< 留まれ、お前はいかにも美しい >
ああ、これでおれは哲学も、
法学も、医学も、
また要らんことに神学までも、
容易ならぬ苦労をしてどん底まで研究してみた。
それなのにこの通りだ、可愛そうにおれという阿保が。
昔よりちっとも利口になっていないじゃないか。
マギステル(学位)だの、ドクトル(学位)とさえ名のって、
もうかれこれ十年ばかりのあいだ、
学生の鼻づらをひっ掴まえて、
上げたり下げたり斜めに横に引き回してはいるが・・・
実は我々になにも知り得るものでないということがわかっている。
それを思うと、ほとんどこの心臓が焼けてしまいそうだ。
それはおれだって、やれドクトルだ、やれマギステルだ、
学者だ坊主だというような己惚れた連中よりはましであろう。
おれはいわゆる懐疑や疑念に悩まされはしない、
地獄や悪魔も怖ろしくはない・・・
その代わり、おれはあらゆる歓びをうばわれてしまった。
ひとかどのことを知っているという己惚れもなければ、
人間を良い方にみちびいて、改心させるため、
これぞということを教えるだけの自信もない。
そのうえ財産や金も持たなければ、
世上のほまれだの華やかさなどというものも持ってはいない。
これ以上こんな風にして生きてゆくことは犬にだっていやだろう。
そこでおれは精霊の力と言葉を通じて、
いろいろな秘密が啓示されやしないかと思い、
魔法に身をゆだねてみた。
そうすればおれも大汗をかきながら、
自分の知りもせぬことを言う必要もなくなり、
世界をその最も奥深いところで総ているものを
これぞと認識することもでき、
一切の作用をひき起す力と種子とを観照し、
もはや言葉の詮索をすることもいらなくなると思ったのだ。
おお、まどかな月影よ、お前がおれの苦痛をながめるのも、
今宵が最後であってくれればよいが。
おれはいくたびか真夜中に寝もやらず、
この机に凭(よ)ってお前の出るのを待っていたものだ。
そういうとき、憂鬱な友よ、
お前は本や書き物のうえに姿をあらわしてくれた。
ああ、なんとかして山の頂のうえを、
お前のやさしい光を浴びながら歩きまわれたら。
山の洞窟のあたりを霊たちと共に飛びめぐり、
草原を、お前の仄かな光の中にさまよい、
あらゆる知識のもだもだした空気から逃れて、
お前の露を浴びてすこやかになれたらよいが。
情けない、まだおれはこの牢獄の中にちぢみこんでいるのか。
呪わしい、陰気な壁の穴め、
ここへは懐かしい天日の光さえ、
絵をかいた窓硝子ごしに、ぼんやりと射しこむだけだ。
ここの場所ふさげとなっている本の山は、
紙魚に食われ、ほこりがつもって、
高い円天井のところまで、
煤けた紙で一一、付箋をさしはさんである。
瓶や缶の類がぐるりにおきならべられ、
いろいろの器械がつめこまれ、
それにまた先祖伝来の家具まで押しこんである…
これがお前の世界なのだ。これでも一つの世界だという。
それなのにまだお前は訝るのか、どうしてお前の心臓が、
胸の中で息苦しそうに圧迫を感じているのかと。
またどうして訳のわからぬ苦しみが、
お前の一切の生命の発動を阻んでいるのかと。
神は人間を生きた自然の中へ
造りこんでおいてくれたのに、
お前は煤やかびの中でただ
動物の骨や死人の骸骨に取り囲まれているではないか。
さあ、逃げ出さないか、ひろい世界へ。
それにはノストラダムスの自筆に成る
この一巻の神秘の書があれば、
道連れとしては十分ではないか。
そうすれば星辰の運行も会得できよう。
また自然によって教導をうければ、
霊と霊がどんなふうに語るかを悟る
魂の力がお前の中に目ざめてもこよう。
無味乾燥な思索にたよって、
この書の神聖な標を解きあかそうとしても無駄だ。
お前たち霊よ、お前たちはおれのそばに漂っているな、
返事をしてくれ、もしおれの言うことが聞こえるならば。
(その書を開き、大宇宙の標を見る)
ほほう、これを見ると忽ちにしてなんたる歓喜が、
おれの五官を通じて漲ってくることか。
若々しい神聖な生の幸福感が、
新たに燃えたって神経や血管の中を流れるのを感じる。
このように私の沸騰する気持ちをやわらげ、
あわれな胸のなかを歓びで充たし、
不可思議な促しの作用によって
自然のもろもろの力をおれの周りに露呈してくれるところの
こういう標を書いたのは、恐らく神ではあるまいか。
それともおれが神なのか。ひどく気持が冴えてくる。
この清明な一線一画をながめていると、
おれの魂のまえに、生きてはたらく自然が眼に映ってくる。
今にして初めておれは、あの賢者の言葉を了解した。
「霊の世界、鎖(とざ)されたるにあらず、
汝の官能塞がり、汝の心情死せるなり。
いざや学徒、不退転の決意をもて、
俗塵の胸を曙の光に浴びせしめよ」
(標に見入る)
まあどうだ、すべての物が集まって渾一体を織り成し、
一物が他の物のなかで作用をしたり活力を得たりしている。
天のもろもろの力が昇ったり降ったりして、
互いに黄金の桶を渡し合っている。
それらは祝福の香も高く羽ばたきしながら、
天から降って下界をつらぬき、
諧調をなして一切万有の中に響きわたるではないか。
なんたる景観であろう。が、惜しむらくは景観たるにすぎぬ。
限りもない自然よ、お前のどこを捉まえたらいいのか。
お前たち乳房よ、どこを捉まえよう。
お前たち一切生命の源泉よ、天も地もこれに懸って存し、
乾き凋んだこの胸の慕いよるものよ・・・お前たちは、
湧き出て万物に飲ませるのに、おれだけが餓えなやむのか。
(不興げに書のページをめくり、地霊の標を見る)
この標のおれに及ぼす作用はまたなんと違ったことだ。
これ、地の霊よ、お前のほうがおれには近い。
早くもおれにむくむくと力が高まってくるのを感じる。
早くもおれは新しい酒を飲んだように、身うちがほてってくる。
おれは敢えて世の中へ乗りだして行って、
地上の苦しみも地上の幸福をも担い、
根かぎり暴風雨とたたかって、
難破船のきしめきにも怯まない勇気をおぼえる。
おや、頭の上に雲がかかってきた・・・
月が光をかくす・・・
燈りが消える。
靄がこめる。・・・赤い光がチカチカと、
おれの頭のまわりに閃く・・・何やら鬼気が、
天井から吹きおろしてきて、
おれを襲う。
おれが切に招いた霊よ、お前は近くに漂っていると見えるな。
姿をあらわせ。
ほほう、心臓が掻きむしられるようだ。
おれのあらゆる官能が掻き乱されて、
まるで新しい感じが生まれてくるわ。
おれは自分の心が全くお前に委ねられているのを感じる。
あらわれろ、姿をあらわせ、命をとられてもいい。
(書を手にとり、地霊の呪文を神秘的な調子に唱える。赤い焔が閃き、焔の中に霊があらわれる)
おれを呼んだのは誰だ。
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あの山に沿うて沼沢地があり、その毒気が、
これまで開拓した場所をすっかり害なっている。
あの腐った水溜まりにはけ口を作るという
最後の仕事が同時に最高の開拓事業なのだ。
おれは数百人の人々に、安全とはいえなくとも、
働いて自由に住める土地をひらいてやりたいのだ。
野は緑に蔽われ、肥えている。人々も家畜も
すぐさま新開の土地に気持よく、
大胆で勤勉な人民が盛りあげた
がっちりした丘のすぐそばに移住する。
外側では潮が岸壁まで荒れ狂おうとも、
内部のこの地は楽園のような国なのだ。
そして潮が強引に侵入しようとて噛みついても、
共同の精神によって、穴を塞ごうと人が駆け集まる。
そうだ、おれはこの精神に一身をささげる。
知恵の最後の結論はこういうことになる、
自由も生活も、日毎にこれを闘い取ってこそ、
これを享受するに価する人間といえるのだ、と。
従って、ここでは子供も大人も老人も、
危険にとりまかれながら、有為な年月を送るのだ。
おれもそのような群衆をながめ、
自由な土地に自由な民と共に住みたい。
そうなったら、瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう、
留まれ、お前はいかにも美しいと。
この世におけるおれの生涯の痕跡は、
幾千代を経ても滅びはすまい。・・・
このような高い幸福を予感しながら、
おれはいま最高の瞬間を味わうのだ。
(ファウスト、うしろに倒れる。死霊たちが彼を抱きとめて、地面に横たえる)
み使の群よ、
天のうからよ、
暢びやかに翔りこよ。
罪びとをゆるし、
塵に帰せる者を、蘇らさんがため。
いざよう列をなして
漂えるひまにも、
生きとし生けるものに
恵みの痕をとどめよ。
かがやきに、よき香をおくる、
なんじ、うばらの花よ、
ひるがえり、宙にただよい、
ひそやかに、蘇らすもの、
小枝もて翼とし、
蕾より咲き出ずるものよ、
いそぎ行きて花をひらけ。
春よ、萌え出でよ、
紅の花も、緑の葉も。
いこえるものに、
楽園をもたらせ。
めでたき花と
うれしき炎は
心の望むままに
愛を世にひろめ
歓びをつくる。
まことの言葉は
浄きみ空にて
永遠なる群のため
至る所に光明となる。
いましらの性に合わぬは
いましらこれを避けて叶わじ。
いましらの心を乱すは
いましらこれを忍ぶ能わじ。
なお強いて迫り来らば
われら奮いて戦うあるのみ。
愛のみぞ、愛するものを
かの国へ導き入るる。
愛の炎よ、
澄める方へ向かえ。
真理よ、己が罪を
呪える者らを救え。
やがて彼ら心嬉しく
悪よりのがれ、
みなもろともに
浄福をうけん。
聖なる熱火よ、
この火にかこまるるものは
いのちを保ち、
よき人々と共に幸を覚えん。
みな相共に
起ちて祝(ことほ)げ。
空気は浄められぬ、
魂よ、息づけ。
(ファウストの不死なるものを運びつつ天使たち昇天する)
「ファウスト」(ゲーテ)より