< 空とは >


〜 清 浄 〜




 「アーナンダ、世界とは、変化し消滅するすべてのものの集合体です。一方、ここでいう<法>とは、次の十八の領域に含まれているすべてのものです。すなわち、六つの感覚器官(六根)、六つの感覚の対象(六境)、六つの感覚を認識する心(六識)ですね。さらに六根は、眼・耳・鼻・舌・身・意、六境は、色やかたち(色)・音(声)・におい(香)・味・感触(触)・心の対象物(これも「法」といいます)、そして六識は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識よりなっています。この十八の領域と関わりない<法>はありません。そして、この十八の領域はすべて生と死、変化と消滅に支配されています。それゆえ、<世界>は変化し消滅するという性質を持つ、すべてのものの集合体だと言ったのですよ」


 アーナンダは訊ねた。「師よ、あなたはしばしば、すべての<法>は<空>である、と説かれます。それはどういう意味でしょうか」


 ブッダは答えた。「アーナンダ、すべてのものは他から独立して存在する<自己>(我)を持たない。だから空だと言ったのです。六根、六境、六識のどこにも、他から独立して存在する<我>を持つものはないのです」


 アーナンダはさらに訊ねた。「師よ、あなたは<解脱への三つの門>は、<空>と<無相>と<無願>であるとお説きになりました。またすべてのものは<空>であると説かれました。それでは、すべてのものが変化し消滅する性質を持つがゆえに、すべてのものは<空>でもある、ということになるのでしょうか」


 「アーナンダ、私はこれまでにたびたび<空>と<空>の瞑想について語ってきました。<空>の瞑想は苦しみや生死を越えるために役立つ瞑想です。今日はこの瞑想について、さらに詳しく語ってみることにしましょう。


 アーナンダ、いま私たちはみんなこの講堂のなかに座っていますね。ここには市場も村もないし、水牛もいません。ここにいるのは比丘だけで、比丘が座って私の話を聞いています。ということは、この講堂は、ここにいないものすべてについては<空>、つまりそれらを欠いているし、現にここにいるものについては、この講堂に<在る>といえる。この講堂は市場や水牛や村を欠いているが、比丘に満ちている。これは正しいですか?」


 「はい、正しいです」


 「さて、法話が終わると、私たちはみんな講堂から出ていきます。するとこの講堂に比丘はいなくなりますね。そのとき講堂は、市場も、水牛も、村も、比丘も、みんないなくなって<空>になる。これは正しいですか」


 「はい、先生、その瞬間、講堂はこれらのすべてのものを欠いて<空>になります」


 「つまりアーナンダ、満ちているというのは、”何か”に満たされていることを意味します。<空>もまた、”何か”がないことを意味するのです。『いっぱいある』とか『空っぽだ』という意味だけでは、何の意味もなさないのですよ」


 「そこのところをもう少し説明してください」


 「よく考えてみてください。<空>とはつねに『”何か”がない』ことなのです。たとえば、市場や水牛や村や比丘がいないことです。<空>は、それ自体独立して存在する何かではありません。『いっぱい』というのも同じです。『いっぱい』というのは、つねに何かが『いっぱい』あることです。市場や、水牛や、村や、比丘が、『いっぱい』あることです。『いっぱい』であることそれ自体は、独立して存在する何かではないのです。しかし、いまこの瞬間の講堂に、市場も、水牛も、村も存在していない、ということはできます。したがって、もしすべてのものが『いっぱい』だというなら、何が『いっぱい』あるのですか。もし、すべてのものが<空>だというなら、いったい何が<空>なのでしょうか。


 比丘たちよ、すべてのものが<空>だというのは、すべてのものが、永遠不変の<我>を欠いているということを意味するのです。これが、すべてのものが<空>だということです。またみんなよく知っているように、すべてのものは変化し消滅するものですね。それゆえ、すべてのものは、他から独立した個別の<我>を持つとはいえないわけです。他から独立した個別の<我>がないことを瞑想して見てとるのが、<空>を瞑想するということなのです。


 五蘊のなかに永遠不変の性質を持つものはひとつもありませんね。体も、感覚も、知覚も、心の形成物も、意識も、これらすべては、他から独立した個別の<我>を持っていませんし、永遠不変という性質を持っていません。永遠不変の性質をもつものが、他から独立した本当の<我>です。他から独立した<我>がないことを見きわめるための瞑想を『空の瞑想』と呼んでいるのです」


 アーナンダが訊ねた。「すべてものに<我>がないというのはわかります。しかし、それでは、ものは本当に存在しているといえるのですか」


 ブッダは自分の前の小さなテーブルに目を落とした。そこには水を入れた鉢がおいてあった。鉢を指さして問うた。「アーナンダ、この鉢はいっぱいですか、それとも<空>ですか」


 「師よ、鉢には水がいっぱい入っています」


 「それでは、この鉢を外に持っていって、水をすべて捨ててきてください」


 アーナンダはブッダに言われたとおり水を捨ててきて、空の鉢をふたたびテーブルの上に置いた。ブッダはその鉢をとりあげて、ひっくりかえして訊ねた。「アーナンダ、この鉢はいっぱいですか、それとも空っぽですか」


 「師よ、もはやいっぱいではなく、空です」


 「アーナンダ、本当にこの鉢は空ですか?」


 「はい、鉢は確かに空になりました」


 「アーナンダ、いま、この鉢に水は入っていないが、空気は満ちていますよ。あなたはすでに忘れている。<空>とは”何か”がないことであり、『いっぱい』とは”何か”がいっぱいあるということです。この鉢は、水が入っていなくても、空気が満ちているのではありませんか」


 「ああ、いまはじめてわかりました」


 「よろしい、アーナンダ、この鉢は<空>でも、いっぱいでもないのです。もちろん、<空>か満ちているかという問いは、鉢の存在にかかってきます。鉢がなければ、<空>もいっぱいもありません。たとえば、この講堂がいっぱいであったり<空>であったりするためには、まずここに講堂がなければならないのです」


 「おお!」・・・比丘たちのなかからどよめきがあがった。


 アーナンダは合掌して訊ねた。「師よ、では、すべてのものは実際に存在する、すべてのものは現実に”ある”と考えてよいのですね」


 ブッダが微笑んだ「アーナンダ、言葉にとらわれてはいけません。もしすべてのものが<我>を持たない現象にすぎないのであれば、その『存在』は、ふつうに考えるような意味での『存在』ではないでしょう。それは<空>と同じ意味になる」


 アーナンダは合掌した。「師よ、どうかそこをもっと教えてください」


 「アーナンダ、いま私は<空>の鉢と満ちている鉢の話をし、また<空>の講堂と満ちている講堂の話をしました。<空>については説明したので、今度は、満ちていること、つまり<充満>について話しましょう。

 テーブルの上の鉢に水が入っていないことは、いまみんなで確認したばかりですが、もっと深く見るならば、それは真実ではないでしょう」


 ブッダは鉢を持ち上げ、それからアーナンダを見た。「アーナンダ、この鉢を生みだした、相互に絡みあったさまざまな要素のなかに、水が見えますか」


 「はい、見えます。水がなければ陶工は鉢をつくる素材の粘土を混ぜることができません」


 「ちょうどそのように、さきほどは水が入っていないといったが、深く見ていけば、鉢のなかに水がみえるのです。この鉢がここに在るためには、水がなければならない。アーナンダ、この鉢のなかに火の要素が見えますか」


 「はい、見えます。鉢を完成させるには火が必要です。深く見れば、鉢のなかに火と熱が見えます」


 「ほかに何が見えますか」


 「空気が見えます。空気がなければ、火も燃えず、陶工も生きていられません。また、陶工と彼の手が見えます。窯と窯のなかに積んだ薪が見えます。薪の原料になった木も見えます。木を成長させた雨や、太陽の光や、土も見えます。師よ、この鉢を存在せしめた何千もの相互に浸透しあう要素が見えます」


 「そのとおりです、アーナンダ。鉢を観想すると、この鉢を在らしめた相互に浸透しあう無数の要素を見ることができます。その要素はこの鉢の内部にも外部にも存在している。あなた自身の<気づき>もその要素のひとつです。もしこのなかから火をとり去って、太陽に戻したら、もし粘土を大地に戻したら、陶工をその両親に戻し、薪を森に戻したら、この鉢はそれでも存在するでしょうか」


 「師よ、鉢はもはや存在できません。この鉢を存在させている相互に依存しあう要素を、それがやってきた源に戻したら、鉢はここに存在することができません」


 「アーナンダ、縁起の法則を瞑想すると、鉢は独立して存在できないことがわかりますね。あるものはそれ以外のすべてのものと相互に依存しながらここに存在している。すべての<法>は相互に依存しながら、生まれ、存在し、消滅している。ひとつの現象はそれ以外のすべての現象を抱含している。これが相互浸透と相互依存の原理なのです。


 アーナンダ、相互浸透とは、これのなかにかれあり、かれのなかにこれあり、という意味です。たとえば、私たちがこの鉢を見るとき、陶工が見える。そして陶工を見れば、鉢が見える。相互依存とは、これはすなわちあれ、あれはすなわちこれ、という意味です。たとえば、波はすなわち水であり、水はすなわち波なのです。いまこの講堂には市場も水牛も村もない。しかしそれはあるひとつの視点から見たときだけの真実です。現実には、市場や水牛や村がなければ、この講堂は存在することができません。それゆえに、空の講堂のなかに、市場や水牛や村の存在をみることができるのです。これがなければあれはない。<空>の基本的意味は、これがあるのはあれがあるからだ、ということなのですよ」


 比丘たちは、水を打ったような静けさのなか、ふたりの問答を聴いていた。ブッダの言葉は一同に深い感銘を与えた。短い休憩時間をはさんで、ブッダはもう一度、空の鉢を掲げて言った。「比丘たちよ、この鉢は他から独立して単独で存在することはできません。これがここに在るのは、土、水、火、空気、陶工、そのほかたくさんの、鉢でないものと私たちが考えているすべてのもののおかげなのです。すべての現象は、そのほかすべての現象と相互依存的な関係のなかで存在しています。すべての現象は相互浸透と相互依存の原理によってそんざいするのです。


 比丘たちよ、この鉢を深く見つめてください。そうすれば、この鉢のなかに全宇宙が見えるでしょう。この鉢が<空>だ、といえる唯一のものは、他から独立して存在する<我>だけなのです。<我>とは何か。それは、ほかのすべての要素から切り離され、完璧にそれだけで自立して存在するもののことです。この世の現象のなかに、ほかのすべての現象から独立して存在しているものが、はたしてあるでしょうか。他から切り離された本当の<我>を持つ現象などいっさいありません。これが<空>の意味です。<空>とは<我>がないことなのです。


 比丘たちよ、五蘊は人の基本的要素です。しかし、物質(色)は、<我>を持ちません。なぜなら物質は独立して存在することができないから。物質のなかには、感覚、知覚、心の形成物、意識があります。感覚も同じです。感覚は<我>を持ちません。なぜなら感覚は独立して存在できないから。感覚のなかには、物質、知覚、心の形成物、意識があります。ほかの三つも同じです。どれも、他から切り離された自己同一性を持っていないのです。五蘊はおたがいに依存しあって存在しています。したがって五蘊はすべて<空>なのです。


 六根、六境、六識、すなわちすべての感覚器官、すべての感覚の対象、すべての感覚の意識は<空>です。なぜなら、これらはすべて、それ以外の感覚器官、感覚の対象、感覚意識に依存して存在しているから。いかなる感覚器官も、感覚の対象も、感覚の意識も、他から切り離され独立しているという性質を持っていません。


 もう一度くりかえします。しっかり記憶してください。かれあるがゆえにこれあり。すべての<法>はおたがいに依存しあって存在しているがゆえに<空>である。ここでいう<空>とは、他から切り離され独立して存在する<我>がないという意味です。


 アーナンダは訊ねた。「師よ、バラモンの学者や他の教団の指導者たちのなかには、ゴータマは虚無主義を説いているという者がおります。師が、人生をすべて否定するように導いているというのです。師がすべてのものは<空>だというので、誤解しているのでしょう」


 ブッダは答えは。「アーナンダ、バラモンの学者や他の宗教家たちは、この点を正しく把握していません。私は虚無主義の教理を説いたことなど一度もありません。人々に生を否定せよといったことはないのです。誤った見解のなかには、人々を混乱させる二つの考え方があります。実在論と非実在論です。前者は、すべてのものは独立した永遠の<我>を持つと考えます。後者は、すべてのものは幻影にすぎないと考えます。このいずれかの考え方に囚われると、真実を見失ってしまいます。


 アーナンダ、かつて比丘カッチャーヤナが『間違った見解、正しい見解とはどういうものですか』と訊ねたことがあります。私は、間違った見解とは存在・非存在のどちらかに囚われることだ、と答えました。実在の真の姿を見るとき、私たちはこのいずれの見方にも縛られることはありません。正しい見解を持つ者は、すべてのものの生と死の過程を理解し、それゆえに、存在という観念にも非存在という観念にも振りまわされることがないのです。苦が生じるとき、正しい見方をする人は苦の出現に気づく、何ものの生起と消滅にも悩まされることもありません。すべての<法>が永遠という見解も、すべての<法>が幻影という見解も極端すぎるのです。縁起とは、この両極端を超えて、中庸に安住する道なのです。


 アーナンダ、存在という観念は、現実に即していません。実在はそんな観念をはるかに超えているのです。存在と非存在の観念を超えた人を、悟った人というのです。


 存在と非存在は<空>ですが、生と死もまた<空>なのです。ただの観念にすぎません」


 アーナンダが訊ねた。「もし生と死が空ならば、なぜあなたはすべてのものは無常であり、つねに生死をくりかえしていると説かれるのですか」


 「相対的ないし観念的なレベルでは、すべてのものはつねに生滅をくりかえすと説きますが、絶対的な見地からみれば、すべてのものは、もともと不生不滅なのです」


 「師よ、そこを説明して下さい」


 「アーナンダよ、あなたが講堂の前に植えた菩提樹を考えてみてください。あの樹はいつ生まれたのでしょうか」


 「ちょうど四年前、あの木の種が根を伸ばした、そのときからです」


 「それ以前にはあの木は存在していなかったのですか」


 「はい、根を張るまえには存在していませんでした」


 「それではあの菩提樹は無から生じたのですか。無から生じるものなどあるのですか」


 アーナンダは沈黙した。


 ブッダはつづけた。「アーナンダ、この宇宙のいかなるものも無から生じることはできないのです。種はなければ菩提樹は存在できません。つまり菩提樹が存在するのは種のおかげであり、木は種とひとつづきのものなのです。種が土に根を張る前から、菩提樹はすでに種のなかに存在していたのです。もしすべてのものがすでに在るのなら、どうして新たに生まれることができるでしょうか。菩提樹の本質は不生なのです」


 ブッダはアーナンダに訊ねた。「菩提樹の種が土のなかに根を張ったあと、種は消滅したのですか」


 「はい、種は木を生みだすために死にました」


 「アーナンダ、種は死んでなどいないのです。死ぬとは存在が非存在になることです。しかし、この宇宙のなかに、存在から非存在に移るものがはたしてあるでしょうか。一枚の葉、一片の塵、一条の香の煙・・・これらのうちのどれひとつとして存在から非存在に移るものはありません。すべての現象は別の現象に変化する、それだけなのです。菩提樹の種も同じこと。種は死なず、一本の木に変容した。そう、種も木も不生不滅なのですよ。種と木、あなたと私、比丘たち、講堂、木の葉、一片の塵、一条の香の煙・・・すべては不生不滅です。


 すべてのものに生も死もありません。生と死は心がつくった観念なのです。すべてのものは満ちてもいず、空でもなく、つくられもせず、滅びもしない。汚されもしないし清くもない。増えもしないし減りもしない。去ることも来ることもなく、一でもなく多でもない。これらすべては単なる観念にすぎません。<空>を瞑想することによって、すべてを区別してやまない観念の世界を超えて、すべての本質を悟ることができるのです。


 アーナンダ、すべてのものは本質として、いっぱいでもなく空っぽでもない。生も死もない。生成も解体もない。しかし、生と死、充満と空、生成と解体は、まさに実在のこの本質に基づいて生じるのです。さもなくば、いったいどうやって生と死から、充満と空から、生成と解体から逃れることができるでしょうか。


 アーナンダ、あなたは砂浜に打ち寄せては退いてゆく波を見たことがあるでしょうか。不生と不滅は水のようなもの。生と死は波のようなもの。波には長い波や短い波、高い波や低い波があって、寄せてはまた退いていくけれど、水は水のままです。水がなければ波もなく、波は水に戻っていく。そう、波は水であり水は波なのです。波は生まれ、また消えていくけれど、波が自分を水だと悟れば、生と死の観念を超えることができるでしょう。波は自分の生や死を思い悩んだり恐れたり苦しんだりはしないのです。


 比丘たちよ、万象の<空>なる本質を瞑想することは、不思議に満ちた真実在への旅です。すべての恐怖、心配、苦しみからの解放へと私たちを導き、生死の世界を超える手助けをしてくれます。いのちがけでこの瞑想を行じてください」


 ブッダは話を終えた。


 スヴァスティは、ブッダがこのように深遠で不思議に満ちた話をするのを、いまだかつて聴いたことがなかった。高弟たちは微笑み、瞳は喜びにあふれていた。スヴァスティは、これまでブッダの説法が理解できていると思っていたけれど、実は、深い意味はまったくわかっていなかったことに気づかされた。まあいい。アーナンダがこれから何日もかけて説法をくりかえしてくれるはずだ。長老たちの議論を聴く機会もあるだろう。


(小説「ブッダ」)