< 自 浄 其 意 >



〜 「空の世界」より 〜








 それでは、釈尊の自覚内容である縁起甚深の実践を示すその「自浄其意」とは、一体どういうことなのであろうか。


 それに先立って、廻り道のようであるが、そういう「自浄其意」として与えられているような語について、仏教とか、釈尊の正覚(さとり)の本質などいうことをしばらく別にして、「自浄其意」というようなことがいわれるときには、一般の世間ではそれがどういうように考えられるであろうか。 先ずそういう点から考えて見る。


 「自浄其意」、「自らその意を浄くする」という語は、普通一般的には、「われわれの心は本来は清らかであるが、それが煩悩の悪心によって曇っているから、その曇りを浄めよう。 曇りを払い清めれば心は清浄である」と。 「自浄其意」の語は、普通にはそういうように考えられそうである。 世間でよく、「良識に訴えて事を処理せよ」などといわれるときの考え方も、実はそれと同じ方向の考えである。 平常はややもすれば、良識が曇ってボンヤリしていることもあるから、そのボンヤリした曇りを払い除けて、良識を判然させて、それを土台にして事を処理せよというのである。 そこには本来判然とした良識・清浄な心の本体なるものが人間心の根底に予想せられているという考え方である。


 そして、そういう考え方というものをよく吟味してみると、そういう考え方でできている倫理思想なるものが、かなり一般に存在していることが知られる。


 西洋哲学に関して専門的な研鑽を経たことのない私の如き者が、それに触れることは分を超えた沙汰ではあるが、近代哲学の代表者であるカントの倫理学説は、いまいうような「自浄其意」の一般的な考え方の方向にあるものといえるのではないか。 それは、カントでは無上命令である道徳律に従う意思決定、および行為が善であり、それに反する情的欲望が悪ということになっている。 そして、善とはその感情的欲望を抑制して、専ら道徳律に従うて行なう義務の意識に従うところにあるとせられている。 そして、善の根本本質としての無上命令は、いわゆる無上命令で、apriori(先天的・先験的)で、何故に無上命令であるかは、考えられてないところに無上命令が無上命令としての意味がある。 であるから、それは無上命令であることが本来的であり、その本来的な無上命令としての純粋な義務の意識を、感情的欲望という煩悩の悪心の曇りを浄めて打ち出してゆくところに、道徳の真義があるわけである。 そこでそれは、「自浄其意」について、一般的に考えられていると見られる思想の線の上にあるものと見てよいのではないかと思う。


 人間の意志を本性上善であるとする思想が、西洋哲学の上に伝統的にあるということであるから、それはそういうことでよいのではないか。


 また、古くはギリシャの新プラトン派のプロチヌスに説によると、善とは完成態であって、悪とはこの完成態の欠如であるといわれる。 もとより善がわれわれの倫理的実践の理想としてaprioriに有なるものと考えられており、悪とは、いわば、有るべからざるものが有るべき本当の態に背いて有るということになる。 こういう考え方というものも、やはり心が本来は清浄であって、その本来的な相・心の本体が、本来の態とは相違して、本来の完全な態を欠如した、足りない態となっているから、それを本来的な態、あるべき態に完成してゆくべしということになる。 それは「自浄其意」が一般的に考えられている考え方の方向にあるものと思われる。


 次に、インド哲学思想に上で、その問題を探ねてみる。 インド宗教哲学思想には、古くからいわれるように、いわゆる九十五種と称する学流があり、時あっては、もっと数を少なく計算して六十二見といい、反対に極めて多く計算して三六三見などと計えあげられる流派が存在することである。 が、いわゆるインド哲学の正統派であって、今日のインドの有識者の大多数の世界観を支配しているのはヴェーダーンタ哲学である。 そして、その哲学ではいまいうような意味での「自浄其意」を認めているものと考えられる。 それはヴェーダーンタ派では、梵について真実智を得ることを哲学の目的としていて、それについて次のようにいう。 梵は宇宙の原因で全智全能であり、純粋に清浄で、歓喜に充ち、一切の善き性質を完全に具している。 梵はわれわれの思惟と推理を超えてあるもので、それの認識は直接の体験によるべきものである。 それでは、その直覚はいかにして可能であるか。 ヴェーダーンタによれば、無明によってわれわれの存在は制約せられ晦まされている。 この制約は真実には存在するものでなく、虚仮の迷mayaにすぎない。 それで、その迷は「汝が梵である」ことを教える教えによって破り去られる。 そこでその真の認識によって、迷mayaを制約を打ち破れば、そこに絶対の直観が成就せられる、とそういっている。 その梵というのは、宇宙の原因がそのまま真我であるという梵我一如の境地で、すなわちわれわれの本源の心・心の本体ともいうべきものに他ならぬ。 それ故に、その梵を制約する虚仮mayaを打ち破って絶対の直観が成立するとする思想は、明らかに今いう如き一般に考えられているであろうような線の上にある意味での「自浄其意」である。


 そのヴェーダーンタと同じく、正統婆羅門哲学の伝統に直結している数論哲学においても、ヴェーダーンタのいう梵に代えるに神我purusaという純粋智的なものを考え、この神我が実際の世界の原初の存在である自性というものと結びつくと、迷の世界が展開してわれわれが流転する。 よってわれわれは、解脱のためには、その神我に結びつく自性の系統の現象を滅して神我の独存を期せねばならぬ。 神我の独存が解脱涅槃であるという。 すなわち、神我という解脱我が考えられてあって、迷を滅してその独存を期するとする考え方は、明らかに「自浄其意」が一般的に考えられるであろうような態に考えられているのである。


 なお、こういう方向の考えとして枚挙せられるインド思想に、ジャイナ教というものがある。 ジャイナ教は、われわれの現実の存在は命(霊魂)と非命(物質)との合作で成っているとするのであり、われわれの解脱は、命が非命なる物質または肉体からの解脱であるという。 すなわち、肉体という一つの穢れを離れれば、命という純粋清浄な状態になるとするもので、これも一般的に「自浄其意」が考えられた場合の考えられ方の圏内にあるものと考えてよい。


 次に、中国の孟子の性善説において、性とは心の本性である。 孟子によると、心の官organは内にあって、思という作用をなすが、耳目の官organは外物の刺戟を受けてこれを感覚する作用をする。 そうして人が外物の刺戟を受けてこれを感受するとき必ず欲が伴うもので、もしこの欲に順って行動して、心の判断を顧みないならば、種々なる罪悪が生ずる。 これに反して内に思う心のorganである思に従って欺くことがなければ罪悪は起こらないはずである。 従って人間の心それ自身は善であるが、それが外物の欲に牽かれるとき、始めて悪が生ずる。 悪は外物の欲にひかれるときに生ずるのであるから心の本性でなく、心の本性には善悪を判断する良知と、悪をすてて善につこうとする良能が備わっているという。 そのいうところは、先に枚挙したインド諸哲学の如き形而上学的なものではなく、現実的な漢民族の性格のよく現われた倫理的な規定の明確なものであるが、それもまた、「自浄其意」が一般的に考えられるであろうような態において表わされたものと見ることができるであろう。


 さて始めの西洋哲学思想のものはしばらく別として、東洋思想の上だけで枚挙しても、そういうように「自浄其意」が一般に考えられるであろうような線に従って、それを推究して行くと、それは形而上学的な色彩の濃厚なインドの諸哲学の上にも見出されてゆくし、倫理的な中国の儒教思想の上にも見出されてゆく。



〜 山口 益 〜