< 大震災と仏教 >




 今回の大震災は一種の天譴であるとは能く人の言う所である。果して左様であろうか。吾人は寧ろこれを自業自得と感ずるを至当と思うものである。

 蓋し地震国たる日本としてはあの位の大地震は百年に一回位あるのは寧ろ自然の数で而もあの位の地震となれば火災を伴うべく、火災の結果として木造家屋の櫛比せる都市にありては容易に大火となるべきも亦自然の数であって、敢えてこれを特殊の天意に帰すべき理由がないからである。一体、自然の運行を以て常に人類に対する恩恵を主体とするものと考えるは大なる錯誤である。いかにも人類は自然なしには生きて行かれぬけれども、之と同時に自然は絶えず人類の生存を脅かすの原因たることを忘れてはならぬ。この意味に於いて人類対自然の関係は一面に於いては恩恵関係であるけれども、他面に於いては、絶えざる闘争関係であるということも出来よう。従って人類は苟もその生存を全うせんとする限り、自然に対して常に和戦両様の態度を以てかからねばならぬも勿論である。この用意を覚に於いては遂に恐るべき自然の詭計にかかりて辛き目を見ねばならぬ。若し世に世界苦なるものありとすればこの関係における苦痛はその最も大なるものの一であらねばならぬ。印度の数論哲学の如きは世界苦の第一に所謂、依天苦(自然による苦)を挙げているが吾人は之を至当のことと思う。


 そこで今、この関係に照らして今回の災変を見ればいかにというに、勿論、詔書にも仰せられたように人力を以て予防し難き不測の天災ではあるけれども、また深刻なる意味に於いては吾人の不注意の結果であるということも出来る。即ち吾等は従来、余りに自然の平和的方面にのみ慣れてその戦闘的方面を忘却し、それに対する防御忘れた酬いと解することが出来るのである。日本は世界に於ける有名なる地震国であり、殊に関東一帯は昔より屡々大小の地震に襲われその都度、相当の被害のあったことは、記録の吾人に明示する以上、言わば自然は常に今回の大事変に対する予告を与えつつあったに関わらず、吾等は之に多くの顧慮を費やすことなく漫然とその和平に信頼して特殊の防備を施すことなくして通過して来たからである。殊に京浜にありては目前の急に逼られて何等の基礎的計画もなく漫然、雑然と粗末な家屋を併立し遂には抜き差しの出来ない程の状態に到らしめたこととて一朝大地震の来るあらば・・・必ずしも地震に限らず、大暴風の際、不幸数カ所に出火あるか又は空中から数十カ所に爆弾の投下あらば・・・忽ちにして今回の如き惨事を来たすべきや心ある人ならば容易に気付き得べき筈ではなかったか。然るに上言った始末で今日に及びてその酬いを受くるに到ったのは自業自得と言わないで何と申されよう。


 仏教では業と果報との関係を個人的と共通的とに分けるが、今回の如きは正しくその共通的なもので、即ち術後で言えば供業所感であらねばならぬ。そは今回の災害に対する平常不注意の責は日本人、全体にあったからである。直接当面の殉難者には、誠に気の毒ではあるけれども、この共同責任に対して或意味からすれば、彼等はその犠牲に任じたものと言うべきであろう。従って亦言うまでもなく、今回の災害によりて苦める人々を救済し、災後の復興改造に任ずべきもまた日本人全体の義務で、言わば彼等の代表となれる犠牲者に対する弁償たるや勿論である。






 今回の災害の道徳的意義は、端的に言えば前述の自業自得の理を最も明に而も手厳しく吾等に啓示してくれた所にある。蓋し今回の震災にして、可程までの災害に到らずして止み僅かに数十家の倒潰や数カ所の発火位に止まらしめば、とかく姑息偸安に流れ易き吾等は、その反省に於いても極めて軽微で、直ちに忘却し、依然として自然を甘く見て、一時凌ぎに満足し、而も実際に於いては絶えざる不安の種を後昆に残すことになるからである。然るに幸か不幸か今回の災害は実に世界史に於いても殆ど未曾有と称せらるる程の惨状で、従って自然の恐るべき印象も独り現在の吾等のみならず長く子孫にまで及び、爾後、長く自然を甘く見るの風習が止むであろう。而してこの自然の怒りの容易ならざることを悟るのは日本人にとりてその生存と繁栄との上に於いて最も必要な条件であらねばならぬ。

 由来、日本人は口を開けば気候温和、山紫水明と誇ることを知っているけれども、他方面に於いて日本は自然の上に於いて必ずしも恵まれた国土ならざるの事実をとかく忘れ勝である。従って自然をいかに征服して之を吾等の生活上有利に導くべきかの工夫の最も欠けていたのは、今更言うまでもない所である。動もすれば暴風雨に苦み水害に悩まされ、而して今回の如き大地震に逢うのも所詮、この結果に外ならぬ。このことを思えば、今回の事変はこの点に関する最も能き教訓で、また数百千年の後のことを思えば、一種の幸福と言うべきであろう。


 況や之を国民的試練の上から云っても今回程、適当な機会はまたと再び得難かろうと思われる。由来日本は・・・一面からすれば至幸の極ではあるけれども・・・他国に負た経験のなき国である。従って惨敗に対する国民の試練上一大欠陥の存することは夙に識者の道破している所であった。然るに今回の災害に於いて天然との戦ではあるけれども実に言語に絶したる惨敗を経験した次第で、而もそれは深刻なる意味に於いて自業自得の結果であるとすればここに初めて国民が自己の責任に対する一大試練に逢うた訳である。苟も日本国民にして真に根底に力ある国民たらしめば、否、根底に力ある国民たるためには、静かにこの試練に堪えつつ、而も自業自得の理を観じて、将来を有利に転換するの策を講ずべき筈である。然らざれば、日本は之を縁として遂にその国運に於いて下り坂に向かう外に道がないことになろう。






 然らば吾等はいかなる覚悟と態度を以て将来に向かうべきか。細かに挙ぐれば勿論、種々あろうけれども吾人は次の三項を以てその最も重要にして且つ基本的なものと考えるものである。



一、科学的精神


 先ず第一は言うまでもなく、天然の脅威に対する吾等の防御法に就いてである。仰々今回の大災害に関しては気象台も地震学教室も遂に之を予知することが出来なかった。而してその災害の極烈なる僅か二日にして数百年に渉る文化の蓄積を破壊した計りではなく、所謂近代科学に基く設備も無残に破壊された。ここを以てか一部論者の中には早計にも科学の破産を叫ぶ人も少なくないようである。然り今回の大震災に対しては科学の余りに無気力であったことは争うべからざる事実である。しかし、之を以て直ちに科学の破産を絶叫するが如きは吾人の遂に賛成し得ざる所である。蓋し科学は大に進歩したといいながらも、全体的見地からすれば未だ真の初歩であって、到底、大自然の威力に対抗して遺憾なきを得るまで進んで居らぬからである。しかしそれにした所で、来たるべき大地震に関しては已に十数年前から種々の警告を発した地震学者もあり、従って之に処するの方法も、少なくも理論としては早く講ぜられつつあったではないか。寧ろ今回の震災をして、爾かく激甚ならしめた一因は確かに科学の成績を無視した罪にあったことは、前項已に述べた通りである。この意味に於いて吾人は科学の力の未だ極めて弱きことは充分に承認しながらもその破産説に対しては断じて反対せんとするものである。寧ろ今後、自然の機微を捜り、之を吾等に有利に導くためには矢張り、科学の研究を益々盛ならしむべく、科学的精神の発揚を以て復興精神の一大要素たらしめねばならぬ。即ち地震学の如きは日本か伊太利かに於いて真に完成せらるべきものである限り、日本学界の義務としても今後益々その研究を進むるの要あり、又都市の建設に関しては、今後百年の間に再びかかる地震があるものと予定して、而も大体に於いてその損害の軽微たるに止まるよう最新の科学的成績を応用して設備するの必要がある等、少なくも物質的施設に関する限り何事に関しても科学的であらねばならぬ。徒らに復興の時期の早きを期して百年の計を怠るが如きは断じて自業自得の訓戒に応ずる所以ではない。



二、道徳的精神


 更にこの訓戒に応ずるの道として吾等の大に注意すべきは、その道徳的生活に於いて一層深刻に一層厳粛に考慮するの必要あることである。一体、吾等日本人の最大欠点というべきは真に確実なる人生観を有せないで、稍々もすれば浮調子な考えを以て世に処することであった。当座の間に合せさえつけばそれでよしとして深く内に省みるという風の欠けた処にあった。殊にこの欠陥は世界大戦の結果として、日本の経済的好況につれて一層著しく現われて来たことは蔽うべからざる事実である。少し許りの余裕に忽ち有頂天となり、浅薄なる現実肯定に案じ、徒らに浮華に流るるの風潮を致したことは今更改めて言うまでもない所である。かくして之に伴いて思想の動揺となり、公徳私徳の廃頽となり、社会の種々の方面に於いて種々の欠陥を表わしつつ、以て今日に及んだのである。殊に吾人の最も遺憾とする所は、この欠陥が今回の災害に際して著しく暴露されたことである。


 この機会を利用した所謂職業的不逞漢のことは敢えてここで問わざる所、平常善良の民を以て任ずるものでも、社会的秩序の乱れに乗じて種々の罪悪を犯したり、ありそうにも思われぬ流言蜚語に愕いて却って災害を大きくしたり、殊に例の鮮人一揆の流言に対する恐怖心より惹いて所謂自警団の血迷える行動となれるが如き、その他挙げれば大小殆ど無数の欠陥となって表れて来たのである。而もかくの如きは全く平常の浮調子的生活のここに崇った結果で、つまり生活に対する真剣の態度を欠き人生に対する道徳的理解の欠乏から来たものに外ならぬ。而してこの結果として独り罹火地の住民許りではなく、広く日本人全体が有形、無形にいかに多くの損失を加えたかを思えば実にこの道徳的欠陥は災害を二重にしたというも敢えて不可なかろう。否、進んで言えば、今回の災害の大部分は独り吾等が物質的方面に対して注意の疎漏であった罪許りではなく、深刻なる意味に於いて道徳的欠陥に対する応報であると解しても然るべしと思う。


 従って言うまでもなく、この災害を機として日本人全体に真剣質実の気風を養い、同情心の滋養につとむる等、道徳的に覚醒するのがその罪を償うの根本条件であらねばならぬ。而もこは亦、将来禍を転じて幸福となるべきの契機点である。

 試練に堪えるということは、決して単に物質的苦痛に堪えるという意味許りではない。これを機として自己の欠陥に醒め、之を改造して新たなる出発点より勇ましく進展し行く所にあることを忘れてはならぬ。



三、宗教的信念の発揮


 最後に復興精神の最終根底として、ここに吾人の大に反省せねばならぬことは、永遠を求むるの心、即ち宗教的信念に就いてである。前述の如くこの災害前後に渉りて日本人は種々の欠陥を暴露した。而して之を更に道徳的立脚地より眺むれば道徳的欠陥の発現ではあるけれども更に遡りて考えれば、そは実に宗教的信念の欠乏に遠因すということが出来る。蓋し近時、民心が次第に目前の利害と苦楽とのみに専注するようになったのは、その道徳的欠陥を来すの原因であるけれども、更に遡れば、そは要するに永遠の問題を度外視した所から来ているからである。ここを以てか真に道徳の基礎を確立し更に魂の安住地を求むるためには進んで宗教的信念にまで到らねばならぬのは勿論である。而もこの事は頻出する社会的欠陥や人心の動揺を憂うる人々の夙に唱導し来った所である。乍併、実をいえばこの事を一般に痛感せしむることは、道徳感のそれよりも一層困難なことであった。道徳は何程か社会的制裁を伴う限り、少なくも表面は、之に従うの義務あるに反し、宗教的信念となれば、事、自内證に属するので、目前の利害にのみ奔走している民衆にとりては、動もすれば迂遠と思わるる節があるからである。

 然るに幸か不幸か今回の大震災は、この点に於いてもまた最も大なる警告となって現われた。


 思え、昨日までは粗末ながらも、ともかく東洋の大都市として政治、商業、文化の中心地として世界に重きをなした東京や横浜ではないか。それが僅か二日にして全くの灰燼に帰し文字通りの荒野になろうとは誰が思い設けたことであったか。大正十二年九月一日正午まではともかく紳士であり淑女であり富豪であった京浜の住民が翌日には裸一貫の素寒貧になろうとは誰か予期したことであったか。況して半日足らずにして、十数万の男女が無残なる変死を遂げようなどとは所謂文明の今日、想像さえなし得ざる事実ではないか。而もそれ等は何れも厳然たる事実として現出したではないか。思えば、吾等はここに無限の寂謬を感ぜざるを得ざるものがあろう。古臭い言い分なれど、吾等はここに諸行無常・是生滅法の理法を痛切に見せつけられた訳である。かくして吾等は退いて深刻に考えて見ねばならぬ時期に到達した。地上のものは一切亡ぶるも亡びざるものは何かと。ここに即ち生活を支えるの根底として永遠を求むるの心は自然に打開し来るべき筈である。勿論その永遠をいかなる形に於いて捕えんとするかは本より面倒な問題ではあるけれども、ともかく何等かの形に於いて之を求めむとする心を起すべき絶好の機会に遭遇したということは争うべからざる事実である。而も聞く所によれば実際一部民衆の間には、今回の大災害によりて痛切なる懐疑心と同時に深刻なる宗教心が醸成しつつありということであるが、吾人は之を至当の道行で且つ慶すべき現象と思うものである。ただ望む所は、そをただ一時の感激に止めないで、之を機として深く永遠を求むるの心を養うことである。然らざれば時日の経過に従いて次第に微温的となり、遂に再び元の無反省的生活に戻るの恐があるからである。


 勿論吾人はかく言ったからとて、徒らなる無常観には断じて賛成するものでない。寧ろ現実生活の不安を出発点として永遠性に憬るる心の起こることは、ただに物質生活に於いて失われたる損害を精神的に恢復するの道たる許りではなく、道徳に根底を与え、延いて復興精神に形而上的意義あらしむる所以と信じて、特にその消極的方面の意義を重要視する次第である。


 とにかく吾等日本人はこの機会にも少し反省的となり宗教的となり、物質問題以上、更に霊界の問題に就いて考慮するということは、いかなる意味に於いても極めて必要なことで、而もそは大災害の教訓に応ずる最後の道たることを忘れてはならぬと思う。(大正十二年十月十五日)




(木村泰賢)