< 音声と音楽的才能 >
〜 ダーウィン 〜
ある種のサル類では、成熟すると声の強さや発声器官の発達に著しい性差がみられる。そして人間はこの性差をはるか昔の先祖から受け継いでいるようである。男の声帯は、女や男児よりも約三分の一だけ長い。去勢されると、動物を去勢した場合と同じ効果が現われるが、これは、オーウェンによれば、「生態の伸長に伴う甲状軟骨などの発達が著しく阻止される」からである。
発声器官における男女差の原因について、私は前の章で、おそらくそれは男たちが、恋とか、怒りとか、嫉妬などで興奮した際に、発声器官を長時間にわたって使いつづけた結果ではないか、と述べておいたが、それで十分だと思う。ダンカン・ギャップ卿によれば、声や喉頭の形は人種によって異なるということであるが、タタール人や中国人の声の男女間の違いは、他の人種ほどひどくないといわれている。
歌えたり、演奏ができたり、それらを好むことは、人間の性的形質とはいえないが、ここでそれを無視することはできない。あらゆる種類の動物が発する音は、いろいろな目的に役立っているが、発声器官は最初は種の繁殖ということに関連して使用され、完成されたのだという事実がはっきり認められている。意識的に音をだす動物のうちで最も下等なものは、昆虫とか、二、三のクモ類である。その音はみごとな構成をもった発音器官からだされるのが普通であるが、その器官はオスだけにしかない場合が多い。このようにして発せられた音は、リズミカルに繰り返される同じ調子から成っており、どの例でもそうだと私は確信している。しかも、その音は人の耳を楽しませることさえある。その主たる目的、種によっては唯一の目的とするところは、異性を呼んだり、魅惑したりすることにあるらしい。
魚がだす音は、魚によっては、繁殖期だけに、しかもオスだけに限られるのだといわれている。空気呼吸をする脊椎動物はすべて、空気を吸ったり吐いたりする装置を必ずそなえているが、その装置には一方の端を閉じることの出来る管がついている。だから、この仲間の原始的なものが強く興奮し、筋肉が激しく収縮したときには、別に目的がなくても音がでるのはおそらく当然のことであろう。そして、この音がなにか役にたつことが分かれば、うまく適応した変異を保持することによって、変えられたり、さらに強められたりするのは簡単なことであったろう。
空気を呼吸する脊椎動物中、最も下等なものは両生類であるが、そのなかで発声器官をもつものはカエルとヒキガエルである。その発声器官は繁殖期間中は絶え間なく使われ、メスよりオスでそれがはるかによく発達していることが多いのである。カメはオスだけが音をだすが、それも恋の季節の間だけのことである。ワニのオスもやはり同じ時期に唸り声をたてたり吠えたりする。だれも知っていることだが、発声器官を求愛のてだてとして用いない鳥はいないし、ある種の鳥が、器楽といってよいようなものまで奏でるのも、この目的のためである。
ここでわれわれが特に関心をもつ哺乳類についてみると、ほとんどすべての種のオスが、繁殖期には他の季節よりもはるかによく声を使う。繁殖期以外の時期には、全く声をたてないものさえある。また、愛の呼び声として声をだすのがオスもメスもという種もあれば、メスだけの種もある。これらの事実を考え、またある四足獣の発声器官は、一生を通じてという場合も、繁殖期だけという一時的の場合もありはするが、メスよりもオスで非常によく発達しているという事実を考え、さらにより下等な網に属するたいていの動物では、オスのだす音はメスを呼ぶだけではなく、メスを興奮させたり誘惑したりするのに役立つことなどを考え合わせると、哺乳類のオスがメスを魅惑するために発声器官を使うのだということを示すよい証拠が、まだ一つもないのは驚くべきことである。
南アメリカ産のクロホエザルと、人間の近縁の類人猿の一種であるアジールテナガザルは、この例外のようである。このテナガザルの声はじつに大きいが、それでいて音楽的である。ウォーターハウス氏は、「音階を上げたり下げたりするとき、音程はいつも正確に半音ずつであったように私は思えた。そして、いちばん高い音といちばん低い音との間は、ぴったり一オクターブだったことは確かだ。声の質はじつに音楽的で、じょうずなヴァイオリニストなら、あれほど大きな音はだせないにしても、テナガザルの曲がどんなものかを正確に伝えることができるにちがいない」といって、その楽譜を示している。音楽家でもあるオーウェン教授は、ウォーターハウス氏のいうことを認め、「野生の哺乳類のうちで歌をうたうのは、この種のテナガザルだけだ」といっているが、これはまちがいだ。このテナガザルは歌ったあとでひどく興奮するらしい。残念ながら、彼らの自然状態での習性はまだ詳しく観察されていないが、他の動物の例から考えて、彼らの音楽的能力は、特に求愛の季節によく用いられるのであろう。
アジールテナガザルが、テナガザル属のなかで歌をうたう唯一の種だというわけではない。というのは、私の息子のフランシスは、ロンドン動物園で、シロテテナガザルが、三つの音色からなる一楽章を全く音楽的な音程で、しかもはっきりと音楽的な調子で歌っていたのを、注意して聞いたことがある。
もっと驚いたことには、ある種の齧歯類が音楽的な音をだすのである。歌うハツカネズミのことはよく話題にのぼったり、見世物にもされているが、ペテンだろうと疑う人が多かった。しかし、ついにわれわれは著明な観察者であるS・ロックウッド氏によって、イギリスのハツカネズミとは属は別であるが、アメリカ産の一種のハツカネズミの音楽的能力についての明快な説明を聞くことができた。この小さな動物は檻に入れられていたが、その歌声は何度も聞かれたのである。歌っている二つのおもな歌の一つは、「最後の小節が、たびたび二、三小節のばされる。嬰ハ調とニ調で歌っているのを、ときにはハ調とニ調に変えて、しばらくこの二つの節で歌い、最後にまた嬰ハ調とニ調にもどって、すばやくチュッと鳴いてやめる。その半音ずつの区別はじつにはっきりしていて、耳のよい人なら容易に聞き分けることができる」。ロックウッド氏はその歌を二つとも音譜にとり、この小さなハツカネズミは、「リズム感はないが、(フラット二つの)ロ調を保ったし、また正確に長調を保った」。また、「その柔らかい澄んだ声は、正確無比にちゃんと一オクターブ下がり、最後に嬰ハ調とニ調の非常に速いトレモロとなって再び上がって終る」とつけ加えている。
ある批評家は、人間の耳、本来なら他の動物の耳についてもいうべきであるが、それがいったいどうして淘汰によって音楽的な音を聞き分けられるように適応することができたのかという問いを発した。しかし、この質問は問題を若干混乱させている。騒音といわれるものは、種々の周期をもついくつかの空気の「単振動」が同時におこる結果生ずる感覚であり、それぞれの単振動は、その一つ一つの存在が感知されないほど何度も中断されるのである。騒音が音楽的な音と違うのは、騒音にはそのような振動の連続性が欠けていて、個々の振動の間に調和がないという点だけである。
このような騒音を聞き分ける耳(この能力がどんな動物にもきわめて重要であるということはだれもが認めている)は、音楽的な音にも敏感であるにちがいない。ずっと下等な動物でもこの能力をもちあわせているという証拠がある。事実、甲殻類がもっている長さのまちまちな聴毛は、特定の音楽がなると振動するということがわかっている。蚊の触角の毛についても同じことが観察されている。クモ類が音楽で惹き寄せられるということは、すぐれた研究者たちが確信をもって主張するところである。ある種の犬は、特定の音を聞くと吠えるということも、よく知られている事実である。またアザラシ類も音楽を鑑賞するものらしく、彼らが音楽を好むことは、「昔の人もよく知っていたし、現在でも猟師はその習性をよく利用している」
したがって、ただ音楽的な音を感ずるということだけについていえば、人間でも他のどんな動物の場合でも、それは特にむずかしいことではないようである。ヘルムホルツは、和音がなぜ人の耳に快く、不協和音がなぜ不快に感じられるかを生理学上の原理から説明している。しかし、調和した音楽というものはずっと後になってつくりだされたものだから、その問題はわれわれとは関係ない。われわれがもっと関心を寄せているのはメロディであるが、これもまたヘルムホルツによれば、われわれの音階の音符がなぜ用いられているかということがわかるのである。
われわれ自身はそれに気づいていないが、耳はあらゆる音を、それを構成している「単振動」という各要素に分析している。音楽的な音で優位を占めるのは、普通は単身音のなかで音度の最も低いものであり、それについで優位なものは第八音、第十二音、第十六音など基礎的な優位な音とのあらゆる調和音である。音階のうちでどの二音をとってみても、これらの調和的な倍音をたくさん共通にもっている。それで、もしある動物がいつも同じ歌を正確に歌いたいと思うならば、その動物はたくさんの倍音を共通にもつ音を次々にだして、そこまで達するだろうということはかなり明らかだと思われる。つまり、彼は自分の歌をうたうためには、人間の音階に属する音を選ぶだろうというわけである。
しかし、さらに、なぜある順序やリズムのある音楽的な音が人間や動物を喜ばせるかときかれても、われわれはなぜある種の味やにおいが快いかときかれたときと同じくらいの理由しかあげることができないのである。それが動物たちに一種の喜びを与えることは、多くの昆虫、クモ類、魚類、両生類、鳥類が、求愛の季節になるとそういう音をだすことから推測できるのである。なぜならば、もしメスたちがそういった音を鑑賞でき、それによって興奮し、魅せられるということがなかったならば、オスたちの執拗な努力とか、またしばしばオスだけがもっている複雑な構造などは無益なものになってしまう。そのようなことはとうてい信じられないからである。
人間のうたう歌が器楽の基礎をなすものであり、その起源だと一般に考えられている。音楽的な音をだすのを楽しみ、またそれをだすことができるということは、どちらもわれわれの日常生活にはなんの役にもたたない能力であるから、それは人間が授かっている能力のうちで最も不思議なものの一つであるといわなければならない。こういう能力はたいへん単純ではあるが、どんな人種の人々にも存在するもので、最も未開な人種さえそなわっている。もちろん、趣味というものは人種によって非常に異なっているので、われわれの音楽を聞いても未開人は喜ばないし、また、未開人の音楽は、われわれにとってはたいていの場合、身の毛のよだつ、くだらないものに思えるのである。
シーマン博士はこの問題に関しておもしろいことを書いているが、そのなかで、「互いに緊密に、しかも頻繁に交流するなど、深い関係にある西ヨーロッパの国々の間さえ、ある国民の音楽が他国の音楽の人々に感覚的に同じように受けとられるかどうかは疑問である。東の方へ旅すると、違った音楽のことばが確かに存在することがわかる。そこでは、喜びの歌とか踊りの伴奏などは、ヨーロッパのもののようにもはや長調ではなく、きまって短調である」といっている。
半動物的な人間の先祖が、歌うテナガザルと同じように音楽的な音をだし、したがってそれを鑑賞することができたかどうかについては、人間がこのような能力を非常に古くからもっていたことが明らかになっている。ラルテ氏はフリント製の石器や絶滅した動物の遺骸といっしょに、洞窟の中でトナカイの骨や角で作った二本のフリュートが発見されたことについて書いている。歌とか踊りとかいった技術も、やはり非常に古く、今では最も未開な人種の全部、もしくはそのほとんどに認められる。詩は歌から生れたと考えられているが、これもまたじつに古いもので、有史時代の最も初期に早くも発生していたらしいということを知ると、たいていの人は驚かざるを得ないだろう。
音楽的才能を全く欠いている人種というものは一つもなく、またそれは、急速にかつ高度に発達をとげることができるものなのである。というのは、ホッテントットやニグロは、彼らの生まれた地方では、われわれからみて音楽らしいものをほとんどもっていないにもかかわらず、すぐれた音楽家になるからである。しかし、シュヴァインフルトはアフリカの奥地で、ある単純な曲を楽しく聞くことができたといっている。
しかし、人間のなかに眠っている音楽的能力には変則的なものは少しもない。自然状態ではけっして歌わない種の鳥にさえ、歌を教えこむことはそれほどむずかしいことではない。たとえば、ある種のスズメはベニヒワの歌を覚えた。この二種は近縁であり、世界じゅうの鳴禽がほとんど全部属しているところの燕雀目に属しているから、スズメの先祖が歌い手であったという可能性は高いのである。もっと注目すべき事実は、この燕雀目とは別の目に属し、発声器官の構造も異なっているオウムが、しゃべるのをしこまれるだけでなく、人間のつくった曲を歌ったり囀ったりすることである。だからオウムは、ある音楽的な能力をもっているにちがいないのである。
だからといって、オウムがかつて歌い手であった昔の先祖から派生したと想定するのは軽率すぎる。初めはある一つの目的に適応した器官や本能でも、のちには別の目的のために用いられる例はたくさんあげることができるからである。そこで、未開人種が音楽的に高度なところまで発展することができるということは、人間の半人的な先祖が、ある稚拙な音楽を奏したことによるか、あるいはたんに、彼らがある他の目的のために独特な発声器官を獲得したことによるかのいずれかであろう。しかし、このあとのほうの場合だったとしたら、いま述べたオウムの例のように、また多くの動物でもそうらしいが、彼らはある程度のメロディーの感覚をもっていたと考えなければならない。
人間は音楽によっていろいろな感情をかきたてられるが、その感情は、恐怖、不安、激怒などのような激しいものではなく、優しさとか愛とかいったような、より穏やかな感情で、その気持ちはすぐに三昧境といった境地にまで発展してゆくのである。中国の書物に、「音楽は天地を覆す力を有す」ということばがある。音楽はまた、われわれに戦いの勝利感や栄光に満ちた情熱を喚起する。力強く、いろいろにからみあったこういう感情は、よく崇高な感じを呼び起こすこともできる。シーマン博士が観察したように、われわれは何ページにも及ぶ書物よりも、ただ一曲の音楽のなかに、はるかに大きな感情の高まりを凝集させることができるのである。
鳥のオスがメスを手に入れようとして、他のオスたちと争って精いっぱいに歌うとき、おそらく人間とほとんど同じような、だがそれよりはずっと弱くて、もっと単純ではあるが、ある感情を感じとっているのであろう。われわれの歌でも、最もありふれた主題は、やはり愛に関するものである。ハーバート・スペンサーがいうように、「音楽は、われわれの想像もつかない、また意味も知らない、眠っている感情を呼び起こし、また、リヒターのいうように、今まで見たこともないし、今後も見ることのないようなことをわれわれに語るのである」。それとは逆に、演説をする人が激しい情感を感じ、それを表現しようとするとき、あるいはまた普通の会話のときでさえ、音楽的な調子やリズムが本能的に用いられているのである。リードによれば、アフリカのニグロは興奮すると突然歌いはじめ、「他の人がそれに歌で答え、居合わせた人のすべてが、まるで音楽の波に触れでもしたかのように、完全な調和をもって合唱する」
サルでさえ、いろいろな強い感情を別々の調子で表現する。・・・怒りやあせりは低く、恐怖や苦しみは高い調子で。このように、音楽によってわれわれのなかにおこったり、また演説の調子によって表現されたりする感情や観念は、曖昧であるが深みがあるという点から考えると、太古の感情や思想への心理的な先祖返りとみなすことができよう。
音楽とか熱のこもった演説などに関してこういう事実は、あらゆる動物が、愛だけでなく、嫉妬、競争、勝利などの激しい感情によって興奮するような求愛の時期に、人間の半動物的な先祖もまた音楽的な調子やリズムを用いたのだと仮定するならば、ある程度まで理解できるのである。こういう場合の音楽的な調子は、遺伝した連想の深遠な原理によって、遠い昔の強い感情をぼんやりと呼び起こすものらしい。
有節言語というものは、人間が獲得した技術のなかでも最も高度で、かつ最も新しいものの一つであると考えるだけの理由が十分そろっている。一方、音楽的な調子やリズムをだす本能的な能力は、どんなに下等な動物にも発達している。だから、人間の音楽的能力は熱のこもった会話のなかで用いられた調子から発達してきたという考え方は、進化の原則に全く反することになるのである。話をするときのリズムや調子は、それ以前に発達した音楽的な能力から生じたものだと考えられなければならない。このようにして、音楽や踊りや歌や詩などがどうしてそんなに古くから始まった技術であるかという理由を知ることができるのである。さらに一歩話を進めて、すでに述べたように、音楽的な音は言語の発達にとって一つの基礎となったと信じてよいだろう。
ある種のサル類のオスは、メスよりはるかによく発達した発声器官をもっているし、類人猿の仲間であるテナガザルの一種は、一オクターブの音階を全部だして歌うともいえるから、人間の先祖の男または女、あるいは男女ともに、有節音による会話で互いに愛をうちあける能力を身につけるまでは、音楽的な調子やリズムで相手を魅惑しようと努力したということがあったかもしれない。サル類は愛の季節に声を使うが、それについてはほとんどなにもわかっていないので、歌うという習性を最初に獲得したのはわれわれの先祖の中の男性なのか女性なのかを判断する手がかりはなにもないのである。
女の声は男の声より甘いと一般に考えられているが、もしこれを一つの手がかりとして判断すれば、初めは女たちが異性を惹きつけるために音楽的な能力を獲得したのだと考えることができる。しかし、もしそうだとすれば、それは遠い昔の出来事で、われわれの先祖が女をたんに有益な奴隷として扱ったり、またそのようにみなしたりするほど十分に人間らしくなる以前におこったことでなければならない。熱情に駆られた演説家や詩人、または音楽家が、声を変え、調子を上げたり落としたりして、聞き手に深い感動を与えているとき、彼らは、自分が、遠い昔に半人間的な自分の先祖が求愛や争いに熱烈な情熱を燃やしたときと同じ方法を用いているのだというようなことは、考えもしないだろう。
(「人類の起源」より 1871年 明治四年)