< 仏教と貧乏 >



 貧乏が不仕合せだということは、ほとんど説明の必要もあるまいと考えらるるが、不思議にも古来学者の間には、貧乏も金持ちもその幸福にはさしたる相違のないものであるという説が行なわれている。大多数の諸君の知らるるごとく、アダム・スミスは近世経済学の開祖とも称さるべき人であるが、氏が今より百五十余年前(1759年)に公にした『道徳感情論』を見ると、氏は次の如く述べている。


『・・・肉体の安易と精神の平和という点においては、種々の階級の人々がほとんど同じ平等にあるもので、たとえば大道の側で暖曝(ひなたぼこ)をなしつつある乞食のもっている安心は、もろもろの王様の欲してなお得るあたわざるところである』


 ただいま嵯峨におらるる間宮英宗師は禅僧中まれに見る能弁の人でもあるが、その講話集の中には次のごとき話が載せてある。前に揚げたアダム・スミスの一句の註脚ともみなすべきものゆえ、これをそのまま下に借用する。

「昔五条の大橋の下に親子暮らしの乞食が住んでいました。もとは相応地位もあり財産もあった立派な身分の者でありましたが、親爺が放蕩無頼に身を持ち崩したため、とうとう乞食とまでなり果てて今に住まうに家もなく、五条の橋の下で貰い集めた飯の残りや大根の尻っぽを食べて親子の者が暮らしていたのであります。ところがちょうどある年の暮れ大晦日のこと、その橋の上を大小さして一人の立派なお侍が通りかかった、するとそこへまた向うの方から一人の番頭風の男がやって参りまして、出逢いがしらに、『イヤこれは旦那よい所でお目にかかりました』と言うと、そのお侍は何がよい所であろうか飛んだ所で出会わしたものだと心の内では思いながらも致し方がない、たちまち橋の欄干に両手を衝いて、『番頭殿じつもって申しわけがない、今日という今日こそはと思っていたのだけれども、つい意外な失敗から算当が狂ってはなはだすまぬけれども、もう一ヶ月ばかりぜひ待ってほしい』というのを、番頭はうるさいとばかりに、『イヤそのお言いわけはたびたびうけたまわってござる、いつもいつも勝手なご弁解もはや今年で五年にも相成りまする、今日という今日はぜひお勘定を願わなければ、そもそも手前の店が立ちゆきません』と威丈高になって迫りますと、『イヤお前の言うところはまったく無理ではないが、しかし武士ともあるものがこのとおり両手を突いて平にあやまっているではないか、すまぬわけだが今しばらくぜひ猶予してもらいたい』としきりに詫び入る。これを橋の下で聞いていた乞食の倅が、さてさてお侍だなんて平生大道狭しと威張っていくさるくせに商売風情の者に両手を突いてまであやまるとはなんとした情けない話であろう、いくら偉そうに威張っていたところで債鬼に責められてはあんな辛い思いもせなければならぬとすればつまらない、それを思うとわれわれの境界はじつに結構なものだ、借金取りがやって来るでもなければ、泥棒のつける心配もない、風が吹こうが雨が降ろうが屋根が洩る心配も壁が壊れる心配もない、飢えては一椀の麦飯に舌鼓をうち、渇しては一杯の泥水にも甘露の思いをなす、いわゆる


 一鉢千家飯 孤身送幾秋

 冬温路傍草 夏涼橋下流

 非色又非空 無楽復無憂

 若人問此六 明月浮水中


で、思えば自分らほど呑気な結構なものは世間にないと独言を言うて妙に達観していると、倅の側で半ば居眠りをしていた親乞食が倅がかように申しますのを聞いて、むっくと起き直り、『これ倅、そんな果報な安楽の身にいったいお前はだれにしてもろうたのか、親さまのご恩を忘れてはならんぞ』と言うたというお話がござります」


「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざり、ぢっと手を見る」という連中が、この講話を聞いてはたして自分らほど果報な者は世にないと思うに至るであろうか、どうか。たとい彼ら自身はそう思うにしても、われわれははたして彼らを目して世に果報な人々とするべきであるか、どうか。それが私の問題とするところである。






 五条河原の乞食の話は、話ぶりがあまり巧なので、ついそのまま転載さしてもらう気になったが、もし私の記憶が間違っていなければ、かの大燈国師のごときも同じく五条の橋の下でしばらく乞食を相手に修養をしておられたので、そのときの作になる


 ”座禅せば四条五条の橋の上ゆき来の人を深山と見て”


という歌は有名なものだということであるが、さてここに注意しなければならぬのは、大燈国師のような偉い人ならばこそ、乞食の真似をしていてもよいけれども、われわれごとき凡人だと、孟子のいわゆる民のごとき恒産なくんばよって恒心なしで、心も魂も堕落こそすれ、とても明徳を明らかにするという人生の目的を実現する方向に進めるわけのものではない、ということである。そこで同じ貧乏を論ずるにつけても、自発的の貧乏すなわちみずから選択して進んで取った貧乏と、強制的の貧乏すなわちやむをえず強制的に受けさせられている貧乏との区別を十分にしてかからねばならぬ。そうして私のここに論ずるところは、もちろんやむをえず強制的に受けさせられている貧乏のことである。


 叙してここに来たるとき、私はハンター氏の『貧乏』の巻首にある次の一節を思い起こさざるをえない。

「私は近ごろウィリアム・デーン・ホゥエルスに遇うてトルストイを訪問したことを話したら、氏は次のごとく述べられた。『トルストイのしたことはじつに驚くべきものである。それ以上をなせというは無理である。もっとも高貴なる祖先を有する一貴族としては、遊んでいて食わしてもらうことを拒絶し、自分の手で働いてゆくことに努力し、つい近ごろまでは奴隷の階級に属していた百姓らとできうるかぎりその艱難辛苦を分かってゆこうとしたことが、彼のなしあたうべき最大の事業である。しかし彼が百姓らとともにその貧乏を分かつということは、これは彼にとってとうてい不可能である。なぜというに、貧乏とはただ物の不足をのみ意味するのではない、欠乏の恐怖と憂苦、それがすなわち貧乏であるが、かかる恐怖はトルストイのとうてい知るをえざるところだからである』・・・」


 げに露国の一貴族としてのその名を世界に馳せしトルストイにとっては、自発的貧乏のほか味わうべき貧乏はありえなかったのである。


 遠く遡れば、むかし慧可大師は半臂を断って法の求め、雲門和尚はまた半脚を折って悟りに入った。今かかる達人の見地よりせば、いわゆる道のためには喪身失命を辞せずで、手足なお断つべし、いわんやこの肉体を養うための衣食のごとき、場合によってはほとんど問題にもならぬのである。しかしかくのごときは千古の達人が深くみずから求むるところあって、みずから選択して飛び込んだ特殊の境界である。もしわれわれ凡人が下手に悟って強いて大燈国師の真似をして、相率いて乞食になったり、慧可雲門にならって皆が臂を切ったり脚を折ったりした日には、国はたちまちにして亡びてしまうであろう。

 思うに貧乏の人の身心に及ぼす影響については、古来いろいろの誤解がある。たとえば艱難汝を玉にすとか、富める人の天国にゆくは駱駝の針の穴を通るより難しとかいうことなどあるために、ややもすれば人は貧乏の方がかえって利益だというふうに考えらるる傾きがある。古い日本の書物にも、『金持ちほど難儀な苦の多きものはない、一物あれば一累を増すというて、百品持った者より二百品持った者は苦の数が多い』など言うてあるが、現に一昨々年(1913年)にはスイス国でいちばん金持ちであった夫婦が、つくづく何の生き甲斐もない世の中と感じたというので、二人が一緒に自殺を遂げたこともある。だから人間というものは心の持ちよう一つで、場合によっては大小さして威張っている侍よりも、橋の下に眠っている乞食の方がかえって幸福だ、というような説も出るのであるが、私だって金持ちになるほど幸福なものだと一概に言うのでは決してない。しかし過分に富裕なのが不仕合せだからといって、過分に貧乏なのが不仕合せだとはいえぬ。繰り返して言うが、私のこの物語に貧乏というのは、身心の健全なる発達を維持するに必要な物資さえ得あたわぬことなのだから、少なくとも私の言うごとき意味の貧乏なるものは、その観念自身からして、かならずわれわれの身心の健全なる発達を妨ぐべきものなので、それが利益となるべきはありえないのである。



(貧乏物語)