< 夢 語 の 巻 >
〜 パラダイスロストの一節 〜
清(きよ)き微風(そよかぜ)そよそよに
緑色美(よ)き若葉の上(へ)
やさしく渡り、ささ川の
さざ浪(なみ)ゆかしき朝の曲(ふし)
静かに調(しら)ぶる頃(ころほい)よ。
アダム覚(めさ)めてそれとなく
尚も眠れるイヴの方(たか)
かへりみれば常ならぬ
憂雲(うきくも)纏(まと)へり、彼女の顔
譬へば春の曙の
霞(かすみ)かかれる薔薇の花。
アダム静かに手をかけて
揺すり起せば彼女いたく
物に怖(お)ぢたる憂き姿、
やをら涼しき眼を開き
かよわき胸を撫(さす)りつつ
軈(やが)て語りぬ昨夜(よべ)の夢。
『妾(わらは)が生命の脊(せ)の君よ
いと忌(いま)はしき夜の影
失せて跡なく今日爰(ここ)に
常に変らぬ妾(わ)が君の
あはれ懐(ゆか)しき顔(おも)の笑(えみ)
再び見るこそ嬉しけれ。
想ひ浮ぶるそれだにも
心根乱れ、毛やよだつ
あな恐ろしき昨夜(よべ)の夢
誰が聲音(こわね)とわかねども
妾が耳の邊(へ)いと近く
囁き出(い)づる聲聴けば。
「無情(つれな)のイヴよ起き出でね
月や静かに星笑(え)まひ
風は涼しく空清く
夕の光景(さま)の霊(く)しき哉
ナイチンゲールの妙(たへ)の曲(ふし)
聴くものなくば栄光(はえ)ぞなき。
緑の柳葉よ、眉の姿(さま)
紅の薔薇よ、頬の艶(いろ)
さて美(うる)はしき汝の姿
垣間(かいま)みなんと終夜(よもすがら)
えもまどろまぬ星の眼(まな)
あはれと想はば起き出でよ」。
聲や正しく脊の君の
実に懐しきそれと社(こそ)
妾は急ぎ起き立ちて
乱るる胸を抱きつつ
心も空にゆくりなく
御身の行方を追ひまつり。
智慧の木陰に辿(たどら)へば
昼には優(まさ)る花の色
香(かをり)やいとど薫(かぐは)しく。
いぶかりつつぞ眺むれば
傍(かたへ)に佇(たたず)む影一人
姿(さま)あてやかの天人(あまびと)よ。
同じ梢(こずえ)を仰ぎつつ
「あな美(うる)はしの智慧の樹よ
枝もたわに実れども
いましは神に、人々に
他見(よそめ)ならば何時しかも
重荷の肩を休めえん。
智慧はしかくも陋(いや)しきか
否(あら)ず、人には授(さづ)けじの
御意(こころ)か、さらば何どもかく
此処には植えておはすなる?
「天」の禁制(とがめ)の不可思議(いぶかし)や
いで、汝が肩を休(やす)えん」と。
大胆(こころづよ)くも臂(ひぢ)伸べて
禁制の実をば怖(お)ぢずとり
喰(は)みては舌を打ち鳴し
「あなや尊き智慧の実よ
枝にて見しゆいや遥か
口には甘き味(あぢはい)や。
人をも神にすといへば
実に彼の「天」の禁制も
然(さ)ることながら如何(いか)ばかり
神のその数増さばとて
全能のみ光何ど減らん
御心(みこころ)狭きことなりや。
いざや、織姫星(たなばたひめ)の如(ごと)
いと華車(あてやか)のイヴ姫よ
御身も美味(くはしみ)あぢはひて
入りね、栄光(はえ)よき女神の簇(むれ)、
狭き地球の檻(をり)出でて
心の自由(まま)に天翔(あまがけ)り。
星の世界の華の園
薫に酔ひて逍遥(さまよ)へ」と
妾が口に美味(くはしみ)を
投げ入れたりしその後は
夢路に迷う心地して
彼の天人(あまびと)に連れられつ。
舞ひて昇るは雲の空
遥かに腑(み)るは山と川
自(みづか)ら此の身の飛行(とびゆき)の
あまりの疾(とき)に驚きて
ふと足許(あしもと)を見し間(ひま)に
手引の神は消え失(う)せき。
呼べど叫べど応答(いらへ)なく
あはや落ち来し地(つち)の上
尚も覚(めさ)めでいぶかしく
夢の浮橋辿(たど)る時
清くやさしくなつかしく
妾か耳に君の聲」。
聴くも忌(いま)はし夢語
アダムも痛く驚きつ、
さはれ正(まさ)なき怪(くし)の夢
心に染むる想い社(こそ)
女々しの烏滸(をこ)よおろかしと
ようよう気(こころ)とり直し。
悲しく、涙さしぐめる
イヴを慰(なだ)めつ、励ましつ
旭(あさひ)映え美(よ)き野に出でて
朝(あした)の祈祷(いのり)聲高く
しばしみ空を仰ぎつつ
祈りぬ、「天」の庇霊(みたすけ)を。
胸の憂き雲晴るる時
名も高砂の浦風に
千歳の松の落葉かく
年尚ほ若き尉(ぜう)と姥(うば)
それにも似たるアダム、イヴ
楽しき朝(あした)の仕事(わざ)ものす。
〜 入江花錦 〜