< 心の真実のあり方 >
<心の真実のあり方>とは、すべてのものの共通の根元、その全体に通じるすがたであり、また、種々の教えの本体である。すなわち、それは心の本性が、生滅変化を超えて不生不滅である点をさす。
[離言真如]
けだし、すべてのもの、すなわちわれわれの意識の対象としてあらわれる現象は、ただ、誤った心の動きによって種々の異なった相(すがた)をもって現われている。もし人がそのような誤った心の動きから離れられれば、あらゆる対象の異なった相は消滅するであろう。それ故、あらゆるものは本来、言葉で種々に表わされた相を離れ、名称・文字によって示された相を離れ、認識をおこす拠りどころとしての相を離れており、徹底して無差別平等であり、変化することもなく、破壊することもできない。ただ、これすべて、心そのものであるから、これを<心の真実なるあり方>(真如)と名づけるのである。しかし、あらゆる言語表現は便宜的な仮の表現にすぎず、それに対応する実体はない。それはただ誤った心の動きに従って生じたにすぎず、その実体は知覚されえない。したがって、いまここで<真如>とよんでも、一切のものと同様、その名に対応するような実体があるわけではない。いわば、この名は、言語表現のぎりぎりのところで、言葉を用いて、他の余分な、あるいは誤った表現を排除するのである。この<真如>という言葉のあらわすものは何ら否定するべきものではない。というのはすべてのものはそれ以外のあり方がないという意味で、<真>であるからである。また、新たに立てるべき何ものもない。というのは、すべてのものは平等に<如>(ありのまま)であるからである。こういう次第で、人はまさにこの点をよく知るべきである。すべてのものは言葉で表現できず、心に思いうかべることもできないので、そのことをものの<真実ありのまま>(真如)とよぶのである。
問い
もし、そうであるとすると、人々はいったいどうやってものの真実のあり方を受け入れ、それに悟入することができるのであるか?
答え
もし人が、すべてのものはこれこれしかじかと説明されても、真実には説く人も説かれるものもないと知り、また、そのすがたをさまざまに心に思いうかべても、真実には思いうかべる人も、思いうかべられる対象もないと知ることを、ものの真実のあり方を受け入れるとよぶ。そして、そのような思いはからいを離れすてることができれば、これをものの真実のあり方に悟入したと名づけるのである。
[依言真如]
また、次に、<真如>は上のごとく、言葉で表現できず、ただ体得すべきことであるが、しばらく、言葉を借りて説明すると、<真実のありのまま>ということには二つの意味がある。二つとは何か。
第一には<ありのままに空>ということ。すべての現象は妄念の所産であって、<空>すなわち真実においてはないということが究極的なものの真実の相を示しているからである。
第二には<ありのままに不空>ということ。心の真実のあり方自体には、煩悩に汚されていない如来の徳相が具わっているからである。
ここでいう<空>とは、心の真実のあり方にあっては本来、すべての汚れたものがそこに結びついていないことをいう。すなわち、心の真実のあり方は、すべての現象の差別相を離れている。何となれば、そこでは虚妄な心の動きがないからである。かくて<真如>の本性は有るとも、無いとも言えず、有ることも無いとも、無いのでもないとも言えず、有って、かつ、無いとも言えない。また、同一とも、種々別異であるとも、同一でないとも、別異でもないとも、同一にして別異とも言えないと知るべきである。これをまとめれば、要するに、すべての衆生は誤った心の動きがはたらくので、一瞬一瞬、分別して、種々の差別相があると思うが、そのような誤った心の動きは皆心の真実のあり方と本来結びついていないので、その点を<空>というのである。したがって、もし誤った心の動きがなくなれば、心の真実のあり方自体には、もはや否定しさるべき何ものもない。
また<不空>というのは、上来すでに、ものの本性すなわち真実のあり方は空、すなわち煩悩など虚妄なものは存在しないことを顕かにしたが、それが真実なる心にほかならない。この真実なる心は、同時に、生滅にかかわらない点で常住、堅固、不変であり、悟りに伴う清浄な徳相に満ち満ちているので、この満ちている点を<不空>と表現するのである。したがってそこには、悟りによってさらに附け加えるべきなにものもない。誤った心の動きを克服した境地というのは、だた悟りにだけむすびつくからである。
(大乗起信論)