< 清浄心を生じるべきである >
〜 知恵の完成 〜
須菩提
「世尊よ、驚嘆すべきことです。まったく驚嘆すべきことです。正しい悟りを得た尊敬すべき如来によって、偉大な菩薩たちが、最高の援助のしかた(摂取)で援護されているとは。世尊よ、驚くべきことです。正しい悟りを得た尊敬すべき如来によって、偉大な菩薩たちが最高の委属のしかた(付属)で仏の教法を委任されているとは。
ところで、世尊よ、良家の男子にせよ、女子にせよ、すでに菩薩の道にはいった者は、どのように生活し、どのように心を保つべきでしょうか」
世尊
「まことに結構だ。須菩提よ、おまえの言うとおりである。如来によって、偉大な菩薩たちは、最高の援助のしかたで援護されている。如来によって、偉大な菩薩たちは、最高の委属のしかたで仏の教法を委任させているのである。だから、須菩提よ、よく聞くがよい。よく心を集中するがよい。すでに菩薩の道にはいった者が、どのように生活し、どのように実践し、どのように心を保つべきかを、おまえに話して聞かせよう」
須菩提
「世尊よ、そうおねがいいたします」
世尊
「さて、須菩提よ、すでに菩薩の道にはいった者は、次のように心がけねばならない。すなわち、『生けるものの世界において、およそ衆生という名のもとに包摂される生きとし生けるもの・・・卵生のものにせよ、胎生のものにせよ、湿生のものにせよ、化生のものにせよ、また、姿のあるものにせよ、姿のないものにせよ、意識あるものにせよ、意識のないものにせよ、意識があるのでもなくまたないものでもないものにせよ・・・およそ有情界に属するものとして考えられるほどのものは、何ものにもせよ、彼らすべてを、わたくしは、完全な涅槃の世界に引き入れねばならない。しかし、そのように、たとえ無数の衆生を涅槃に導いたとしても、実はいかなる衆生も涅槃にはいったのではない』と。
それはなぜかというと、須菩提よ、もし菩薩に衆生という観念があるなら、彼は”菩薩”とよばれることがありえないからである。それはまたなぜか。もし菩薩に”わたくし”という観念が生じるなら、あるいは衆生という観念、命あるものという観念、個我という観念が生じるなら、彼は菩薩とよばれることがありえないからである」
「さらにまた、須菩提よ、菩薩は事物に執着しながら布施をすべきではない。何かに執着しながら布施をすべきではない。・・・つまり、色形に執着しながら布施をしてはならないし、音声や香りや味や触れられるものや、心の対象に執着して布施をすべきではない。というのは、偉大な菩薩は相の観念にさえもとらわれないで、布施をしなければならないからである。それはなぜか。菩薩が執着することなく布施を行なうならば、その功徳の集積した量は、容易にはかりえないものとなるからである。おまえはどう思うか。東のほうにある虚空の量は、容易にはかれうるであろうか」
須菩提
「いいえ、世尊よ、そんなことはできません」
世尊
「同様に、南、西、北において、また下方や上方や四方やその中間の方角など、あまねく十方にある虚空の量がはかれうるであろうか」
須菩提
「いいえ、世尊よ、そんなことはできません」
世尊
「まったくそれと同様に、菩薩が執着することなく布施を行なうならば、その功徳の集積した量は、容易にはかられうるものではない。このように、すでに菩薩の道にはいった者は、相の観念にさえもとらわれないで、布施をしなければならないのである」
「須菩提よ、どう思うか。如来は特相(偉大な人としての三十二相の身体的な特相。三十二相という)をそなえた者として見られるべきであろうか」
須菩提
「いいえ、世尊よ、そんなことはありません。如来は特相をそなえた者として見られてはなりません。なぜかといいますと、如来によって『特相をそなえる』と説かれたことは、すなわち『特相をそなえないこと』なのですから」
世尊
「須菩提よ、およそ特相がそなわるという、そのかぎりにおいて、それは虚偽なのである。特相はそなわらないという、そのかぎりにおいては、虚偽ではない。したがって、如来は『特相の無特相』という観点から見られねばならない」
須菩薩
「世尊よ、将来、のちの時節、のちの時代・・・正しい教えが滅びるようなのちの五百年代・・・になったとき、これらの経典の句がこのような形で説かれたとして、それを真実と考える者がだれかおりましょうか」
世尊
「須菩提よ、そのように言ってはならない。『将来、のちの時節、のちの時代・・・正しい教えが滅びるようなのちの五百年代・・・になったとき、これらの経典の句がこのような形で説かれたとして、それを真実と考える者がだれかおりましょうか』というように言ってはならない。
須菩提よ、そうではなくて、将来、のちの時節、のちの時代・・・正しい教えが滅びるようなのちの五百年代・・・になったとき、徳をそなえ、戒律を保ち、智慧のすぐれた偉大な菩薩たちがいて、彼らはこれらの経典の句がこのような形で説かれた際に、それを真実と考える心を生じるにちがいない。
須菩提よ、またこれら偉大な菩薩たちは、ただひとりの仏陀にのみ仕え、ただひとりの仏陀のもとで功徳の善根を植えたのではない。これら偉大な菩薩たちは、百千という非常に多くの仏陀に仕え、百千という非常に多くの仏陀のもとで功徳の善根を植えた者であるであろう。彼らは、これらの経典の句がこのような形で説かれる際に、浄らかな一心(浄信)を得るであろう。如来は、仏知をもって彼らを知っておられるのである。如来は、仏眼をもって、彼らをごらんになっている。彼らは、如来によって、よく知られているのである。彼らはすべて、はかりしれない無数の功徳の集積を生みだし、またその結果を自分のものにするであろう。
それはなぜか。これらの偉大な菩薩たちには、”わたくし”という観念が起こらないし、衆生という観念も、命あるものという観念も、個我という観念も、起こらないからである。また、彼ら偉大な菩薩たちには、”もの”(法)という観念も生じないし、また、”ものでない”(非法)という観念も生じない。さらにまた、彼らには観念であるとか観念でないとかということも生じない。
それはなぜか。もし、彼ら偉大な菩薩たちに、”もの”(法)という観念が生じるなら、彼らには、かの”わたくし”への執着が起こるであろう。衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着が起こるであろう。もし、”ものでない”(非法)という観念が生じるなら、また彼らには、かの”わたくし”への執着が起こるであろう。衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着も起こるであろう。それはなぜかといえば、偉大な菩薩は、法に執着してもいけないし、法でないものに執着してもいけないからである。したがって、如来は、この点を考慮することによって、次のことばを説かれたのである。
『教法(法門)が、筏(川を渡るための筏は、渡りおわったならば、捨て去られるべきである)にたとえられることを知る者は、法さえも捨て去らねばならない。まして、法でないものは、なおのことである』と」
「須菩提よ、ところで、どう思うか。如来が、このうえなく正しい悟りであるとして悟ったような法が、何かあるのであろうか。如来が教え示したような法が、何かあるであろうか」
須菩提
「世尊よ、世尊のお説きになった意味をわたくしが理解したところによりますと、如来が、このうえなく正しい悟りであるとして悟られたような法は、何もありません。如来が教え示されたようないかなる法もありません。なぜかといいますと、如来によって悟られたとか、教え示されたとかという法は、とらえられないもの、表現すべきでないものだからです。それは、法でもなく、法でないのでもありません。なんとなれば、聖者たち(仏、菩薩、阿羅漢など)というものは、つくりつくられたものでないことによって特徴づけられているからです」
世尊
「さて、須菩提よ、どう思うか。だれか良家の男子にせよ、女子にせよ、この三千大千世界を七種の宝で満たして、正しい悟りを得た尊敬されるべきもろもろの如来に布施するとしよう。さて、良家の男子にせよ、女子にせよ、そのような人は、それによって、大きな功徳を積み集めたことになるのであろうか」
須菩提
「世尊よ、それは大きなものです。良家の男子にせよ、女子にせよ、彼らは、それによって大きな功徳を積むことになるでしょう。なぜかといいますと、如来によって功徳の集積として説かれたものは、それは集積ではないと、如来によって説かれるからです。それゆえ、如来は、『功徳の集積である。功徳の集積である』と説かれるのです」
(※ 色→即是空 空即→是色 )
世尊
「実に、須菩提よ。良家の男子にせよ、女子にせよ、この三千大千世界を七種の宝で満たして、正しい悟りを得た尊敬すべきもろもろの如来に布施するとしよう。ところで、他方、この法門の中の、たとえ四句からなる詩頌一つだけでも、自ら学んで身につけ、他の人々にもくわしく示し、説明するとしよう。両者のうちで後者こそが、そのことによって、より大きな功徳の集積、はかりしれない無数の功徳の集積を生み出すことになろう。
それはなぜか。須菩提よ、正しい悟りを得た尊敬すべきもろもろの如来の無上の正しい悟りは、実はこの教えから生じるからである。この教えから、諸仏世尊が生まれるからである。それはまたなぜか。須菩提よ、仏陀の教法(仏法)、仏陀の教法というが、それは、実に仏陀の教法ではない、と如来は説くからである。だから、仏陀の教法とよばれる」
「さて、須菩提よ、どう思うか。預流の者(最初の段階の悟りを得た者)に、『自分は預流果に達した』という考えが生じるであろうか」
須菩提
「いいえ、世尊よ、そんなことはありません。預流の者には『自分は預流果に達した』という考えは生じません。なぜかといいますと、世尊よ、彼はいかなるもの(法)をも得ることはないからです。・・・彼は色形の法を得ることはありません。声も、香りも、味も、触れられるものも、心の対象も得ることはありません。だから、預流とよばれるのです。世尊よ、もし預流の者に『自分は預流果に達した』という考えが生じるなら、彼には、かの”わたくし”への執着が起こり、衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着が起こるでしょう」
世尊
「須菩提よ、どう考えるか。一来の者(なおもう一度人間界に生まれる者)に『自分は一来果に達した』という考えが生じるであろうか」
「須菩提よ、どう考えるか。不還の者(再び人間界にたちかえることのない段階の者)に『自分は不還果に達した』という考えが生じるであろうか。
「須菩提よ、どう考えるか。阿羅漢(すべての煩悩を断って、涅槃にはいった最高の段階の者)に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるであろうか。
須菩提
「世尊よ、もし阿羅漢に『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるなら、彼には、かの”わたくし”への執着が起こり、衆生への執着、命あるものへの執着、個我への執着が起こるでしょう」
「それはなぜかといいますと、世尊よ、かつて、正しい悟りを得た尊敬すべき如来は、わたくしが『煩悩なくしてある者のうちの最上の者』である、と仰せられました。世尊よ、わたくしは欲望をはなれた阿羅漢であります。しかしながら、わたくしには『自分は欲望をはなれた阿羅漢である』という考えは生じません。
世尊よ、もしわたくしに『自分は阿羅漢であることに達した』という考えが生じるなら、如来はわたくしについて、『良家の子である須菩提は、煩悩なくしてある者のうちの最上の者である。彼は、いずこにも”ある”のではない。だから、煩悩なくしてある者、煩悩なくしてある者、と言われる』などと宣伝されることはなかったでありましょう」
世尊
「須菩提よ、どう思うか。何か教法があって、それを如来が、正しい悟りを得た尊敬すべきディパンカラ如来(燃燈仏)のもとで学んで、身につけたであろうか」
須菩提
「いいえ、世尊よ、そうではありません。正しい悟りを得た尊敬すべきディパンカラ如来のもとで、如来が身につけられたような、いかなる教法もありません」
世尊
「須菩提よ、もしもある菩薩が『自分は仏陀の国土の光輝(国土荘厳)、を完成しよう』と言うならば、彼は虚偽を語る者である。なぜかというと、須菩提よ、国土の光輝、国土の光輝というのは、それは光輝ではないのだと、如来は説かれるからである。だから、国土の光輝というのである」
「それゆえに、須菩提よ、偉大な菩薩は、清浄心(執着のない心)を生じるべきである。すなわち、何かに執着した心を生じるべきではない。・・・色形に執着した心を生じるべきではない。声、香り、味、触れられるもの、心の対象などに、執着した心を生じるべきではない。まさに住する所無くして、しかもその心を生じるべきである(応無所住 而生其心)。
須菩提よ、たとえば、肉体に欠陥のないある人が、巨大な肉体の持主・・・つまりその身体はあたかも山の王であるスメール(須弥山)にも等しい・・・がいるとしよう。そこで、須菩提よ、おまえはどう思うか。彼の身体は巨大であると言えるであろうか」
須菩提
「世尊よ、巨大であります。彼の身体は巨大であります。それはなぜかといいますと、世尊よ、身体、身体というが、それは身体ではないのだと如来は説かれたからです。それゆえに身体とよばれるのです。というのは、世尊よ、それは身体でもなく、身体でないのでもないからです。だから、身体とよばれるのです」
世尊
「須菩提よ、どう思うか。大河ガンガーにある砂の数と同じだけ、ガンガー河があるとしよう。それらすべてにある砂の数もまた多いと言えるだろうか」
須菩提
「世尊よ、それらのガンガー河は、たいへんな数です。ましてそれらすべてのガンガー河にある砂の数は、言うまでもありません」
世尊
「須菩提よ、おまえに次のことを告げよう。そして、教えてあげよう。・・・ある女子にせよ、男子にせよ、だれでもよいが、それらのガンガー河にある砂の数ほどの世界を七種の宝で満たして、正しい悟りを得た尊敬すべきもろもろの如来に布施(供養)するとしよう。さて、須菩提よ、どう思うか。そのような女子や男子は、そのことによって、大きな功徳の集積をつくることになるのであろうか」
須菩提
「世尊よ、それは大きなものです。世尊よ、女子にせよ、男子にせよ、そのことによって、多くの、はかりしれない無数の功徳の集積を生み出すことでしょう」
世尊
「ところで、須菩提よ、女子にせよ、男子にせよ、それほどの量の世界を七種の宝で満たし、これを正しい悟りを得た尊敬すべきもろもろの如来に布施するとしよう。他方、良家の男子、あるいは女子が、この法門の中の、たとえ四句からなる詩頌一つだけでも、自ら学んで身につけ、他の人々にもくわしく示し、説明するとしよう。両者のうちで後者こそが、そのことによって、より大きな、はかりしれない無数の功徳の集積を生み出すことになろう」
「さらに、ある土地で、この法門の中の、たとえ四句からなる詩頌一つだけでも、自ら学んで身につけ、他の人々にもくわしく示し、説明するとしよう。両者のうちで後者こそが、そのことによって、より大きな、はかりしれない無数の功徳の集積を生み出すことになろう」
「さらに、須菩提よ、ある土地で、この法門の中の、たとえ四句からなる詩頌一つだけでも、自ら学んで身につけ、他の人々に解釈し、あるいは説明するとしよう。そのときその土地は、神々や人間やアスラ(海底の鬼神)を含めた全世界にとって、塔廟というものとなるであろう。まして、この法門をすべて完全に記憶し、読誦し、理解して、さらに、他の人々にくわしく説明するならば、須菩提よ、そのような人々は、最高の驚異をそなえた者となるであろう。須菩提よ、その土地には師(仏陀)がおられることにもなろうし、あるいは、たとえだれであっても、師と知識の等しい人々がおられる、ということにもなろう」
須菩提
「世尊よ、この法門の名はなんと申しますか。それをどのように受持したらよろしいでしょうか」
世尊
「須菩提よ、この法門の名は、『知恵の完成』(般若波羅蜜多)である。そのように、これを受持するがよい。それはなぜか。須菩提よ、如来によって説かれた『知恵の完成』は、すなわち完成ではないと、如来は説かれるからである。だから、『知恵の完成』と言われる」
そのとき、長老須菩提は、このような教えに感激して涙を流した。涙をぬぐいおわって、彼は次のように世尊に申上げた。
「世尊よ、驚異です。まったく驚異すべきことです。最上の道にはいった人々のために、至高の道にはいった人々のために、この法門が如来によって説かれたとは。・・・そして、それによってわたくしに知が生じたとは。世尊よ、わたくしは、いまだかつて、このような形の法門を聞いたことがありません。
世尊よ、この経典が説かれるのを聞いて、それが真実であるという考えを生じる菩薩は、最高の驚異をそなえた者となるでありましょう。なぜかといいますと、世尊よ、その真実であるという観念は、すなわち真実の観念ではないからです。だから、真実の観念である、真実の観念である、と如来は説かれるのです」
「世尊よ、この法門が説かれるとき、それに信をおき理解することは、わたくしにとってむずかしいことではありません。しかし、世尊よ、将来、のちの時節、のちの時代・・・正しい教えが滅びるようなのちの五百年代・・・になったとき、世尊よ、ある人々があって、この法門を身につけ、受持し、読誦し、理解して、さらに他の人々にくわしく説明するであろうならば、彼らは最高の驚異をそなえた者となるでしょう」
世尊
「そのとおりだ。須菩提よ、この経典が説かれるとき、それを聞いて動揺せず、恐れず、恐怖に陥らないような人々は、最高の驚異をそなえた者と言うべきであろう。なぜかというと、須菩提よ、如来によって説かれた、この最高の完成は、すなわち完成ではないからである。しかも、如来が説く最高の完成というものを、無数の諸仏、諸菩薩もまた説く。それゆえに、最高の完成と称されるのである」
「さらに、須菩提よ、如来の忍の完成は、すなわち完成ではない。なぜかというと、かつてある悪王がわたくしの四肢の肉を切りとったとき、”わたくし”という観念にせよ、衆生という観念にせよ、命あるものという観念にせよ、個我という観念にせよ、また、いかなる観念も、観念でないものも、わたくしにはなかったからである。それはまたなぜか。須菩提よ、そのとき、もしわたくしに”わたくし”という観念があったなら、敵意の観念がわたくしに起こったであろう。もし衆生の観念、命あるものという観念、個我の観念があったなら、そのとき、敵意の観念も、わたくしに起こったであろうから。
それはなぜかというと、須菩提よ、わたくしは次のことを思い出す。すなわち、かつて五百の生涯の間、わたくしはクシャーンティヴァーディン(忍耐を説く者)という仙者であった。そのときにも、わたくしには”わたくし”という観念はなかったし、衆生という観念、命あるものという観念、個我という観念もなかったからである。
したがって、須菩提よ、偉大な菩薩は、あらゆる観念を取り除いて、無上の正しい悟りに対して発心しなければならない。色形に執着した心を起してはならない。・・・声、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着した心を起してはならない。・・・法に執着した心を起してはならない。法でないものに執着した心を起してはならない。何かに執着した心を起してはならない。
それはなぜかというと、およそ執着したということは、すなわち執着しなかったことだからである。それゆえ、如来は説かれた。『菩薩は、執着することなく布施をしなければならない。・・・色形、声、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着することなく、布施をしなければならない』と」
「さらに、須菩提よ、あらゆるもの、生きとし生けるもの(衆生)のために、菩薩は、このような布施、喜捨を行なわなければならない。なぜかというと、須菩提よ、この衆生という観念は、観念ではないからである。同様に、如来によって説かれたあらゆる衆生とは、すなわち衆生ではないのである。それはなぜか。須菩提よ、如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽を語るものではない」
「さらに、須菩提よ、如来が悟った法、教示しまた洞察した法、・・・そこには真実もなく虚偽もない。
須菩提よ、たとえば暗闇の中にはいった人には何も見えないであろう。それと同じく、ものにとらわれて布施をする菩薩は、ものにとらわれて何も見えないものとみなさなければならない。須菩提よ、たとえば、健全な目をもっている人ならば、夜が明けて太陽がのぼったときに、いろいろな形のものを見るであろう。それと同じく、ものにとらわれずに布施をする菩薩は、ものにとらわれない者(あらゆる真実を見うるもの)と考えなければならない」
「さて、須菩提よ、女子にせよ男子にせよ、朝の間にガンガー河の砂の数に等しい自己の身体を喜捨し、同様に、昼間にも、夕刻にも、ガンガー河の砂の数に等しい身体を喜捨するとしよう。このようにして、百千のコティ・ニユタという多くのカルパ(コティもニユタも大数をさし、カルパも長遠な時間の単位)の間、身体を喜捨し続けるとしよう。他方、この法門を聞いて、それを謗らない者がいるとしよう。両者のうちで後者こそが、そのことによって、より大きな、はかりしれない無数の功徳を集積するであろう。ましてこの法門を書写して身につけ、受持し、読誦し、理解して、さらに他の人々にくわしく説明する者はいうまでもない」
「さらに、須菩提よ、この法門は思議することのできないもの(不可思議)、比較を絶したものである。また、この法門は、最高の道にはいった人々にために、至高の道にはいった人々のために、如来によって説かれたものである。およそこの法門を身につけ、受持し、読誦し、理解し、さらに他の人々にくわしく説明するならば、そのような人々を、如来は仏知をもって知る。彼らを如来は仏眼をもって見る。彼らは如来によってよく知られている。彼らはすべて、はかりしれない功徳の集積をそなえた者となるであろう。思議することができず、比較を絶し、はかることもできない無量の功徳の集積をそなえた者となるであろう。これらの人々はすべて、わが悟り(菩提)をその肩に担う者であろう。
それはなぜか。須菩提よ、信の劣った人々は、この法門を聞くことができないからである。”わたくし”を実在視する者、衆生を実在視する者、命あるものを実在視する者、個我を実在視する者も、同じくこの法門を聞くことができないからである。菩薩の誓いをたてない者は、この法門を聞くことも、身につけることも、受持することも、読誦することも、理解することもできない。そのような道理はありえないのである」
「しかしながら、良家の子女たちが、このような経典を身につけ、受持し、読誦し、理解し、さらに正しく注意して、他の人々にくわしく説明するとしても、彼らは卑しめられ、ひどく卑しめられるであろう。それはなぜか。そのような人々は、悪趣(地獄・飢餓・畜生などの苦悩の存在)の結果を招くさまざまな悪業を前世にしており、彼らは現世で卑しめられることによってはじめて、その前世になしたさまざまな悪行を捨てて、仏陀の悟りを得るであろうからである」
「それはなぜかというと、須菩提よ、わたくしは次のことを思い起こすからである。
無数の、というよりさらに無数の劫(カルパ)の昔・・・正しい悟りを得た尊敬すべきディパンカラ如来より前、はるか以前・・・に、百千コティ・ニユタの八十四倍もの仏陀がおられた。わたくしはこれらの仏陀を供養して喜ばせ、喜ばせはしたが、違背することはなかった。
須菩提よ、わたくしは、これら諸仏、世尊を喜ばせ、喜ばせて違背することがなかったが、他方、のちの時節、のちの時代・・・正しい教えが滅びるようなのちの五百年代・・・になって、このような経典を身につけ、受持し、読誦し、理解して、さらに他の人々にくわしく説明する人々がいるとしよう。実に、須菩提よ、両者のうちで、前者の功徳の集積は、後者の功徳の集積の百分の一にも及ばない。千分の一にも、百千分の一にも、コティ分の一にも、百コティ分の一にも、百千コティ分の一にも、百千コティ・ニユタ分の一にも及ばない。数字にも、区分にも、計算にも、比喩にも、比較にも、類似にもたええないのである」
さて、世尊は、そのとき、次の二つの詩頌を説かれた。
姿形によってわたくしを見る者、音声によってわたくしに従う者は、
誤った努力をなす者であり、
そのような者は、真の意味でわたくしを見ることはないだろう。
仏は法という観点から見られなければならない。
なぜなら、世間を教導する者(仏陀)は、法を身体とするもの(法身)であるから。
・・・そして、法の本質(法性)は知識の対象とはならない。
それは知られるものではない。
また、どのようにして説き明かすべきか。
それは『説き明かさないように』である。
だから、説き明かさねばならない、と言われる。
星、眼の幻覚、ともしび、幻、露、水の泡、夢、稲妻、雲・・・
つくられたもの(有為)とは、このようなものであると見られねばならない。
以上のように、世尊はお話しになられた。須菩提上座、これらの比丘、比丘尼、男女の在俗の信者たち、かの菩薩たち、そして、神々、人間、アスラ、ガンダルヴァからなるこの世界中の者たちは、心が歓喜して、世尊の説かれたことを賞讃した。
以上『金剛のごとくに摧断するもの』という、聖なる、尊き『知恵の完成』を終わる。