< 無と空 >




 老荘思想の中心の一つは無ということにある。すでに東晋に先立つ西晋の時代においても、老荘の無をもてはやす風潮があった。このころ裴危(267〜300)は、当時の貴族がすべて老子の無を尊び、現実を有として卑しむ結果、放縦の風が盛んとなり、政治が腐敗の極みに達したのを嘆いて、『崇有論』をあらわして時弊を救おうとした。しかし一代の風潮は、一人の力の左右しうるところではない。老子の無の思想は、当時の貴族の生活を動かす原理となっていたのである。


 仏教が中国知識人の間に本格的に弘通するようになるのは、四世紀に始まる東晋時代に入ってからのことであった。この時代の中国人は仏教の教養のうちの、どの部分に心をひかれたか。一つは輪廻説、三世報応の説であった。知識人の大部分、そしておそらくは庶民層の一部が、この驚異の新説に心を奪われた。いま一つは、ここで問題とする「般若の空義」である。それは哲学的世界観に関するものであるだけに、高度の教養をそなえた人々だけに見られるものであり、全体としては少数者に限られていたのかもしれない。このような高度の教養が般若の空義に関心をよせたのは、それが彼らの熟知している老荘の無に通ずるものを持っていたためである。


 したがって彼らは般若の空を無の観念を通じて理解しようとした。このように外典の観念ないし用語を用いて仏教を理解しようとすることを格義とよんでいる。格義という語は『高僧伝』の竺法雅伝に始めて見えるもので、仏教を格義によって理解するのは普通には東晋時代に始まるとされている。しかし外典の語ないし観念を利用して仏教の思想を表現しようとする試みは、東晋よりも以前からあったものであり、何よりも経典の漢訳そのものがすでにこれを実行していたのである。たとえば古訳では涅槃を「無為」、真如を「本無」と訳していたが、いずれも梵語の訳として老荘の用語をこれに当てたものである。また『無量寿経』の漢訳・呉訳・魏訳は「自然」ないし「無為自然」の語を多用しているのであるが、いずれもその翻訳の時期が老荘全盛の時代であったことを示している。この点からいえば、漢訳経典そのものがすでに格義を実行しているのであり、老荘的色彩が濃厚であるといえる。


 このように経典そのものが老荘の色彩を帯びているのであるから、これを依拠として行われる仏教の解釈が老荘風になるのは当然のことであろう。東晋時代に、老荘の無を通じて般若の空を理解しようとする試みが盛んになったのは、この格義の風潮の現れの一つにほかならない。




心無義


「種智の体は、豁として太虚の如し。虚にして能く知り、無にして能く応ず。宗に居りて極に至るは、其れ唯だ無か」


「心無とは、万物に無心ならば、万物は未だ嘗て無し。此れ得は神静に在りて、失は物虚に在り」


「心を空にするも、色を空とせず」


「外物を空とせず、即ち外物の境は空ならず」


老荘には心を無にすることによって物への執着を断つといった考えはない。むしろ心を虚にして万物を迎えいれるということこそ、老荘の思想である。


もともと現実主義の傾向が強い中国人にとっては、眼前に見る有形の万物の実在を否定することに、強い抵抗が感じられたに違いない。心無義は、このような中国人の心情との妥協の結果として生まれたものであろう。




即色義


「色の性というものは、それ自体として存在するものではない。色は自性を持たないものである。色がそれ自体として存在しないものとすれば、たとえ色として現前していても、それは空である。だから、色はそのままに空であるとともに、色はまた空に異なる側面をもつものだ」


「色はそれ自体として存在するものではない。だから、たとえ色として現れていても、それは空に対立する色ではない。ということを明らかにしようとする。だが、およそ色というのは、その現前に現われたままの色をさすのであって、色をして色たらしめるもの(自性)があってはじめて色となるものではない。この即色義は、ただ、色がそれ自体として存在するものではない、というだけで、まだ色が(そのまま空であり)色でないことを了解していない」




本無義


「無は造化の先にあり、空は衆形の始めである。だからこれを本無とよぶ。凡人は多く末有に執着しやすいのであるが、もし心を本無におけば、このような煩いはなくなる。本を崇べば末をなくすことができるとは、このことをさすのである」


「本無とは何か、。まだ万物が現れないとき、先ず無があった。だから、その無から有が出たことになる。いいかえれば、無は有の先にあり、有は無の後にある。だから本無とよぶのである」


「本無の立場にある者は、その心に無を尊ぶものが多い。何かといえば無を導き入れる。有を否定すれば、有は無になり、無を否定すれば、無はまた無となる。すべてが無になるのである」




空義解釈


「有の観念は、無のそれに対して立てられたものであり、無の観念は有のそれに対して立てられたものである。・・・したがって有の観念は無のそれから生れるのであり、無の観念は有のそれから生れるものである。有を離れては無はなく、無を離れては有もない。有無の観念は、互いに相手を生みだすのであって、それはあたかも高と低の両観念が互いに相手を生みだし、高があれば必ず低があり、低があれば必ず高があるのと似ている。とすれば、有と無とは、互いに異なるとはいうものの、相互に依存するという点からいえば、いずれもまだ有から免れているものではない」


「煩悩を生ずる原因としては、有より大なるものはない。その有を否定する語としては、無にまさるものはない。だから無という語を借りて、有が存在しないことを明らかにするまでのことである。有の非存在を明らかにすることが目的なのであって、無というものが存在することをいうのではない」


「ありのままの真実に即していえば、有無の差別を設けるのは邪観であり、無差別に斉しく観れば、己と彼とは二つのものでなくなる。だからこそ天地は我と同根であり、万物は我と同体である、ということになる」




 老子は「有は無より生ず」といった。万物の始めに無をおいたのである。しかしそれに対して荘子は反論する。「始め」という以上は、その「始め」に先行する「始め」がなくてはならない。つまり「無」がまだなかった「無のない状態」「無無」がその始めにあったはずである。さらには、その「無無」がなかった「無無無」があったはずである。このように無限に否定を積み重ねて行かなければならないのであるから、結局、万物の始めに固定した無をおくことは誤りであることがわかる。


 したがって荘子の無は、無というよりは無極、無限とよぶのが正しい。無限のひろがりの中では、此と彼、前と後、左と右といった場所の対立差別は消失するばかりでなく、善悪美醜といった価値の差別もその意味を失い、すべてが斉しく、すべてが一になってしまう。これは無限のもつ否定的な働きである。しかし否定ばかりではない。無限とは、文字通りに限りなく万物を包容するものであるから、有無のいずれをも排除することなく、すべてを無差別に肯定する。これが万物斉同の説とよばれているものにほかならない。


 僧肇以前の仏教者は、老荘を学んだとはいえ、それは主として老子に偏しており、荘子の万物斉同の説を理解したものはきわめて稀であったと思われる。この時代に流行した郭象の『荘子注』でさえ、斉物論篇の理解が十分でない怨みを残しているのであるから、これは誠にやむを得ないことであった。この間にあって、ひとり僧肇は荘子の万物斉同の理をよく理解し、これを通じて般若の空義に達することができたと見ることができる。


 あるいはまた逆の見方をすれば、羅什やその訳経の導きによって空義の本質に到達したことが、荘子の万物斉同の説を理解することに役立ったともいえよう。いずれにしても、僧肇に至ってはじめて般若の空義の理解が本格化するとともに、荘子もはじめて真の知己を得たということができる。




(森 三樹三郎)