< 原子爆弾 と 非暴力 >


〜 ガンジー 〜






 「原子爆弾は、暴力を抑止してはいない。 人々の心はそのことで一杯になり、第三次世界大戦の準備はむしろそれによって進行していると言うべきかもしれない。 暴力が人類に平和をもたらしたなどと言うのは馬鹿げた事であるだけでなく、暴力が何かをなしとげたなどとは、決して言うことはできない・・・。

 インドにおける非暴力の実験は、かなりの程度成功したと私は考えている。 それゆえ、この質問に示されているような悲観主義が入り込む余地は無い。

 最終的には非暴力こそが、いかなる力もこの地上から拭い去ることのできない、世界の偉大な原理のひとつとなるのだ」


〜 1945年5月9日 〜




 「世界に激変が起こった。 それでもなおわたしは、真実と非暴力とを信奉しつづけていられただろうか。 原子爆弾はわたしの信仰を爆破してしまわなかっただろうか。

 それは爆破されなかった。 それのみではない。 真実と非暴力というこの双生児が、世界における最も強大な力であることがいっそう明らかになった。 その前には原子爆弾もかたなしである。

 二つの相反する、まったく種類を異にした力がある。 一方は道徳的な精神の力であり、他方は物理的な物質の力である。 前者が後者よりすぐれていることはくらべるまでもない。 他方にはその本性上終わりがあるが、一方の精神の力はつねに前進してやまないし、終わりがない。 もし完全に開花すれば、それはこの世界における征服すべからざる力となろう。

 こう言ったからといって、わたしは、とりたてて目新しいことを述べたわけではない。 ただ、事実の証人となったにすぎない。 なお、精神のすぐれた力は皮膚の色になんら関係なく、男にも、女にも、子供にも、あらゆる人々のなかに宿っているということをつけ加えておきたい。 ただ多くの人々においては、それが休眠状態にあるというだけのことであって、思慮分別をもった訓練によって休眠から目ざめさせることが可能である。

 さらにわたしは、この真実を認め、この真実を実現するためにそれ相応の努力を払わなければ、自己破滅からの逃げ口はどこにもないと言いたい」


〜 「原子力戦争」 1946年2月10日付 〜




 「原子爆弾によって、他のいかなるものによってもできなかった非殺生(アヒンサ)がもたらされることになるであろう、 ということがアメリカの友人たちから言いだされている。

 友人たちの言うことが、原子爆弾の破壊力にいや気がさしたので、世界はここしばらく暴力から遠ざかることになるだろう、ということを意味するのならば、たしかにそうかもしれない。 だがそれは、うまいご馳走を吐き気がするほど食べた人がテーブルに背を向け、むかつきはおさまると、また旧に倍する食欲でテーブルに向かうのと非常によく似ている。 まったく同じように、世界はいや気が解消すれば、勢いを新たにして暴力へと立ちもどるにちがいない。

 わたしが見るかぎりでは、原子爆弾のために、これまで長いあいだ人類を支えていた高尚な感情が死滅させられてしまった。 これまでは、いわゆる戦争の法則というものが存在して、そのために戦争にもゆとりがあった。 今日の戦争はむきだしの戦争である。 戦争には実力の法則以外の法則はいっさいなくなった。

 原子爆弾は、連合国の武器に空虚な勝利をもたらしたにすぎなかったのである。 そしてここしばらく、日本の魂は破壊されてしまっている。 爆弾を投ぜられた国の魂にどのようなことが起こるか、ほんとうにわかるにはまだ時期は早い。

 もろもろの自然力は神秘的に作用するものである。 これについて私たちは、類似している事件から生み出されたもろもろの既知の結果によって、未知の結果を推論しながら神秘を解くよりほかないのである。 奴隷所有者が奴隷をつなぎおくには、奴隷を入れておく檻の中に、自分か代理かが入らなければならない。

 日本が下劣な野心を貫こうとして行なった犯罪をわたしが弁護しようとしている、と早合点しないでもらいたい。 違いは程度の差であった。 日本の強欲のほうがいっそう下劣であるとしよう。 しかし、日本がどんなに下劣であったとしても、日本の特定地域の男、女、子供たちを、情け容赦もなく殺してしまうという下劣なことをやってよい権利はだれにも与えられていなかったのだ。

 原子爆弾がひき起した最大の悲劇からひきだせる正しい教訓は、ちょうど暴力が対抗的な暴力によっては打ち破られないように、原子爆弾も原子爆弾の対抗によっては破壊されないということである。 人類は、非暴力によってのみ、暴力から脱出しなければならないのである。 憎悪は愛によってのみ克服される。 対抗的な憎悪は、ただ憎悪を深め、その表面を広げるのみである。

 わたしは、これまで幾たびとなく述べたことであり、またわたしの能力の限りをつくして実践してきたことを、ここでまたもくり返しているのだということに、とうに気づいている。 わたしが冒頭に述べたことは、それ自体、新しいことではなく、山のように古いものである。 だが、わたしはただ平凡なことわざを述べたのではなかった。 わたしは心に固く信じていることを、はっきりと発表したにすぎない。 これまでの六十年間、人生の数々の場面でわたしが行なってきた実験によって、この信念は豊かになったし、またわたしの友人の経験によって、強固なものになった。 何年か前に、マックス・ミュラーが述べたこと、すなわち、信じない人がいるあいだは、真実はくり返される必要がある、ということをわたしは固く信じている」


〜 「原子爆弾、アメリカと日本」 1946年7月7日付 〜