく、あらゆるもののうちでも、とりわけおぞましい災難なのである。剣呑至極、ただそれのみで他のすべてを凌ぎ、変幻自在、他のすべてを兼ねるこの災難こそ、まさに戦争の謂いであって、人間を不幸の淵に沈めるのみならず、背徳の獣にもおとしめるほどにもまがまがしく、また、心ならずも巻き込まれて呻吟する一部の人たちを除いて、他の人間を、惨めではあるが一片の同情心さえ催させぬ責苦の境涯に突き落とすほどにも忌まわしい。


 読者諸君よ、どうか考え併せていただきたい。平和はだれかれを問わずゆきわたり、あまねくその恵みをもたらすものである。これに反して、戦争の渦中に何ら見出せる道理のありようとてないが、仮にもし何か恵みなり幸福なりが生じるものだとすれば、それはごく限られた少数の不逞の徒輩をしか利さないのではあるまいか。一人が命を全うしても、他は滅び去る。一人が財貨を手にしても、他は貧困にあえぐ。一人が勝利を誇っても、他は喪に服さなければならぬ。ただし戦争の不幸は残忍で、戦争の幸福もまた酷薄であって、たとえばカドモス流の勝利のあとでは、敵味方の双方が悲しみに打ちのめされるではないか。戦いのはてたのち、勝利を得た者がしばし我に帰り、後悔の臍を噛まずにすんだような幸福な戦争が、かつて一度でもあったかどうか、私は詳かにしない。


 平和は、人間のあらゆる企てのうち、最も尊くまた心地よく、反対に戦争は、最も嘆かわしくまた忌まわしいのである。だから、平和の実現のためには一切の労を惜しむくせに、戦争と聞いたら万難をも排して遭遇するような者なぞ、私には正気を逸しているとしか考えられないのであるが、いかがなものであろうか。





 さて、戦争の噂が流れたとしてみよう。それだけで私たちの心は重苦しく翳る。王公とて、戦費調達に重税を課さねばならず、民の不評を蒙むらざるを得ない。その上、新規に兵士を集めてこれに調練を施したり、さらに異国からも傭兵を募り軍隊を招かねばならないのだから、何という気苦労であろう。艦隊を整え、城砦や堡塁を設け、常時これらを整備しておくのみならず、宿営のテントや兵士の背嚢を誂え、武具や弓矢や兵車のたぐいを制作させ、糧秣まで購入せばならないのだから、何という用心であり散財であろう。城壁を巡らし、堀を浚い、塹壕を穿ち、夜も歩さを立て、衛兵を配置し、あらかじめ演習まで重ねて備えなければならないのだから、何という骨折りであろう。


 しかも私は、これでもかんじんの恐怖や危険のことには、敢えて口をつぐんでいるくらいなのだ。戦争と聞いて、恐れずにすむことがあれば、どうかご教示願いたい。


 兵士たちについても、宿営地で送る生活につきものの苦労の数々を、いったい誰がすべて数え上げることができよう。もっともこれら浅慮の兵士たちは、みずから進んでこうした生活に首を突っ込んでいるのだから、さらにひどい苦痛を強いられて当然と言えるのだろうが、それにしても、キプロス島の牛でさえ口にするのを拒むような糧食や、糞便にたかる糞虫でさえ顔をそむけるような寝床はもとより、睡眠も滅多にとれないし、とれたとしても自分の望む時というわけではない。宿営のテントは四方八方からの風にもてあそばれるのだが、そのテントさえ事欠く場合がある。くる日もくる日も、野天を駆けずりまわり、地の上に臥せ、固い鎧に身をこわばらせ、飢えと寒さと暑さと雨と埃を耐えねばならない。その上、上官の命には絶対服従、時に罰として鞭もくらう。いったい、これらの兵士たちより酷い境涯にあえいでいた奴隷が、かつてあっただろうか。さらにそれ以外でも、兵士たちの場合は、敵を残忍に殺したり、あるいは不運にも自分が殺されたりすることになるのだから、不吉な死の影に運命づけられてもいるのである。これほどの苦痛を耐え忍んだ挙句の果てが、この上なく惨めな事態に立ち至るためであるとは。これほどの辛酸を嘗めたとどのつまりが、同じ苦しみを他人にも味わわせるためであるとは。


 いったい戦争には、またそれと反対に平和には、どれほどの費えが必要となるのであろうか。すべての事情を考慮に入れ、これを厳密に商量すれば、戦争に要する十分の一の面倒と苦痛と恐怖と危険と出費と流血とで、たやすく平和は達成されてしまう、という結論が得られるに違いない。ひとつの堅城を抜くために、大勢の人間を危地におもむかしめる。だが、それだけの労を払うのであれば、けっして危険な目に遭うこともなく、はるかに立派な城館をひとつ建てられるのだ。敵に損害を与えたいのだと強弁する。だが、その考え自体がすでに非人間的なのだ。自分の兵士を損なうことなく、敵を損なうことができるものかどうか、まず考えていただきたい。勝利を得ることが不確実であるというのに、確実に蒙るとわかっている不幸のほうを選ぶなど、私には狂気の沙汰としか思われないのである。