< 手に手をとって >
〜 楽園喪失 〜
「栄光(はえ)ある予見者よ、あなたはまさに瞬く間にこの転変常なき世界の歩みを、
時の流れを、その時がとまるときまで測られ、予言されました!
その彼方は、すべてこれ茫漠たる深淵、
・・・誰もその極限を見ることのできない永遠の世界です。
私は、かくも大いなる教えを受け、かくも大いなる心の平和をえた今、喜んでここから出て行こうと思います。
私は、人間としてのこの器に盛りうる限りの知識を、充分にえたと思います。
かつてこれ以上のものを望んだことは、私が愚かであったからです。
今後は、順(したが)うことこそ最善であり、唯一の神を畏怖をもって愛し、常にその御前にあるものの如く歩み、
絶えずその摂理を信じ、すべての被造物に恵みを垂れ給う神にひたすら依り頼み、常に善をもって悪に打ち勝ち、
・・・一見弱そうに思えるものをもってこの世の強大なものを破り、
柔和な無邪気さをもって世俗的な知恵を破るといった風に、小事をもって大事をなしとげ、
また、真理のためには苦難に堪えることこそ最高の勝利にいたる勇気そのものであり、
信仰をもっている者にとっては死も永遠の生命にいたる門にすぎない、ということをしっかり学んでゆきたいと思います。
私はこれらのことを、げにわが主、永久(とこしえ)に栄えあるわが贖罪主、と今こそ拝みまつるあの救主の示し給うた範例によって、教えられました」
これに対して、天使は最後に次のように答えた。
「それが理解できた以上、お前は最高の知恵をえたということができる。
もうそれ以上の高い望みをいだいてはならない、
・・・よしんばお前がすべての星の名や、すべての天使や、すべての永遠の秘密や、すべての自然の現象、
つまり天と空と地と海における神の造り給うたもの、を知り、この世のすべての富や、すべての支配権や、
一大帝国を手中に収めることが今後できたとしてもだ。
必要なことは、ただひたすらお前の知識に、それにふさわしい行為を加え、信仰を加え、美徳と忍耐と節制を加え、
さらに、やがて聖き愛という名称で呼ばれるはずの、そして他の一切のものの魂でもある愛を、加えることだ。
そうなれば、お前もこの楽園から出てゆくことを嫌とは思わないであろう。
自分の内なる楽園を、遥かに幸多き楽園を、お前はもつことができるからだ。
だから、われわれもこの見晴らしのきく山頂から降りようではないか。
厳重に定めれれた時刻が迫っており、われわれはここをすぐに立ち去らねばならないのだ。
アダムよ、見るがよい!
彼方の丘には、わたしの命令をうけて屯(たむろ)している天の軍勢が、出動の指図を今か今かと待っている。
彼らの前面に、焔をあげて燃えている剣が激しく打ち振るわれているのが、お前にも見えよう。
あれは出発の合図だ。
われわれにはもはや一刻の猶予もない。
お前はすぐイーヴの所にいって起すがよい。
わたしは、彼女に吉兆を告げる夢を見させておいた。
その静かな夢を見ているうちに、心も和らぎ、素直で従順な心構えもできたはずだ。
適当な時間を見計らって、今わたしから聞いた話を、特に彼女の信仰にとって知っておくべきことを、
・・・つまり彼女からやがて生まれてくる子孫によって(前から言っている『女の末裔』によって)、
全人類が救われるということを、充分に伝えておいてもらいたい。
そうすれば、お前たち二人は、今後の長い歳月を同じ一つの信仰に結ばれて生きてゆくことができよう。
やむをえないことだが、過去の罪のために悲しみが伴うかもしれないが、
幸多き終わりを思うことによって、それを超え、さらに心楽しく生きてゆけよう」
天使は語り終わった。二人は共に山を降りた。
山を降りるや否や、アダムはイーヴが眠っていた四阿(あずまや)の方へ天使より先に駆けていった。
彼女は、すでに眼を覚ましていた。
そして悲しさなど微塵もない言葉遣いで語りかけ、彼を迎えいれた。
「あなたがどこへ行き、どこから帰ってこられたか、私は知っています。
神は眠りのなかにも常に在(いま)し給う方であり、夢はいろいろなことを私たちに教えてくれます。
神は慈悲の心からそのような夢を送り、そのなかで、悲歎と心の悩みに疲れ、
眠り込んでしまっていた私に、或る喜ばしいことを告げられました。
とにかく、今こそ先に立って私を導いてください。
私はもはや躊躇(ためらい)はありません。
あなたと一緒なら、ここを出ることはここに留まることです。
あなたと別れてここに留まることは、心ならずもここを出てゆくことと同じです。
あなたは私の身勝手な罪のためにここを追放されるのです、
・・・今の私には、あなたこそ、大空の下におけるすべてであり、すべての場所なのです。
私のせいですべてが失われたとはいえ、私から生まれるあの約束された御子が、すべてを回復し給うという、身に余る恩寵(めぐみ)を示された今、
私はその慰めを心にしっかりと抱いて、ここを立ち去りたいのです」
われわれ人類の母なるイーヴはこのように話した。
聞いていたアダムは心から喜んだ。だが何も答えなかった。
すぐそばに大天使が立っていたからだが、しかも、燦然たる隊伍を整えた智天使の一隊が、彼方の山から定められた見張りの場所へと、
流星の群れさながらに地面を流れるように降りてきたからだ。
その有様は、川から立ちのぼった夕霧が沼の上を漂ってゆき、
家路を急ぐ農夫の踵にまつわりつきながら素早く流れてゆくのに似ていた。
天使たちの面前では神の剣が高く掲げられ、打ち振るわれていた。
その激しく燃える様子は彗星のようであった。
剣はやがて猛烈な白熱とリビア砂漠の焼けつく大気にも似た熱気を発し、
今までの温和なあたりの風土を焦がし始めた。
それを見たミカエルは、なおも躊躇しているわれわれの祖アダムとイーブを、
左右の手で大急ぎでかかえるようにして把え、
一刻の猶予もなく東の門の方へ、そしてそこから、さらに急坂をくだって下の遥かかなたに横たわっていた野原へと、大急ぎで連れていった。
そして、そこまでくると天使の姿は消えてしまった。
彼らは、ふりかえり、ほんの今先まで自分たち二人の幸福な住処の地であった楽園の東にあたるあたりをじっと見つめた。
その一帯の上方では、神のあの焔の剣がふられており、
門には天使たちの恐ろしい顔や燃えさかる武器の類が、みちみちていた。
彼らの眼からはおのずから涙があふれ落ちた。
しかし、すぐそれを拭った。
世界が、
・・・そうだ、安住の地を求め選ぶべき世界が、今や彼らの眼前に広々と横たわっていた。
そして、摂理が彼らの導き手であった。
二人は手に手をとって、漂白(さすらい)の足どりも緩やかに、
エデンを通って二人だけの寂しい路を辿っていった。
ミルトン