< 難 破 >










「なんと恐ろしい話だ! 船の旅ってのはそういうものなのかい? 船に乗ろうなんていう考えをこんりんざい起こさないよう、神さま、よろしく願い上げますわい」


「いやどうしてどうして! いままで話したことなぞ、これから君が聞くことに比べたら、ほんのお遊びていどのものさ」


「災禍逆運の話はもういやというほど聞いたぜ。君が話してくれるのを聞いていると、まるで自分が危険の真只中にいるみたいに、ぞくぞく震えがくるよ」


「ところがおあいにくさま、僕にとって過ぎ去った苦しみは楽しいものでねえ。その同じ夜のことだが、ある事件が起こって、そのために船長は、救われる望みはもうほとんどないと観念したんだ」


「そりゃまたいったい、どんな事件だい? 話してくれ」


「夜は仄明るかった。まんなかのマストのてっぺんにはひとりの水夫が、たしかあれは見張り座と呼ばれる場所に身構えて、いずれかに陸地は見えないものかと、四方に抜かりなく目を配っていた。すると忽然とそのかたわらに火の玉が現われた。水夫たちにとって、火の玉が一つだけだと大凶の徴、二つだったら大吉の徴なんだ。古代人はこれをカストールとポルックスだと信じていたものだ」


「あのふたりと船乗りとどんな関係があるんだい? 一方は馬術の名人、もう一人は拳闘の達人じゃないか?」


「詩人たちがそう想像したんだよ。舵をとっていた船長は、『お〜い仲間!』と叫んだね。船乗りたちはお互いにこう呼びかけるんだな。『お前の脇にいるお連れさんが見えるかよおう!』。『見えるぞおう!』と相手は答えた。『上々吉だといいがのおう!』。するてえと、火の玉が綱具伝いに落ちて来て、船長の足もとまでごろごろ転がって来たんだ」


「それで、船長はびっくり仰天、息に根が止まったんじゃないか?」


「船乗りたちは天変地異に馴れっこになっているんだ。例の火の玉は、そばらくその場にじっとしていたが、やがて船の縁をまんべんなく転げ回り、中央の昇降口から下へ落ち、消えてなくなっちまったんだ。ところがちょうど昼ごろになるてえと、時化がこれでもかこれでもかとばかり激しくなってきた。君はアルプスを見たことがあるかね?」


「あるとも」


「あの高山だって海の波浪と比べりゃ疣(いぼ)みたいなものだ。波頭に乗ったときには、指先で月にさわれそうな按配だし、低く落ちこんだときには、海底がぱっくり口を開いて、僕らはそのまままっすぐ地獄の底まで行っちまうんじゃあるまいかと思ったな」


「海なんぞ信用するやつは、とんだ気違いだな!」


「水夫たちは必死で嵐に立ち向かったが、その甲斐もない。船長は顔面蒼白、ついにわれわれのほうへ歩みよった」


「顔面蒼白というからには、なにかとんでもない不運の知らせだな!」


「『皆の衆よ』と彼は口を開いたな。『本船はもはやわたしの言うことを聞かなくなりましたぞ。風の勝ちですわ。残された道はただひとつ。われらの希望を神にかけ、おのがじしいまわの覚悟をきめるほかござらん』」


「そりゃまた掛け値なし、スキュタイふうの(非情な)演説だなあ!」


「『さはさりながらなにを措いても』、と彼は続けたんだ。『船の荷を軽くせねばなりませぬ。必死の、非情の矢がかく命ずる次第でござる。財産もろとも滅び去るよりは、財産を捨てて生命を救うに越したことはござるまい』。このもっともな意見に一同は納得した。高価な商品でふくれあがった荷物が、つぎつぎと海に投げ込まれたぜ」


「それこそまさしく涙をのんでの海上投棄というなつだ!」


「同船の客にひとりのイタリア人がいた。この男はスコットランド王のもとに教皇特使として派遣されていたんだが、銀の食器や指輪や布地や絹の衣装をしこたま詰めた櫃を船に持ち込んでいたわけだ」


「そいつが海と妥協するなんざまっぴらごめんと強情張ったのか?」


「そうじゃない、かわいい自分のお宝といっしょにお陀仏になるか、それともいっしょに助かりたいというのさ。そこでやつは文句を並べたてた」


「船長はどう出たかね?」


「『われらとしては』と言ったね、『貴殿が持物もろともひとりで死んでくださる分にはなんら異存はござらぬ。だが、貴殿の櫃ゆえにわれらすべてが危殆に瀕するは、まことにもって道理に悖ると心得る。むしろわれらは貴殿ならびに貴殿の櫃を、海中に投ずる所存なれど、いかに思し召さるるや?』」


「う〜ん、あっぱれ船乗りらしいことばだなあ!」


「そこでさすがのイタリア人も、荷物を海に投じたが、おのれの命をこんな野蛮な元素に預けたとは、なんたるどじを踏んだものかと、天やら地獄やらに向かってさんざっぱら悪態ついていたっけ」


「いかにもイタリア人の言いそうなことだ」


「それから間もなく、われわれの贈物にもてんで怒りをやわらげない強風は、綱具を断ち切り帆を引き裂いてしまった」


「ああ!なんたる災難だ!」


「すると船長がふたたびわれわれのところへやって来た」


「演説するためだな?」


「彼は敬礼をして、『皆の衆よ』と呼びかけた。『神のご加護を各自願い奉り、死出の旅路につく覚悟をきめるべきときがまいりましたぞ』。船旅にいくらか通じている乗客が、あと何時間ぐらい船を安全に保てると思うかと尋ねると、彼は答えて曰く、『なにひとつお約束するわけには参らぬが、とにかく三時間以上はとても無理だ』」


「こりゃ最初の演説より一段と厳しいものだな」


「さて、こう語り終わった彼は、あらゆる綱具を切断し、マストを根元から切り倒して帆桁もろとも海に投げこめと命令したんだ」


「そりゃまた、どういうわけだ?」


「帆が吹き飛ばされたり引き裂かれたりした以上、マストは無用の長物になったからさ。われの希望はひたすら舵だけにかかっていたんだ」


「そのあいだお客のほうはどうしていたんだろう?」


「君はあの場にいたら、われわれがなんともあさましい場面を演じるのを目撃しただろうな。水夫たちは『めでたし元后』と唱い、聖母にお助けを懇願し、彼女のことを、やれ『海の星』だの、やれ『天なる女王』だの、やれ『世界の女主人』だの、やれ『救いの港』だのと呼び、そのほか聖書のどこを探しても見あたらない称号をやたらと奉ってお追従を並べたてていたっけ」


「マリアと海とどんな関係があるのかね? たしか彼女は一度も船旅などしたことがないと思うがね…」


「昔はウェヌス水夫たちの守り神だったんだがな。海から生まれたと信じられていたからね。ところが水夫たちの面倒をみることを彼女がやめてしまったので、この処女ならざる母の役を聖母が引き継いだわけさ」


「冗談言うなよ!」


「ある者は甲板に平伏し、ある者は海を三拝九拝してやみくもに油を波間に流し、僕らが立腹した君公にたいしてよくやるとおりのおべっかを使っていた」


「『おお、いと情け深き海よ! おお!いと寛大なる海よ! おお!いと豊かなる海よ! おお!いと美しき海よ! 静まりたまえかし! われらを救いたまえかし!』。つんぼの海に向かって、彼らはそのほかやたらと御託を並べていたぜ」


「ばかばかしい迷信だなあ! ほかの連中はどうだった?」


「ある者はただもうげろげろ吐き続けていたが、大方は願をかけていたな。イギリス人が乗っていたが、こいつはウォルシンガムの聖母に、生きて陸地にたどり着けたら黄金の山を奉納し奉ると約束していた。こちらではしかじかの土地にある十字架の切れ端に、盛りだくさんな約束をしているかと思えば、あちらではかくかくの土地にある、これまたまったく同じ十字架の切れ端に約束をしている。いろいろな土地に君臨している処女マリアにたいしても、まったく同じことだったぜ。やつらは場所をはっきり指定しておかないと、願を掛けても効能がないと思いこんでいるんだな」


「滑稽千万だ! 聖者は天国に住んではいないとでもいうのかねえ」


「カルトゥジオ会に入信いたしますると誓うやつがいるかと思えば、コンポステラにお住いの聖ヤコボさまで、裸足で、帽子もかぶらず、鉄の鎧以外は身につけず、そのうえに乞食をしながらお参りいたしますると約束するものもいたな」


「クリストフォルス上人のことはだれも思い出さなかったのかい?」


「ひとりの男が、聞こえないと困ると思ったんだろう、やけに大声を張り上げて、パリの最高の寺院にある聖クリストフォルスの石造・・・その石像というよりは山みたいにでかいしろものだがね・・・その石像に、石像の背丈と同じ大きさのろうそくを奉納いたしますると約束しているのを聞いた時には、思わず吹き出しちまったよ。こいつが同じ約束をなんどもなんどもくり返し、咽喉も裂けよと怒鳴り散らしているものだから、ちょうど隣にいた顔見知りの男が、肘でつついてこう注意したものだ、『ちょいとお前さん、なにを約束してるか、とっくりと考えてみな! お前さんの財産をすってんてんになるまで競り売りしたところで、とても間に合わないぜ!』。すると相手は声を低めて・・・そうすりゃむろんクリストフォルス上人に聞かれないですむさね・・・『うるさいぞ、とんちきめ!』と言ったな。『おいらが本気で喋ってると思ってるのか? 陸地に足がついてみやがれ、おいらは脂を塗った紐一本やる気はねえんだ!』」


「とんだ抜け作だな! たぶんバタヴィアの男だろうが?」


「いや違う。ゼラントの人間だった」


「だれも使徒のパウロを思い出さなかったのは不思議だなあ。あの人はその昔船で旅をして、その船が難破すると陸地に打ち上げられたことがあるんだぜ。不運と無縁でないあの人なら、災難にあった人々の救い方を知っていたのに」


「パウロはだれも問題にしなかったな」


「そのあいだじゅう、お祈りをしていたのかい?」


「われ先に祈っていたとも! ある者は『めでたし元后』を唱い、ある者は『われ神を信ず』を誦えていた。なんだか魔法の呪文にそっくりな、珍妙な延命息災厄払いの祈りをあげている連中もいたっけ」


「苦しい時の神頼みか! 万事順調な時には、神も聖者もとんとわれわれの念頭に浮かばないものだ。ところで君はそのあいだどうしていた?だれか聖者に願を掛けていたのかい?」


「とんでもない!」


「そりゃどういうわけだ?」


「聖人たちと取引するなんざ性に合わないからさ。『くださるならお返しを差し上げましょう』とか、『あれをしてくださるならわたくしもこれをいたしましょう』とか、『泳ぎつけたらろうそくを献上しましょう』とか、『助けてくださったらローマへ巡礼いたしましょう』とか、まったくの話がそういったことばで取り交わされる契約以外のなにものでもないじゃないか」


「しかし聖人の守護を祈りはしたろうが?」


「それさえしなかった」


「いったいどうしたんだい?」


「天国は広大無辺だからさ。僕がだれか聖人にご加護を頼んだとしよう。たとえば聖ペテロでもいい。彼は天国の門に頑張っているんだから、たぶんまっ先に僕の声を聞きつけるだろう・・・その彼が神に面会しに行って、僕の件について説明する前に、僕の方は死んでしまうだろうよ」


「それじゃいったいどうしたんだい?」


「直接、父なる神に呼び掛けたんだ。『天にましますわれらが父よ』とね。どんな聖者だって彼ほど早耳じゃないし、彼ほど喜んで願いを聞きとどけてくれないぜ」


「しかし、そういうふるまいに及んだ時、君の良心は君を責めなかったのかい?かずかずの罪で汚したおかたを『父』などと呼んで、君は恐ろしくなかったのかねえ」


「ほんとう言って、良心がちょっと思いとどまらせようとしたな。だけど僕は、心中こう考えて、たちまち勇気を取り戻したんだ、『どんなに怒っている父親だって、わが息子が急流や潮にのまれる危険に陥っているのを見たら、髪の毛をひっつかんでも岸に引き上げようとするだろう』とね。ところで、われわれぜんぶのうちで、だれよりも沈着な態度を示したのは、胸に幼児を抱いていて乳を飲ませていた一女性なんだ


どんなふうだったのかい?


彼女だけが悲鳴も上げず涙も流さず、願を掛けることもせず、わが子をしっかり抱きしめて、だた静かに祈っていたんだ。そのあいだにも船はひっきりなしに浅瀬に突き当たる。ばらばらに分解しそうだと恐れた船長は、みよしから艫まですっかり綱をかけて縛った」


「情けない防備だなあ!」


「そうこうしていると、六十がらみのアダムスと呼ばれる老僧がすっくと立ち上げり、着ているものをかなぐり捨てて肌着一枚になり、靴下や靴まで脱いだかと思うと、われわれに向かって、拙僧同様ひとり残らず泳ぐ用意をされい、と命令したな。それから船のまんなかに仁王立ちになって、ジェルソン師による告解の有益性にかんする五大真理をわれわれに説教し、各自生きる覚悟、死ぬ覚悟をともに固めよと励ました。たまたまドミニコ会の修道士もひとり乗り合わせていたので、希望者はこの二人に告解したわけだ」


「君はどうした?」


「大混乱の一部始終を見ながら、静かに神にたいして告解したよ。神にたいするわがあやまちをみずからに責め、神のお慈悲を乞い奉ったんだ」


「その場で死んだとしたら、君はどこへ行っただろうかね?」


「そういうことは神の裁きにいっさいお任せしておいた。自分で自分の裁き手になぞ、なりたくなかったからなあ。しかし僕は、一貫して心に明るい希望を抱いていたんだ。さて、そうしているうちに、船長が涙を浮かべてわれわれのほうへ戻ってきた。『皆の衆よ』と彼は呼びかけたな。『覚悟なされい。あと十五分ほどで船はいけなくなりますよってな』。実際、彼の言うとおり船は数か所に裂け目ができて、海水が侵入していたんだ。それからちょっとたって、ひとりの水夫が、遠くに教会の鐘楼が見えるとわれわれに知らせてくれた。そして、その教会がどの聖者の保護のもとにあるかはわからないが、とにかくその聖者のご保護に祈ったっけ」


「その聖者の名前でちゃんと呼んだら、たぶん君たちの祈りが聞こえたろうになあ」


「それがわからなかったんだ! で、そのあいだにも船長は、全力を尽くして船をその方角に進めようと四苦八苦していたが、もうその船はひどい損傷を受けて、いたるところから浸水し、綱がかけてなかったらきれいさっぱり、ばらばらに分解していたことだろうな」


「いやはやひどいものだねえ!」


「われわれは岸のほうへ押し流されたので、その土地の住民もわれわれの遭難に気がついてくれた。彼らは大勢浜辺へ駆けつけて、上衣を打ち振ったり、帽子を長い竿の先に引っ掛けてぐるぐる回したりして、こっちへ来いと合図を送り、両腕を空に向かって差し上げ、われわれの不運に同情を示してくれたんだ」


「ほう! それでどうなった? 早く話してくれよ」


「いまや船全体が波に洗われ、これ以上われわれが船上に留まっても、その安全は海中にいるも同然という事態になった」


「それこそ聖なる錨にたよるべき時だな!」


「むしろ悲惨の錨だよ。水夫たちは救命艇の水を掻い出してから海面におろす。そこへ全員がわれもわれもと乗ろうとする。水夫たちが、この舟にはとうていそんなにおおぜい乗れない、めいめいなんでも手近のものをつかんで泳いでくれ、と声を涸らして叫んでも、聞きいれるどころじゃないんだ。事態はのんびり話し合っているゆとりなぞない。ある者は櫂を、ある者は鉤棹を、またある者は桶を、別の者はバケツを、また別の者は板切れを、要するにだれもかれもがなにかに取りすがって波に身を任せたんだ」


それで、あの、ひとりだけ泣きわめかなかった例の健気な女性は、いったいどうなった?


彼女はまっ先に岸へたどり着いたよ


どうやって?


われわれは彼女をそり返った板に乗せて、簡単には落ちないように縛りつけ、櫂がわりに使うよう手に板切れを持たせた。そして、幸運を祈りつつ、鉤棹を使って危険な本船から遠く離れるように、彼女を波間に押し出した。彼女は左腕にしっかりと幼児を抱き、右手で水を掻いていったんだ


あっぱれな女傑だなあ!


「さて、船にはもうなにひとつ残っていない。そこでひとりが聖母の木像を引っこ抜いた。すっかり腐って鼠に食い荒されていたが、こいつに腕をまきつけて泳ぎ始めたっけ」


「救命艇は無事に着いたのかい?」


「真っ先にお陀仏さ。三十人も乗り込んでいたんだがね」


「惨事の原因はどこにあるんだ?」


「本船から離脱できないうちに、その揺れの煽りをくって転覆したんだ」


「なんたる不幸! で、君はどうした?」


「僕かい? 他人の世話を焼いているうちに、あやうく死ぬところだったよ」


「どんなぐあいに?」


「泳ぐ助けになるものが、もうなにも残っていなかったからさ」


「コルク材でもあったら役にたったろうになあ!」


「あのときにはまったく、純金の燭台よりも、くだらないコルクの切れ端のほうがよほどありがたかったろうなあ! あたりをきょろきょろ見回しているうちに、僕はやっと、マストの根元のことを思いついたんだ。僕ひとりではひっこぬけなかったので、相棒を見つけ出し、ふたりでこのマストを頼りに海へ飛び込んだ、僕は右の端、相棒は左の端につかまってね。こうして波に揉まれているうちに、船上で説教を一席ぶった例の坊さんが、僕ら二人の間に割り込んで、肩の上にのっかってしまった。これがまた大男ときたもんだ。僕らは怒鳴ったね、『だれだ! 割り込んだ野郎は? おれたち三人ともお陀仏にする気か!』 相手はけろりとして答えたもんだ、『大船に乗ったつもりでな。場所は十分でござるて。神さまが助けてくださりまするぞ』」


「どうして彼はそんなにあとまで海に飛び込まずにいたんだろう?」


「いやいや、彼はドミニコ会の修道士といっしょに、救命艇に乗っているはずだったんだ。皆がそれだけの敬意を払っていたからな。ところが、このふたりは本船の上でお互いに告解をすませたのに、なんだか知らないけれどもとにかくなにか告解の条件を忘れていたというので、船端でもう一度告解をやり直し、相互に手を重ねた。そのあいだに救命艇は沈んでしまったというわけだ、アダムスが話してくれたんだがね」


「ドミニコ会士のほうはどうなったんだい?」


「彼は、やはりアダムスから聞いたんだが、諸聖人のお力添えを祈ってから、着ていたものを脱ぎ捨てて、素っ裸で泳ぎ始めたそうだ」


「どんな聖人に呼びかけたのかなあ?」


「ドミニクスにトマスにウィンケンティウスに、それからペルトス、どのペルトスか知らないがね。しかし第一にシエナの聖女カタリナに全幅の信頼を置いていたそうだぜ」


「キリストのことは頭に浮かばなかったのかねえ?」


「僕は坊さんの話をとりついだまでさ」


「聖なる衣を脱ぎ捨てたりしなければ、もっとうまく泳げたんじゃないかな。衣を脱いじまったんでは、シエナのカタリナだって彼だと見分けがつかないんじゃないかねえ?しかしそんなことより君の話を続けてくれ」


「波のまにまに、あちらへぐらりこちらへぐらりと傾く本船の脇で揺られているうちに、方向舵がぶつかって、左のはしにつかまっていた男の太腿を砕いてしまった。彼はそのために、手を離して沈んでしまったんだ。坊さんは『永遠の平安を』を彼のために唱えながらそのあとを占領し、板をしっかりつかんで足を力いっぱい動かせと、僕を励ました。そのあいだも、いや塩辛い水を飲んだのなんのって! ネプトゥヌスのやつめ、海水浴だけじゃなくて、塩入の飲み水まで遠慮会釈なしに飲ませやがったのさ。もっとも坊さんが予防法を教えてくれたがね」


「どんな方法かい? 教えてくれよ」


「波が襲いかかって来るたびに、彼は口をぐっと閉めて、頭のうしろ側を波のほうに向けるんだな」


「すごく達者な爺さんだなあ!」


「こうしてしばらく泳いで、いくらか進んだとき、驚くほど上背のあるこの坊さんが、『元気を出しなされ!』と叫んだんだな。『足がつきましたぞ!』。僕はそんなとほうもない幸福はとても期待できなかったので、『岸からは』と答えたね、『まだ遠いじゃございませんか。とても足が立つはずがございませんよ』。『とんでもござらぬ!』と彼は言い返したね、『拙僧の足に地面が感じられますのじゃ』。『そりゃおそらく』と僕も言い返したな、『海に流されてきた積荷の品物か何かでしょう』。『いやいや』と彼はまた言った、『指の先にはっきり土を感じますぞ!』

 それからもしばらく泳ぎ続けたんだが、彼は再び底に足がつくのを感じて、『自分で』と話しかけた、『いちばんよいと思うようにやってみなされ。拙僧はマストをぜんぶお譲りしますわい。地面にお任せしますによってな』。 そして、波が通り過ぎるのを待ってから、彼は自分の足でできるかぎり速く前へ進んだ。ふたたび波が襲って来ると、彼は両手で膝をしっかりつかみ、阿比や家鴨のように首を海中につっこんで抵抗し、波が去ると、ぽっこり首を上げて前進するんだな。それがうまくいくのを見て、僕もまねをした。砂浜には海に馴れ親しんだ屈強な男たちが待ちかまえていたが、彼らはばか長い竿を利用して、お互いに支え合って波の力に立ち向かい、一番先端にいる者が泳いでいる遭難者に竿を差し伸べられるようにしていた。遭難者が竿をつかむやいなや、全員が砂浜を後退してゆき、安全に乾いた陸地まで引っ張り上げてくれるんだ。そのおかげでなんにんか助かったぜ」


「なんにんだい?」


「七人だ。でもそのうちふたりは、焚火のそばに連れて行ったら死んでしまった」


「船にはなんにん乗っていたんだい?」


「五十八人さ」


「無慈悲な海め!せめて十分の一でやめとくぐらいできたろうに!それだけで坊主どもには十分じゃないか。そんなにおおぜいのうち、たったそれだけとはなあ!」


「僕らは土地のひとたちから、信じられないほど親切にしてもらったよ。驚くべき心尽くしで、宿やら燃料やら食料や衣類やら旅費やら、僕らに必要なものをなにからなにまで調えてくれたんだ」


「どこの人間だったにかな?」


「ホラント人(オランダ人)だ」


「そりゃ彼らほど情の深い人間はいないからな、粗暴な国々に取り囲まれているというのにねえ。ところで君はもう二度とネプトゥヌスを訪ねようとは思うまいね?」


「そりゃそうだとも、神が僕から正気を取り上げないかぎりはね!」


「僕にしたところでこんな冒険は、自分で経験するより話に聞いてるほうがいいな」





エラスムス