< 人の心をもととして >
~ 紀 貫之 ~
日本の歌は、人の心をもととして、かぎりもないさまざまの言葉となってあらわれたものである。 社会に生存している人は、いろいろの事に出会い、いろいろの行いをするものであるから、心に思うことが多いが、その感ずる事を見るもの聞くものに託して言いあらわしたのが歌である。 梅の花に鳴いている鶯、清らかな川の水に住む河鹿のたのしげな声を聞くと、一切の生命をもっているものの、どれといって、歌を詠まないものがあろうか。 生物はみな歌を詠んでいるのである。
力をも入れることなく天地の神々を感動させ、眼には見えない死者の霊魂をも感激させ、男女の関係をも親しくさせ、めったに感激などしない勇猛な武士の心までもなぐさめるものは歌である。
このような歌は、天地のはじめて創られた時から生まれたのである。 けれども、この世に伝わっている上では、高天ヶ原では下照姫の歌にはじまり、地上では素戔嗚尊の歌からおこったのである。 神代には歌の文字の数もまだ定まっておらず、心のままに、すなおに歌ってたので、歌われていることの意味も理解しにくいものであったようである。 人間の世の中になってから、三十一文字の定型短歌を詠むようになった。
このように短歌の形式が定まったので、花の美しさを愛で、鳥の楽しげなのをうらやみ、春の霞や秋の露の趣に深く感動して歌った歌は、多種多様なものができて来た。
遠方へゆく旅も、出発する第一歩からはじまって、年月を経て目的地に達し、高い山も麓の塵からできて、空の雲のたなびくところまで成長しているように、この歌もまたそれとおなじであろう。
あの「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」という歌は、天皇の御代のはじめを祝った歌である。 「安積山影さえ見ゆる山の井の浅きこころをわが思はなくに」という歌は、陸奥の采女が戯れのこころから詠んだもので、この二首の歌は、歌の父母のように今もなつかしまれ親しまれて、習字をする幼い人が最初に習うものにもしている。
そもそも、歌の体は六つある。 唐の詩もこのようであろう。
その六種類の第一には、「そへ歌」がある。
仁徳天皇をなぞらえ奉った歌、
「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」
(難波津に咲く木の花よ、フユゴモリ今を咲くべき春として咲く木の花よ)
というのが、それであろう。
第二には、「かぞへ歌」がある。
「咲く花に思ひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるも知らずて」
(うつくしく咲く花に心が寄ってゆく身の<またはつぐみの>、つまらなさよ。 からだに病いの<いたつきの矢の>、入りこむのも知らずに。 「思ひつくみ」に小鳥のツグミを詠みこみ、「いたつき」に病気のいたつきと小鳥を射るに用いたいたつきの矢とを掛けてある)
というのが、それであろう。
第三には、「なずらへ歌」がある。
「君にけさ朝の霜のおきて去なば恋しきごとに消えや渡らむ」
(君が今朝、朝の霜の置くように、わたしを後に残しておいていってしまったならば、恋しいと思うたびごとに、霜の消えるような悲しみをしつづけることであろうか)
というのが、それであろう。
第四には、「たとへ歌」がある。
「わが恋はよむともつきじありそ海の浜の真砂はよみ尽すとも」
(わが恋の思いのかぎりもないことは、数えても数えつくせないだろう。 たとえ、海の浜辺の砂の数はかぞえつくそうとも)
というのがそれであろう。
第五には、「ただごと歌」がある。
「偽のなき世なりせばいかばかり人の言の葉のうれしからまし」
(もし偽というもののない世であったならば、いかばかり、わが思う人のいわれた深切な言葉が、うれしくあることだろう)
というのがそれであろう。
第六には、「いはひ歌」がある。
「この殿はむべも富みけりさき草の三つば四つばに殿造りせり」
(この御殿は、聞いていたように、いかにも富んでいることだ。 三棟四棟に殿を造っている)
というのがそれであろう。
けれども、今の世の中は、真実を重んじた時代とはちがって、人のこころが派手に、華やかになってしまったために、歌もまたそれに応じて、色めいた甘い歌、真実に乏しい感傷的な歌ばかりが生まれてくるので、恋愛をする者どうしの間でひそかに心をかよわすものとなり、地下に埋まった木のように、他人には知られないものとなって、宮中などの正式な席では、おもてだっては詠まれぬことになってしまったのである。
しかし、歌のはじめを思うと、このように堕落した状態ではなかった。 昔の代々の天皇は、春の花のうつくしい朝、秋の月の清らかな夜ごとに、侍臣たちを召して、その場合のしかるべきことに関係させて歌を詠ませ、奉らせた。 侍臣たちが、ある時は花をたずねようとして不案内なところに迷い、ある時は月を思うとて案内者もない闇の路にたどって行っためいめいの人の心を、天皇はごらんになって、賢いか愚かかを試されたであろう。 歌はこのように宮中の正式な場合に詠まれたけれど、それだけではなく、めいめいが自由に詠むさまざまの歌があった。
さざれ石にたとえて君の長寿を祝い、
「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」
(わが君は、千年も八千年も在しませ。 小石が巌と化して、その上に苔の生えるまでも)
筑波山にたとえて君のめぐみを願い、
「筑波根のこのもかのもに蔭はあれど君がみ蔭にます蔭はなし」
(筑波山の、此方の面彼方の面に木蔭はあるけれど、君の御蔭すなわち御庇護にまさる蔭はない)
よろこびが自分の身に過ぎ、楽しみが心一つにありあまる気持ちを詠み、
「うれしきを何につつまむ唐衣袂ゆたかに裁てといはましを」
(この嬉しさを何に包もう。もしこうと知っていたなら、衣の袂を広く裁てと言いつけたであろうものを)
富士山の噴煙に胸の炎をたとえて人を恋い、
「人知れぬ思ひを常にするがなる富士の山こそわが身なりけれ」
(人に知られぬ思いの火を常に燃やしている、駿河にある富士の山こそは、このわが身の状態であるのだ)
松虫の音に友をしのび、
「君しのぶ草にやつるる故里は松虫の音ぞ悲しかりける」
(君を恋い偲び、忍草の生えて見苦しくなった故里の家には、君を待って、松虫の音がとりわけ悲しく鳴いていることだ)
高砂や住吉の松も自分ともろともに生い立っているように長生きなのを思ったり、
「たれをかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」
(誰を知合いの人としようか。この高砂の松の、命長いのも、昔からの友ではないのに)
男山の昔を思い出して自分の盛りのころをなつかしみ、
「今こそあれ我も昔は男山さかゆく時もありこしものを」
(今はこのように老いて世に忘れられているが、われもまた昔は、男山の坂をゆく、そのさかと同音の、世に栄えてゆく時もあって、生きて来たものを)
女郎花の盛りの短さをくよくよとなげくのなどにも、
「秋の野になまめき立てる女郎花あなかしがまし花も一時」
(秋の野に、なまめいて、群れ立っている女郎花よ。ああ、やかましい、美しい盛りもしばらくの間だ)
みな歌を詠んで心のなぐさめとしたのである。
また、春の花の散るのを見、秋の夕暮れに木の葉の落ちるのを聞き、ある時は年の加わるごとに鏡にうつる白髪の雪と、皴の波とを悲しみ、草の葉におく露、水にうかぶ泡をみて自分もそのようにもろいものかと驚き、ある時は、昨日は栄えおごっていた者が今日はおちぶれ、
「いにしえのしづの苧環いやしきもよきも盛りはありしものなり」
(古えの倭文織の苧環には、麻糸を弥繁く巻くが、それと同音のいやし、すなわち賤しいわが身にも、貴い人にも、同じように、盛りの頃があったのである)
世の中にくらすのがわびしくなり、親しかった人も間が遠くなり、あるいは松山の波をたとえて恋する人に誓いをかけ、
「君をおきてあだし心をわが持たばすゑの松山浪も越えなむ」
(君をよそにして、二心を私が持つようなことがあったならば、あのすえの松山を、海の浪が越すでしょう)
野中の清水を汲んでは昔を恋い、
「いにしえの野中の清水ぬるけれどもとの心を知る人ぞ汲む」
(昔、水の良かった野中の清水は、今はぬるくなっているけれど、もと清冽な水を湧かした、その深い心を知っている人だけが、懐かしんでは汲む)
秋の萩の下葉が紅葉しはじめる夜ねむれずに人を恋、
「をみなへし秋の野風にうち靡き心一つをたれに寄すらむ」
(おみなという名を持つ女郎花は、秋の野風に靡いて、人に靡いているが、一つの心を誰に寄せるだろう)
暁の鴫の羽がきの音を数えて久しく訪ねて来ない人を恋、
「暁の鴫のはねがき百羽がき君が来ぬ夜は我ぞ数かく」
(暁に聞こえる鴫の羽掻の音の、あの百の羽掻の音よ。君の訪ねてくれぬ夜は、この鴫にまさって、自分の方が、眠れぬために、床の軋みの音を立てる)
人生のつらいことを人に言い、
「世に経れば言の葉しげきくれ竹のうきふし毎に鶯ぞ鳴く」
(世に暮らしていると、人の私に対しての非難の言葉が多く、その葉の繁さは、眼前の呉竹のようであるが、その浮き立つ節ごとに鶯の鳴き入っていると同じく、私も憂い場合ごとに、泣き入っている)
吉野川をたとえにして夫婦の愛情をうらむ心を歌ってきたのであるが、
「ながれては妹背の山のなかに落つる吉野の川のよしや世の中」
(流れての末には、妹山背山の中間に落ち流れる吉野川のように、よし、ままよ、夫婦に中は、そうした隔ができるものだ)
今は、昔立ちのぼっていた富士の噴煙も立たなくなり、昔の長柄の橋もふたたび造る時になったのだと聞く人は、
「世の中にふりぬるものは津の国の長柄の橋と我となりけり」
(世の中で古くなってしまったものは、摂津国の長柄の橋と、自分とであることだ)
それらのことの詠まれている歌によってのみ、昔をしのんで、心をなぐさめるのである。
~ 古今和歌集序 ~